天道大福帳②~忠臣蔵の黄表紙的解釈
「新建立忠臣蔵」とサブタイトルがつけられ、当時人気の忠臣蔵を黄表紙流に解釈した作品。
黄表紙「天道大福帳」は、朋誠堂喜三二作、北尾政美画で、天明六年1786、蔦屋重三郎から刊行された。
三巻三冊の現代語訳(忠臣蔵の解説をつけながら意訳して)を三回に分けて紹介する二回目。
中巻
六

与一兵衛の妻「ええい、どうしたらこの怒りがおさまるものか」
天道「おいおい、『天道さまが見ているわい』というセリフは、ちょっと困ってしまうな」
天人「申し訳ございません。すべてわたしどもの不手際でござります」
六段目「与一兵衛内の場」
お軽は、夫勘平に軍資金を渡すために女郎として身売りをし、女郎屋がお軽を迎えに来る。与一兵衛にはすでに五十両の金を渡しているというが、与一兵衛はまだ帰ってこない。そこへ勘平が帰ってくる。五十両を裸では危ないと、与一兵衛に財布を渡したというが、その模様は、勘平が死体から奪ったものと同じ。暗闇でよくわからなかったが、自分が鉄砲で撃ち殺したのが舅だと思い愕然とする。呆然とするまま、妻のお軽は女郎として売られていく。
そこへ猟師仲間が与一兵衛の死骸を運んでくる。二人きりになったとき、姑は、先ほどちらりと見た勘平の懐の財布を取り出すと、そこには血もついている。「おまえが殺したのか」となぐりつけるが、勘平は、されるままになる。
七

勘平「一通り申し訳をいたします。聞いておくれ」
天道「やっぱり止めずに腹を切らせよ。しょせん、こうなってしまっては、生かしておいては話がすすまない」
天人「早く与一兵衛の傷口を調べて、勘平の鉄砲傷ではなく、定九郎からの刀傷だとわからせて、婆を謝らせてみたい。ああ、じれったい」
六段目の続き。
そこへ現れたのは塩冶浪士の千崎弥五郎と原郷右衛門。先ほど勘平から五十両を預かったが、大星由良助から、「逃げ出した者の金はもらえぬ」と言われて返しに来たのだった。母親は、二人に、「この男を斬り殺してくだされ」と頼む。二人からも責められた勘平は、とっさに刀を腹に突き立てる。そして今までのいきさつを語る。猪と間違えて人を撃ってしまった。天の助けと懐にあった財布をもらい、二人に預けたが、家に帰ると撃ったのが舅だとわかった。五十両は妻が身売りした金なので受け取ってほしいと告げる。
二人が与一兵衛の死体を見ると、それは刀による傷。途中、山賊になった定九郎の死体も見たので、定九郎に殺された与一兵衛の仇討ちを、勘平がしたものとわかる。
五十両は軍資金となり、勘平は浪士の一人として連判状に名を加えられる。息絶えた勘平にとりすがり、姑は泣き崩れる。
八

この場面は、無言がつづく。
天人「この沈黙を破る、簪を落とす場面はまだか、まだか」
天人「待て待て、高師直のスパイとなった九太夫に罰をあてるのは、まだ少し早い」
天人「もうあててもいいだろうが」
七段目「祇園一力の場」
高師直のスパイ斧九太夫に仇討ちの思いがわからぬように、大星由良助は祇園で放蕩三昧。
勘平の女房お軽は遊女になって由良助に呼ばれていて、由良助が密書を読んでいるのを見てしまう。同じく九太夫は縁の下に隠れてそれを見る。
お軽が簪を落とし、それと気づいた由良助は、お軽をなんとかしなければならないので、身請けし、好きな男と添わせてやろうと言う。
義士の寺岡平右衛門が来るが、彼は実は、お軽の兄であり、父と勘平の死を知らせる。そして密書の話を聞いた平右衛門は、秘密を知られたと、お軽を由良助が殺すだろうと思い、お軽に「死んでくれ」と斬りつける。そこへ由良助が現れ、二人を止め、縁の下の九太夫の肩に刀を突き刺す。由良助は、「ここで九太夫を殺すとめんどうだ」と、加茂川に投げ捨てるように言う。
九

九太夫の死骸を加茂川に投げ捨てたままでは、ちと由良之介としては手ぬかりなりと、人目につかぬように海まで出させられる、これ天道様のお心づかい、これにて察したまえ。
天人「早く海に出す工夫をしろ」
天人「船頭じゃなくて天道の子分は、面舵、取り舵、こんなの知ってるさ」
天人「海まで運ぶのは大変さ」
天道「やれやれ、塩冶の件では、くたびれた。次は、戸名瀬と小浪の旅の場面だが、こっちはケガもあるまい。ちょっと休みましょう」
天人「少し足でももみましょうか」
八段目「道行旅路の嫁入」は、由良助の息子力弥の許嫁、加古川本蔵の娘小浪と母戸無瀬が、力弥に会いに鎌倉から京都に向かう場面。
十

戸名瀬「娘よ、覚悟はよいか」
小浪「南無阿弥陀仏」
天道「由良之介の妻のお石が、『ご無用』と言うまでは、必ず離すな。後で、本蔵が槍で突かれる場面では、止めずに突かせろ。あれは死ぬ覚悟だし、由良之介もだいたいわかっていることだろう」
九段目「山科閑居の場」
雪の積もった山科の由良之介の家に来た小浪と戸無瀬は、由良之介の妻お石から、本蔵が止めたから主君は死ぬことになったと言われる。力弥と一緒になれないと思った小浪と母は自害しようとする。そこへお石が現れ、そこまで思うのなら本蔵の首を出せという。先ほどから外にいた虚無僧が入ってきて編笠を脱ぐと本蔵であった。
本蔵がお石をねじ伏せたところへ力弥がやって来て、そこにあった槍で本蔵を刺す。とどめを刺そうとするところで本蔵は、わざと殺されようとしたことを語る。塩冶判官を止めたのは、軽傷ならばおとがめも少ないと思ってのことだったが、切腹となり、お家取り潰しとなった。力弥と娘小浪との結婚もなくなったので、せめて申し訳に自分の首を差しだそうとしたのだ。
本蔵がこときれた後、力弥と小浪は、一夜だけの夫婦となり、討入りへと続いていく。
十一

由良之介が「明日の夜、船で堺まで川を下ろう」と言うたが、本蔵が亡くなって妻の戸名瀬との別れ、許嫁の力弥と小浪との別れ、これが一晩だけというのは、あまりにかわいそうなので、せめて三晩ばかりは夜の夫婦生活をさせたいので、急に大雨を降らせ、大水のために船が出されぬようにして、三晩過ごせるようにする。これが天道様の思いやりと、みなみな知りたまえ。
次回につづく、
作者朋誠堂喜三二(1735~1815)は、本名平沢常富、秋田久保田藩の江戸留守居役をつとめる武士であった。亀山人という名でも戯作を作っていたが、狂歌では手柄岡持という名を使っている。狂歌は、武士であった大田南畝(1749~1823、四方赤良、蜀山人)が中心となっている。
同じく武士である恋川春町(1744~1789)、本名倉橋格とともに黄表紙を世に広めた。
このように、江戸後期文壇は、武士が中心となり発展し、それを山東京伝(1761~1816)らの町人が引き継いでいった。

タイトル画像は、百人一首絵本をまねて作られた「古今狂歌袋」(天明七年1787蔦屋重三郎刊)、宿屋飯盛(1754~1830)選、北尾政演(山東京伝1761~1816)画より、手柄岡持、つまり朋誠堂喜三二の模写。
剣羽の剣お祓いを振り立つる
五十鈴の川のおしのふるまい
剣羽を振ってお祓いをする御師(神社の案内をする神官)の動作は、五十鈴川のおしどり(鴛鴦)が羽を振るのと同じようだ。
狂歌の紹介は、こちらも、
