見出し画像

鸚鵡返文武二道①~寛政の改革を描いた蔦屋重三郎発行の黄表紙

 世間では、蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろうが見直されているようだが、蔦屋重三郎が出版した黄表紙きびょうしも、再評価されてもよいのではないか。
 黄表紙は、毎年正月に発行されたので、今回は正月三が日連続投稿をする予定。


 江戸時代に、田沼時代(1767~1786)と呼ばれた政治は、田沼意次たぬまおきつぐ(1719~1788)が失脚すると、田沼に重用ちょうようされた者たちも追放された。
 そして、徳川家斉とくがわいえなり(1773~1841)が十三歳で第十一代将軍となったときに、白河藩主しらかわはんしゅ松平定信まつだいらさだのぶ(1759~1829)が老中となり寛政の改革かんせいのかいかく(1787~1793)を行った。
 松平定信まつだいらさだのぶは、文武二道ぶんぶにどう、学問(文)と武芸ぶげい奨励しょうれいし、倹約けんやくをすすめた。そのことを書いた文章、「鸚鵡言おうむのことば」(天明六年1786成立)を、人々が書き写すことが流行したという。

 物語の舞台を過去に時代設定し、現実の寛政の改革を茶化ちゃかしてえがいた、絵と文が一体となった黄表紙きびょうし作品が「鸚鵡返文武二道おうむがえしぶんぶのふたみち」(恋川春町こいかわはるまち(1744~1789)作、北尾政美きたおまさよし(1764~1824)画、寛政元年1789刊)である。
 蔦重つたじゅうこと蔦屋重三郎ゆたやじゅうざぶろう(1750~1797)から出版された、上中下三巻の現代語訳を三回に分けて紹介する。

 




 礼儀作法れいぎさほうを書いた「礼記らいき」の中の「曲礼きょくれい」にいわく、
鸚鵡おうむよく言葉を話せども、空を飛ぶ鳥であり、傾城けいせいよく言葉を使えども、ありんす言葉であり、われは、絵双紙えぞうし黄表紙きびょうし)を作るといえども、人マネ作品であり、鸚鵡おうむによく九官鳥きゅうかんちょうのようだ
という。
  寿亭ことぶきてい主人 春町

 


 醍醐天皇だいごてんのう(885~930)治世ちせい延喜えんぎの時代(901~923)、泰平たいへいの世の中が打ち続き、人々は贅沢ぜいたくにまかせ、きれいな服を着、むだなものを買いあさるのを見て、みかどは、着ていた八丈織はちじょうおりの着物、琥珀織こはくおりのはかま、高価なおびまで、寒い夜に脱ぎ捨て、粗末そまつな薄い服に着替きがえたまう。
 女御にょうご更衣こうい、着替えを手伝いける。
女御「次から下着は藍色あいいろになさいませ。黒は汚れが目立ちます」
帝「なるほど、ちんもそう思うぞ」
 さてさて、菅原道真すがわらのみちざね(845~903)、亡くなった後は雷となりて、自分をおとしいれた藤原時平ふじわらのときひら(871~909)やその取り巻きを打ち殺して後は、役人が少なくなったので、菅原道真の息子、菅秀才かんしゅうさい(物語中の人物)をし出され、天皇を助ける大臣となされたまう。
 菅秀才公は、まつりごとを行うにあたって、これまでの役人は藤原時平やその取り巻きの身内ばかりだったので、それらをやめさせ、本当に役に立つ人を見つけるまでは、とりあえず「昔の有名人」を使うほかないと考えた。
 泰平たいへいの世が続いたので、人々はぶんに流れ、にうとくなるものなれば、まず最初に武を習わせ、兵力を強くしようと、兵法、剣術指導は源九郎義経みなもとのくろうよしつね(1159~1189)、弓道は鎮西八郎源為朝ちんぜいはちろうみなもとのためとも(1139~1170)、馬術指導は小栗判官兼氏おぐりほうがんかねうじ(伝説中の人物)をし出し、上から下まで指南しなんするよう申し渡される。
 九郎義経くろうよしつね鎮西八郎ちんぜいはちろう小栗判官おぐりほうがん、召されて参内さんだいする。
義経「身分の低い私どもを選ばれまして、ありがたきしあわせにござります。とはいうものの、私どもは、あなた方よりずーーっとのちの時代の人間でござります。『昔の有名人』とは、ちょっと言葉の使い方がおかしゅう存じます」
菅公「時代が違うのは知っているが、ここが草双紙くさぞうし黄表紙きびょうし)のいいところ、ほっといておきやれ」

 


 源義経みなもとのよしつねは天皇の命を受け、剣術指南けんじゅつしなんを行うが、その技は鞍馬山くらまやま鞍馬天狗くらまてんぐから学んだ剣術なので、稽古けいこの相手は天狗でなくてはできないが、急に天狗を呼ぶこともできず、稽古相手に天狗の面をかぶせ、トンビのような羽をつけ、そばから大団扇おおうちわであおいで、空中に飛びながら相手をする。その相手は、高ゲタをはき、片手には日の丸のおうぎを持ち、片手でり合う。
天狗姿「寄ってらっしゃい見てらっしゃい。歯磨はみがき、薬、御用ごようがあればいらっしゃい。ヤットウ、エイヤ」
相手「ヤットウ、エイヤ」
見学の者「飛び上がるのは大変だなあ」
 
 天皇が贅沢ぜいたくな服を脱ぎ、粗末そまつな服にしてから、貴族も庶民も、贅沢をやめ、倹約けんやくをモットーとしたので、この延喜えんぎの時代はすばらしかったと後の世まで伝えられけり。

 


 鎮西八郎為朝ちんぜいはちろうためともは、保元ほうげんの乱のときに、平家の伊藤五郎、六郎両人を一本の矢で射貫いぬいた強弓ごうきゅうなので、その教え方は格別なり。
「戦場でのは、人を相手にするものなので、じっとしていてわざわざられる者はなし。よって、大きなまとをねらっても練習にならない」
と、かの「和漢三才図絵わかんさんさいずえ」などに書かれた、腹に穴があいている国の人を呼び寄せ、具足ぐそくを着せてつるし、具足の上から動くところを射抜いぬかせる。
的の男「当たり~。はずしてはダメだよ。はずれたら腹が痛くなる」
射手「ずばり当たったが、ちょっとはずれたかもしれぬ」
為朝「つるされて動くところは、あやつり人形みたいだ」

 


 小栗判官兼氏おぐりほうがんかねうじは、暴れ馬を乗りこなす名人なれば、門人に教えるにも、
「木馬に乗って練習しても、乗り心地が違うので、人を馬にして乗れば、互いに馬の乗り方を覚えるのが早い」
とて、先生や門人、互いに馬のかわりになって、乗りつ乗られつ稽古けいこをする。
兼氏「三六寸の間隔かんかくで四面のくらなど、小栗おぐり流のポイントでござる」
男「先生は大坪おおつぼ流の乗馬なのかのお」
男「小栗殿はよく乗られる。幕府へワイロの届け物を持って行く駕籠かごの乗り方なら、私が教えましょうか」

 


 鎮西八郎ちんぜいはちろうの門人は、ことのほか大人数となり、中でも海野うんの太郎が一子いっし、小太郎、わずか七歳ながら、鉄のかぶと射貫いぬきければ、あまりの珍しさに、その弓矢と兜をがくにして、清水きよみず観音かんのん奉納ほうのうしける。
男「はてさて、七歳ですごい弓の力だ。珍しい。弓勢八郎為朝ゆんぜいはちろうためともとは、このことだ」

 


 武芸の奨励しょうれいにあわせて、おかしな武芸の練習を並べながら、次回につづく、

 


タイトルの「鸚鵡返おうむがえし」には、友人、朋誠堂喜三二ほうせいどうきさんじの「文武二道万石通ぶんぶにどうまんごくとおし」のアンサー作品であることもにおわせている。その作品はこちら、


 黄表紙の始まりといわれる恋川春町こいかわはるまちの「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」の現代語訳は、こちら、

黄表紙の代表作、山東京伝さんとうきょうでんの「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」の現代語訳は、こちら、

これらの中に、他の黄表紙の紹介もあるので見てほしい。
 

いいなと思ったら応援しよう!