此奴和日本②~日本好きの塩秀才の日本趣味を描く黄表紙
当時の日本では、中国の書籍を尊重し、中国料理が流行していたが、物語の中では、中国人の塩秀才が日本趣味でいろいろなことをする。
「此奴和日本」大田南畝(1749~1823)作、北尾政美(1764~1824)画、天明四年1784蔦屋重三郎刊、上下二巻の黄表紙の現代語訳の下巻、最終回の紹介。
下巻
七

最近流行っている「唐詩選」に曰く、「倡門に遊ぶ」云々。この倡門とは大門のこと。大門を入ると唐の遊郭あり。
塩秀才は、日々倡門に遊ぶ。ガイドブックである「細見」の版元は薜蘿館という。別名を耕書堂。
江戸の町で吉原のガイドブック「吉原細見」の出版は、鱗形屋孫兵衛だったが、この頃は本書の版元、蔦屋重三郎となっている。蔦屋重三郎の店を耕書堂と言った。なんと自分の店の宣伝を、自分の店の出版物で行っている。さすが蔦重。
八

この遊郭では、吉原中の丁にあたる場所を中丁と言い、茶屋のかわりに茶屋というものがある。
塩秀才、中丁の茶屋にて、吉原の瀬川ならぬ瀬川夫人なる花魁を見初める。
九

我が日本では、桃の節句や菖蒲の節句、月見などの遊郭の行事があるが、唐土では中秋の名月の月見はあれども、十三夜の月見はなし。十一月には冬至という大きな行事がある。
十

塩大尽こと塩秀才は、日夜の奢りに身代はすっからかんになり、両親はおおいに怒り勘当され、仕方なく身ひとつで筏に乗って、日頃慕っている日本に向かうと、住吉大明神は、「この唐人は、まちがいだらけにしても、日本を慕っているので、ほっとくわけにもいかぬだろう」と、ご意見あり。
十一

ここに日本は平戸の島に、「国性爺合戦」に出てくる和藤内の息子、王藤内の又従兄弟に、心おだやかな加藤内という男あり。福王という明の若殿も、平戸で焼き物を焼いて世を渡る。
塩秀才は、住吉大明神にさんざん説教され、中国に帰ろうとしたところ、にわかに風向きが変わり、平戸に吹き付けられ、加藤内の居候となり、ともに焼き物をして、三年は平戸で暮らす。加藤内は、塩秀才に意見しながら、機会があれば勘当の許しを頼んでやろうと思っている。
加藤内「そろそろ故郷へ帰る準備をしなされ」
塩秀才「諾。我、まさに帰らんとす」
十二

塩秀才は、加藤内の意見を素直に聞いて、心を入れかえたので、親父の塩商は喜んで、瀬川夫人を身請けして、今日、婚礼のご祝儀、めでたいことかぎりなし。
日本ならば、
「高砂や~、相に相生の松こそ♪」
と歌うところを、唐人なので、
「紫色雁高我開令人給♪」
と、ちょっとえっちな歌を歌う。
四方作
北尾政美画
特にストーリーらしいストーリーもないまま、「吉原細見」でいろいろな遊女が載っているように、日本趣味のいろいろを描いただけの作品。そこに作者らしいひねりがきかせてある。それを、「ほほお、なるほど」と人々は楽しんでいた。
蔦屋重三郎(1750~1797)は、吉原で生まれ、1773年に本屋、耕書堂を開き、吉原のガイドブック「吉原細見」をヒットさせた。また、吉原の遊女の浮世絵も出版し、これまたヒットさせている。そんなヒット作品のひとつに、当時の狂歌を百人一首の絵札に見立てた冊子を作った。それが「古今狂歌袋」である。

大田南畝(1749~1823)は、御家人(将軍直属の下級武士)であったが、文筆を多くし、狂歌も中心となり作った。四方赤良は、狂歌をつくるときの名前。狂詩は寝惚先生、他に蜀山人の名でも知られている。蜀山人の蜀山とは、銅山のことで、1801年に大坂銅座に勘定奉行配下として赴任してから名のっている。1804年には長崎奉行所へ赴任し、オランダ船でコーヒーを飲んでいる。そのような随筆も多く残している。

タイトル画像は、百人一首絵本をまねて作られた「古今狂歌袋」(天明七年1787蔦屋重三郎刊)、宿屋飯盛(1754~1830)選、北尾政演(山東京伝1761~1816)画より、四方赤良こと大田南畝の模写。
かくばかりめでたく見ゆる世の中を
うらやましくやのぞく月影
狂歌各作品の紹介は、こちらも、
挿絵の北尾政美(1764~1824)は、浮世絵師北尾重政の弟子で、北尾政演こと山東京伝の弟弟子になる。後に鍬形蕙斎の名で肉筆画も残している。
江戸時代には、魅力的な人物がたくさんいる。
