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文武二道万石通①~寛政の改革の裏話、ホンマかいな~蔦屋重三郎の出版物

 松平定信まつだいらさだのぶ寛政の改革かんせいのかいかく(1787~1793)を茶化ちゃかした黄表紙きびょうし、「文武二道万石通ぶんぶにどうまんごくとおし」は、朋誠堂喜三二ほうせいどうきさんじ(1735~1813)作、歌麿門人行麿ゆきまろ(生没年不明)画で、天明8年(1788)、蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろう(1750~1797)から出版された。
 タイトルの「文武二道ぶんぶにどう」とは、「ぶん」と「」のこと。寛政の改革で、武士に対しては、学問と武芸を奨励しょうれいしたことをす。「万石通まんごくとおし」は精米せいまい器具で、米とぬかを二つに分ける。「文武二道ぶんぶにどう」に振り分けるという意味。
 作者、朋誠堂喜三二ほうせいどうきさんじは、本名平沢常富ひらさわつねとみ、佐竹藩の江戸留守居役るすいやくという重要な地位をめていた。寛政の改革の裏話なども知っていたことだろう。ただし、この作品を発表したことにより、藩主佐竹義和さたけよしまさから注意され、以後、黄表紙は作っていない。

 上中下三巻の現代語訳(かなり意訳)を三回に分けて紹介する。

 


上巻

 つう野暮やぼあるが国で、鎌倉一の知恵ちえ者の畠山重忠はたけやましげただの計画で、時の大名小名を、富士の山にてはじかかせ、けて流れて大磯おおいそで、文武二道ぶんぶにどう万石通まんごくとおしで仕分けした、そのお話を、山のふもと蔦重つたじゅうの、求めに応じて喜三二きさんじ作す。

 


 頼朝公よりともこう、お前の人を退しりぞけておおせけるは、
「いかに重忠しげただわれ、天下を統一してより、日本の大名、小名、安堵あんどの思いをしているけれど、武道におこたる心が生まれる。泰平の世とはいうものの、文道だけではだめだろう。今、鎌倉の大小名、にかたぶく者はどのくらい、にはやる者はどのくらいか、それをなんじの知恵で調べておくれ」
重忠「所詮しょせん文武ぶんぶそなえた武士はいないので、どちらかへ片寄かたよったものです。また、文でもなく武でもない、ぬらくら武士の多いことでしょう。みごと文武二つに分けてお目にかけましょう」

ひかえている武士「お人払ひとばらいの御用ごようは何だろう。なんだか分福茶釜ぶんぶくちゃがま剣菱けんびしのお酒を飲むというような声が聞こえた」
武士「秩父殿ちちぶどのこと畠山重忠はたけやましげただ様は、生・老・病・死の四相しそうさとっているというが、使僧しそうというからには、お寺から使いが来ることをさとっているのかね」
武士「さすれば、サイコロの目が四三しそうになったということかね」
 
 頼朝の姿が若く描かれるが、これは、時の将軍、徳川家斉いえなりが、まだ十三歳であったことを暗示あんじし、「重」の文字の入った服の重忠の服の模様は五べんの花びらの梅の花となっている。梅の家紋かもんは、老中松平定信まつだいらさだのぶを暗示している。

 


 かくして、重忠しげただ、はかりごとにて、
「富士山の中に不老不死ふろうふしの薬あり。鎌倉の大小名だいしょうみょう富士の人穴ひとあなより入り、この薬を求むべし」
おおせわたされければ、不老不死の薬と聞き、みなみな、富士の人穴にぞ入りける。
 重忠、神楽堂かぐらどう禰宜ねぎのような身ぶりで指図さしずする。
重忠「見合みあわせて見合わせて、ぶつからないように注意注意」
男「人穴ひとあな三文さんもん三文(一山三文ひとやまさんもんのダジャレ)」

 


 富士の山、穴の中の様子ようす

文雅洞ぶんがどう
不許無文雅之心者入此洞中ぶんがのこころなきものはこのどうのなかにはいるをゆるさず
俗物ぞくぶつの行かれぬ所だ」

長生不老門ちょうせいふろうもん
「なんだかオツな、よさそうな所だのお」

妖怪窟ようかいくつ
柔弱輩不可入じゅうじゃくのやからはいるべからず
妖怪ようかいがなんだ。どうってことねえ、入れ入れ」

 


 文武二道ぶんぶにどうに選ばれない、ぬかのような武士は、はじをかくことになるとも知らず、重忠しげただのはかりごとにのる。

文雅後洞ぶんがこうどう(出口)
 文道ぶんどうに心ある人は、みなこの穴へ出る。

長生不老門ちょうせいふろうもんぬけみち
武士「あいたたた、もう鉱山こうざん採掘場さいくつじょうのような穴はいやいやいやよ」
武士「このねばねばするのが不老不死ふろうふしの薬かのお。なんともいえぬ穴のうるおいだ。これこそ長生きの愛の泉だろう」
武士「体がぬるぬるでローションのようだ。どうもいいにおいにふらふらする、ああ、どうもどうも」
武士「これが本当の穴へはまったというものだ。あなあなあな」
 ぬけ穴の口に、とろろじるをこぼしておいたゆえ、みなみなすべり落ちる。これ、ぬらくら武士へのあてつけなり。

妖怪窟ようかいくつ裏口
武士「妖怪ようかいども、おれたちを恐れたようで、一匹も出てこないぞ」
武士「はりあいがないなあ」 


 画面右上は七曜星しちようせい家紋かもん。その家紋の模様もようの服が、中央下左画面の倒れている人物。七曜星の家紋といえば、寛政の改革(1787~1793)の前の時代、田沼時代(1767~1786)の田沼意次たぬまおきつぐ(1719~1788)を当時の人々は連想する。
 他の人物も漢字が書いてある。画面左下の「赤」は、田沼一派の元勘定奉行かんじょうぶぎょう赤井豊前守ぶぜんのかみ。「松」は、松本伊豆守いずのかみ。「土」は、土山宗次郎つちやまそうじろう。その上「長生不老門ぬけみち」の周りの「三」は、三枝土佐守さえぐさとさのかみ、「横」は、横田筑後守ちくごのかみ。「文雅後洞ぶんがこうどう」の「根」は、勘定奉行、根岸鎮衛ねぎしやすもり。それぞれ田沼の側近と考えられる人物だ。これらの文字は、さすがに再版では別の漢字に代えられている。
 また、田沼時代には、鉱山こうざん採掘さいくつが進められた。余談よだんですが、そのため鉱山の知識を持っているエレキテルの平賀源内ひらがげんない(1729~1780)が田沼時代に活躍することとなる。

 


重忠しげただ文人ぶんじんより武勇ぶゆうの人が多くいました。しかし、どちらにもならぬ、ぬらくらの方が多くござります。さてさて、かくのごとく仕分しわけましたのは、米とぬかを分ける千石通せんごくとおしからの思いつきでござります」
頼朝「文より武が多かったのは、めでたしめでたし。長く世の中が落ち着くと、自然と文が多くなる。おれが心配するのは、そこのことだ」

 


 これにて上巻はおしまい。
 文でも武でもない、ぬらくら武士をどうするか。
 中巻へとつづく、

 


余談の平賀源内については、こちらも、

 

黄表紙の始まりといわれる「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」の現代語訳は、こちら、

黄表紙の代表作「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」の現代語訳は、こちら、

 これらの中に、他の黄表紙の紹介もあるので見てほしい。
 

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