富士之人穴見物③~江戸の通とは何かを知る絵物語ここに完結
野暮な鎌倉幕府の御家人、仁田四郎が、江戸っ子や女郎の生活を知りながら通になっていくという趣向の作品、黄表紙「富士之人穴見物」は、山東京伝(1761~1816)作画、天明八年1788年、榎本屋吉兵衛出版の三巻三冊。
この現代語訳(かなり意訳の入門書)を三回に分けて紹介する三回目、最終回。
下巻
十三

この男の案内にて、仁田四郎は、人穴が明るくなり、今まで野暮に暮らしてきたことを残念に思い悔やめば、この男、いよいよ仁田を大通に仕立て上げようと、髪を直し、粋な衣装を着せれば、とんだいい男となる。
男「後ろを向いて見せな。羽織の丈も短くもなく長くもなく、妙なり妙なり。袴は虎皮だったので、質屋に売ってやりましょう」
十四

それより二人は一緒に「吉原の花の穴」を見物する。
仁田四郎は、この景色を見て、はじめて肝をつぶす。
女郎げざみ「あれ、向こうから来るのが、玉屋の小紫、松葉屋の瀬川、その後の振り袖が花扇さ、その後が鳰照さ。わっちは、女郎のげざみというものだ。向こうの茶屋で客を待っているのが丁字屋の雛鶴に鶴屋の菅原だ。着ているのはかたばみ屋勘兵衛が縫った衣装だ」
女郎「長崎屋にふせんさんとぎょううさんがいさっしゃるから、よろしくもうして来ておくれ。早くよ」
女郎「湊屋にいなんすは、たしか、らいがさんざんすよ」
女郎「菊園さん、近江屋に、くらさんがいなんしたよ」
ちなみに、菊園は寛政二年1790年に京伝の妻となっている。
十五

この男は、仁田四郎に昼三女郎を買わせければ、初めて五つ布団の上で楽しみ、早くも夕暮れのカラスの声がして、茶屋の男、
「はい、お迎えでござります」
と言う。別れを惜しみ、いつまでもこの穴にいたいと思えば、またあの男が来て、
「今こそ、なんじ、通の道をあきらめたり。やめるときにやめないのは通の道にあらず。早くこの穴を通り抜けて、このことを、主君、頼家公へもうしあげるべし。穴だけに、あなかしこ、あなかしこ」
とぞもうしける。
十六

仁田四郎は、人穴のぬけ穴を通りぬけ、外へ出れば、初めて夢からさめたここちがする。この人穴を通りぬけてから、通のことを「とおり者」というようになった。また、道楽をすることを「穴はいりをする」というのも、ここからのたとえなり。家来は穴に入らず、里で待っていて野暮のままなので、野暮のことを「里」というなり。
昔より、この穴に入った者は、再び出たものはなし。これは、そこで楽しみをやめなかったためなり。
仁田四郎は、穴からぶらぶら出てくる。
仁田「なんと見違えたか。これから重ぼうのところへ行き、鎌倉の宿六に、たくさん話があるさ」
家来のさんだんの九郎「これは旦那様、なんというお姿におなりなされた。その髪型は直されるべきですぞ」
家来「わが主人はご乱心なされたそうな」
仁田「そんな野暮は、言いっこなしさ」
十七

畠山重忠の計画により、大野暮の仁田四郎を大通となしければ、頼家公、
「どうでも重さん、粋じゃのお」
と感心し、ご褒美をあたえたまう。
また、人穴を案内した男は、駿河二丁町(遊郭)で有名な大通、酒楽、酒楽齋滝麿という狂歌師なり。重忠と懇意にしていたので、この芝居をたのまれ、地獄と見えたのも、吉原の女郎と見えたのも、客と見えたのも、みな二丁町の女郎と太鼓持ちなり。
このとき、人穴に吉原をうつしたので、富士のふもとに原吉原の地名が残りける。
頼家「駿河の酒楽とは聞いた名だ。浮世絵にもなった男だ」
酒楽「忠常様、今まで失礼いたしました。初鰹と見えたのは、本当は塩漬けのカツオさ」
仁田は、主君の思いをありがたく思う。
仁田「もう、どこへ行っても、ふられる心配はござりませぬ」
十八

仁田四郎忠常は、今は通となり、楽しみあきることなし。暴力の暴をなくし、「ぼう」は「べらぼう」の「ぼう」なりと悟り、遊びすぎないことを知り、昔は暴れ猪に乗っていたが、今は遊郭へ行く猪牙船にのみ乗る身となり、粋な新春をぞ迎えける。
めでたしめでたし
江戸の戯作者にとっては「通」を描くことが大切だった。
ところが時代はどんどん通から離れ、まじめまじめとなっていく。そして、黄表紙は消えていく。
まじめな寛政の改革の時代を皮肉った黄表紙にはこんなものがある、
酒楽齋滝麿という狂歌師が出てくるが、江戸時代に流行した狂歌についてはこちらも参考に、
