文武二道万石通③~寛政の改革の裏話、ついに完結
寛政の改革の裏話を知っているだろう佐竹藩の江戸留守居役平沢常富が、戯作者となって描く寛政の改革の裏話をもとにした空想物語。
朋誠堂喜三二(1735~1813)作、歌麿門人行麿(生没年不明)画の黄表紙「文武二道万石通」(1788刊)、三巻のうち下巻の現代語訳の紹介。
文にも武にもならないぬらくら武士を箱根七湯に行かせ、それぞれを「文」と「武」に分けていく。
下巻
十五

重忠「茶道、香道、華道、蹴鞠、俳諧は、文道へ入れることができる。
碁、将棋、乱舞、釣り、網(投網)は、無理に武道へこじつけるがよい。
同じ浄瑠璃でも、|義太夫節《ぎだゆうぶし》は武道へ、豊後節と河東節は文道へ入れなければなるまい。楊弓、小鳥、めくりかるたの三つは、どっちにしたものだろうか」
本田二郎「楊弓は、弓があるので武道にし、小鳥を飼うことは不風流ながら、文といたしましょう。めくりかるたはどうなんだろう」
本田「底倉遊び(十四場面)の方々は、身ぶり、声色、相撲、拳、みなみな武の方へ記しましょう」
石臼「同じじゃんけんでも種類があって、本拳は文になり、虎拳は武にするさ」
重忠のまわし者、石臼芸助、いちいち帳面に書き留める。
お茶の茶道や香りの香道、生け花、乱舞、釣りや投網などが江戸時代の趣味としてあった。義太夫節は、語り口が激しく、豊後節、河東節は艶っぽい歌。楊弓は、遊びの弓矢。小鳥を飼育することも流行った。
江戸時代の町人は、そんな趣味を多く持っていた。黄表紙は、鎌倉時代を舞台にしながらも、挿絵には、服装からして江戸風俗が描かれている。
十六

芦の湯のてい(ようす) コロイド硫黄のアルカリ性のお湯、皮膚病、梅毒に効果(ホンマかいな)
皮膚病に効果のある芦の湯だが、さすがに大名なれば梅毒の皮膚病は一人もいなく、芦の湯へは誰も来ないとはいうものの、箱根に地獄の湯があると聞いて、地獄女郎がいるかとやってきて、女郎にやりこめられている者あり。
女、実は畠山重安「女とあなどって無礼のはたらき。わたしが相手になりましょうか」
醒「地獄女郎を誘ったのは、ほんの座興さ。いやならいやでいいさ。地獄と見えたのは、こっちのまちがいさ」
重忠の家来、半沢六郎、本田二郎、芝居の追い剥ぎ、定九郎のふりで、三人をためす。
本田「金があれば、ここへ出せ」
半沢「じたばたすると串刺しにするぞ」
三人「ふんどしばかりは、どうぞ許してくださりませ」
三人「命とふんどしはお助けくだされ」
十七

大磯のてい(ようす)
さて、あまたの大小名、湯場を出て大磯に泊まると、重忠の計画で、川を増水させ、川越えができなくさせたので、みなみな大磯に十四五日逗留し、うつつをぬかして楽しむ。
「なんぞおもしろい遊びはないか」
大磯では、ここが金のもうけどころだと、女郎や芸者は値上げをし、そばやお菓子にとうふまで値上げをし、小判を使ってお菓子を買うこととなる。
かくして三万両の借金ができ、これでは川止めが終わっても、帰るに帰れぬと、みなみな相談し、無間の鐘をついて金を出そうということになる。
十八

大名のつく無間の鐘なので、おのおのそろいの浴衣にして、池を手水鉢になぞらえ、百人で、
「三万両の金がほしいなあ」
という声は、雷が鳴るがごとく、ふり上げたひしゃくは、水車のばけもののように見える。大磯中の女芸者を集め、全員に歌わせる。
♪路銀には、どうして金の足りぬ身と、知らるる湯屋ぞ、つらきこと
歌が終わり、「一二三」のかけ声で、すでに打たんと振り上げる。すると、不思議や不思議、池の中からあらわれいでたる山吹色、合わせて三十箱、三万両が、ざぶりざぶりとあらわれる。というのも、これまた重忠の計画なるべし。
十九

重忠「この衣類、脇差し、覚えがござろう。今後、柔弱の心を改め、武道に励みたまえ」
大藤内・浅山・荒四郎「以後は、きっと改めますでござりましょう」
半沢「その節のおいはぎは、われわれ二人でござる」
本田「芦の湯にてのふるまい、主人の命令なれば、お許しくだされ」
重忠の息子、重安「地獄女郎と見えた女は、実はわたしさ」
隣の部屋の武士「今日はしたたか油をしぼられたようだ。なんと言われても返す言葉がないだろう」
二十

頼朝公、ぬらくらの大名小名を召して申されるには、
「先に、重忠にはからせたのは、文武の性格にふるい分け、ぬらくらの面々は、七湯にてさらし、大磯にて財産をなくし、文武二道に導いたのだ。今後、それぞれに文武の道を学ぶべし。けっしてぬらくらの心を持つべからず。今ここで戦があれば、とろろで戦はできないぞ」
いずれも「ありがとう存じたてまつります」
喜三二戯作(印は亀山人)
歌麿門人行麿画
この物語に描かれたような、武士を文武に分けるような調査が、実際に幕府の命で行われたようだ。そんな事実をウソの中にちりばめた本作品は評判になり、再版がつくられたが、そのときに田沼一派を暗示する漢字等は変更されている。
まあ、原本でも、一場面の源頼朝は、時の十三歳の将軍、徳川家斉を暗示しているが、最終二十場面の頼朝は、世間で知られている頼朝像となっている。つまり、最初から、ウソと現実がからみあった作品となっている。
この作品に関連して描かれた恋川春町の「鸚鵡返文武二道」は、こちら、
絵があり、文もある。こういう作品を読み解くのが、当時の読者の楽しみでもあった。
