復讐後祭祀①~おちゃらけでべらぼうな敵討ちを描く江戸マンガの黄表紙作品
安永四年(1775)に恋川春町によってはじまった江戸マンガ、黄表紙は、天明年間(1781~1789)に大流行をした。ところが寛政の改革(1787~1793)によってしめつけられ、それまでのシャレと皮肉な内容がさけられ、ストーリー中心の敵討ちものが作られるようになった。そして、ストーリーが複雑になり、それまで一冊五丁10ページ、三冊までで終わっていた黄表紙がだんだん長くなり、合巻となり、黄表紙は消えていく。
まあ、それは後のことで、まだまだ天明の黄表紙では、敵討ちといっても、京伝の手にかかれば、シャレと皮肉たっぷりに描かれる。
「復讐後祭祀」は、山東京伝作画で、天明八年1788年に出版されている。版元は不明。
三巻三冊の現代語訳(かなり意訳)を三回に分けて紹介する。
上巻
一

頃は元亀年中の頃かとよ(1570~1573)、遠州浜松の城主、なにがし殿の家中に瀬間井横蔵というものあり。つねづね短気な者なるが、同じ家中の広井与太右衛門と、いささか口論したことを恨みに思い、ある夜、忍び込んで、相手を殺し、立ち退きけるぞ不敵なる。
二

横蔵は、与太右衛門を討って逃げたのだが、よくよく思えば、昔より、人を害した者は助かったためしがないので、いさぎよく彼のせがれに討たれようと、もう一度引き返し、せがれの要太郎に討たれる。
三

広井与太右衛門のせがれ要太郎は、即時に父の敵を討ちしこと、武運強く、ひとつには孝心のいたすところ、ひとえに仏神の加護なりと、太守(大名)、喜びて、首尾よく家督相続をおおせつけられ、盃をくだされけるぞ、ありがたき。
これ、作者の大べらぼうめ。今どき、こんなまじめな敵討ちの趣向があるものか、とは、おろかおろか。細工は流々、仕上げをごろうじろ。
四

これにて、まず、ざっと敵討ちの始終はすんだけれども、要太郎は、つくづく思うに、昔から敵討ちの本を見ると、主人や親の敵を討つには、野に伏し山に伏し、身を粉にして、娘や女房を女郎に売り、無念をこらえて身を忍び、貧乏をいとわず、あわれな目にもあい、悲しい思いをして、それでやっと仇を討つから忠孝といわれるけれども、我は、父を討たれてすぐに敵の方から名のり出て、なんの手間暇いらずで造作なく敵を討ったので、どうも孝の道はうすい。後からするのも先にするのも同じだから、これから敵討ちらしい苦労をしようと思い立つ。どうも理屈くさいことなり。
要太郎「はて、そうじゃなあ。だれぞ後ろで効果音を流して盛り上げてくれればいいが」
五

要太郎は、心に思うことを主君にもうしあげ、お暇を願いければ、太守のなにがし殿も役者にて、
「これはなるほど、そのほうがもうすところ、理にあたる。前にするのも後にするのも同じ道理なり。よきところに気がついた。さてさて、そのほうは孝心なり。われは、よき家来をもったものだ」
と、はなはだおほめになって、お家の宝、岸井の刀と小浜井の脇差をくだされける。
太守「願いのとおりもうしつけてつかわそう」
要太郎「首尾よく苦労いたし、めでたく帰ってまいりましょう」
左の男「暇を願って、苦労して浪人になるとは、ものずきな男だ。おいらなら、そんな時間があれば丁子屋か扇屋へ行って、女郎屋でしゃれるけどなあ」
六

要太郎は、願いのとおりお暇をもらい、いただいた大小の刀をさし、金二百五十両を持ち、いずくをあてにすることもなく、旅立ちける。そんなに遠くへ行く気はないけれど、まず敵討ちらしく、旅装束にて出かける。とはいうものの、はりあいはないものなり。
要太郎「敵のない身は楽なもの。敵があるとはいうものの、それが生きていれば申し分はないけれど、敵ある身がうらやましい。敵討ちの敵のないのと、唐辛子の辛くないのと、女郎の情のないのとは、さてさて、はりあいのないものだ」
次回につづく、
黄表紙の始まりといわれる恋川春町の「金々先生栄花夢」(1775年)の現代語訳は、こちら、
黄表紙の代表作、山東京伝の「江戸生艶気樺焼」(1785年)の現代語訳は、こちら、
これらの中に、他の黄表紙の紹介もあるので見てほしい。
私の紹介する黄表紙はかなりの意訳であり、挿絵も省略が多いので、原本を見たい方は次のリンク先で検索してみてほしい。(ない作品も多いけど……)
