富士之人穴見物①~野暮にマンガで教える江戸の通の道
富士山の噴火でできた溶岩洞窟を人穴という。人穴の名の由来は、洞窟内の壁が、助骨や乳房のような形をしていることからくる。神秘な様子から、聖地とされ、参詣にやって来る人も多かった。
本作品には、鎌倉幕府の御家人、仁田四郎忠常が出てくるが、彼は大猪を退治して、富士の人穴を探検したことで知られる。彼の「仁田」という名字は、「平家物語」にしたがって「にたん」と読み、本作品では仁田四郎と呼ぶ。
「富士之人穴見物」は、山東京伝(1761~1816)作、北尾政演画、天明八年1788年、榎本屋吉兵衛出版の三巻三冊の黄表紙。まあ、北尾政演というのは、京伝の浮世絵師としての名前だから、実際は、山東京伝作画の作品となる。
この現代語訳(省略部分があったり、かなり意訳)を三回に分けて紹介する。
上巻
序
東海道中すごろく富士川編に曰く、富士の白酒名物云々、今、我が本店、京橋の伝蔵が売り広めた名酒は、似てはいないが仁田四郎酒、富士の名物にして、粋に近く、趣向はもとよりあまくはなけれど、世間の人の舌にて感じて、一度飲めばその味わい知るべし。ただいま京伝店にて絶賛販売中。
山東唐洲ここに記す。
一

「吾妻鏡」を見れば、建仁(1201~1204)のころ、源頼家の家臣に、仁田四郎忠常とて、五月人形で皆様ご存じの武勇たくましき人あり。背は六尺(約182㎝)あまりの大男なので、着物も一反では足りないので二反で仁田四郎と名乗りけるが、明け暮れ、剣術や軍学ばかりして、何かあれば主君のために討ち死にしようと、泰平の世に住むことを歯がゆく思い暮らす大極上上黒吉の大野暮にてぞありける。だから、女を見ることも嫌い、色気もなにも微塵もなし。
二

通りに並ぶ草双紙によくあるように、鎌倉の将軍、頼家公は通なることを好みたまえば、家臣の大小名、我も我もと大通をおこないける中に、仁田四郎のみ大の野暮にて、粋な話の相手にもならないので、頼家公、彼が野暮のままで一生を終えることを不憫に思い、なんとかして大通にしてやりたいとご評議なされた。
「真剣で足を切ってみせなければ傷薬も売れない世の中で、あのような野暮では世の中が渡れません」
「カボチャに砂糖ときな粉をかけて食べる世の中で、ほんとうに野暮な男でござります」
なんとかかんとか、そのようなことを言っていると、畠山重忠が、
「名にしおう石部金吉をやわらかにしてお目にかけよう」
と申し出る。
三

畠山重忠、仁田四郎の家にやって来て申しけるは、
「昔より、富士の人穴に妖怪が住んでいると言い伝えがあるが、この穴へ入った者は、再び出てくる者がいないので、どんな妖怪が住んでいるか、いまだに知ることがない。おぬしは、世間に知られた武勇の人なれば、この穴を探検できる者、おぬし以外になし。よって、おぬしを選び、この役をおおせつけられた将軍のお言葉、心得めされよ」
と、無性におだてて、仁田をその気にさせる。
仁田「お話、委細承知つかまつってござる。ここは一献、召し上げられてくだされましょう」
重忠「おぬしのあいさつは、歌舞伎のセリフを本で読んでいるだけのようだ」
四

仁田四郎は、かねがね、自分の武勇が世に知られていないことを残念に思っていたところがあり、このたびの仰せを受け、もし人穴で化け物に出会えば生け捕りにして手柄をたてようと、家来たちは麓の里におき、ただ一人、富士の人穴へ入る。
仁田四郎の家来、さんだんの九郎、
「もし、旦那、この穴へ入ると、原吉原(静岡県)へ抜けます。道中双六で事前に見ておきました」
仁田四郎の家来なので、さんだんの九郎というにもあらず、ものごとの算段に苦労する名前なり。いずれにしても、ばからしい名前の由来なり。
五

かくして、仁田四郎は人穴へ入り見れば、四方真っ暗で何も見えず、松明五本に火をつけて行くほどに、頭上からは冷たいしずくが落ち、さもものすごきありさまなり。
仁田四郎、文武両道の勇者なれども、悲しきかな、世の中の事情にうとく、人穴のお先真っ暗が、まったくわからず、とんだ無茶な旅立ちなり。
さてさて仁田四郎の人穴探検はどうなるか。次回につづく、
黄表紙の始まりといわれる恋川春町の「金々先生栄花夢」(1775年)の現代語訳は、こちら、
黄表紙の代表作、山東京伝の「江戸生艶気樺焼」(1785年)の現代語訳は、こちら、
これらの中に、他の黄表紙の紹介もあるので見てほしい。
