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廓中丁子②~舞台は日本を離れ唐まで続く山東京伝の黄表紙いよいよ完結

 古代中国の思想家孔子こうしの教えは、のちに儒学じゅがくとして東洋的道徳の基礎となり、幕府の学問ともなった。
 一方、荘子そうしの考えは、老子ろうしの考えとともに老荘ろうそう思想として、自然は人間の敵対物ではなく、自然と一体になることを目指す東洋的考え方を形作っていった。
 日本でもこの中国の思想家たちはよく知られ、「荘子」からは「朝三暮四ちょうさんぼし」という四字熟語にもなる故事成語が生まれている。

 そんな思想はなんのその、笑いに特化した黄表紙きびょうし廓中丁子かくちゅうちょうじ」は、山東京伝さんとうきょうでん(1761~1816)作画、天明四年1784年、鶴屋喜右衛門つるやきえもんから出版されている。
 二巻二冊の現代語訳(かなりの意訳)を二回に分けて紹介する最終回。

 官女であった小蝶こちょうまえは、蝶五郎ちょうごろうあづまのがれ、さらには遊女となり、蝶蘭ちょうらんと名をかえる。

 


下巻

 蝶四ちょうし大尽だいじん蝶蘭ちょうらん身請みうけしようと相談するので、どうしたものかと、おりふしにわか祭りだったので、踊り子の衣装を着せて、大門を抜け出て、渡し舟に乗せ、三囲みめぐり土手どてへ着けば、ここではなぶさ一蝶いっちょうという絵師のなさけにてかくまわれる。このときの姿を一蝶いっちょうが描いたのが「浅妻舟あさつまぶね」というなり。
 
一蝶「吉野の場面なら『平家物語』の静御前しずかごぜんというところだが、『源氏物語』の浮舟の場面でもあるめえ。舟饅頭ふなまんじゅうの売春婦にしては人がらがよさそうだ」

 ここで蝶にちなんで江戸中期の画家(すでに過去の人)、はなぶさ一蝶いっちょう(1652~1724)が登場。一蝶いっちょうは、「浅妻舟あさつまぶね」の絵が将軍を風刺ふうししているとして三宅島に島流しとなった。
 また、「平家物語」や「源氏物語」も人々が知っているので、それに関連した話題も黄表紙には、ばんばん出てくる。

 


 そのころ唐土もろこしでは、みかどが三千人の美女を集めたまうに、二千九百九十九人までそろったけれども、今一人に困り、日本にさがしに行かせるが、女衒ぜげん観九郎かんくろう世話せわにて、蝶蘭ちょうらんのことを相談し、千五百両で唐土もろこしへ連れ帰る。
 蝶五郎ちょうごろうは、くるわに千両はらい、五百両のもうけで、唐土もろこしへ送る。
 女房をからへやるとは、あまりに無体むたい仕打しうちなので、これを「からむたい」という。
 
唐人「わしは、両国の見世物屋に出る唐人とうじんではない。このごろ流行はやりの輸入品の唐本とうほんと同じ新しい唐人さ」

 


 「唐土もろこしも夢に見るなら近かりし」というが、蝶蘭ちょうらんは、ほどなく唐土もろこしへ渡り、みかど目見めみえする。
 蝶蘭ちょうらんは、一蝶いっちょうの家に夫婦居候いそうろうでは気の毒だと思い、夢のここちしてからへ渡る。
 
臣下「こんなえにしからにもないない」
蝶蘭「ふしぎなえんでお目見めみえいたします。それにしても、あなたがたの姿は、京まちのにわか芝居で、ちっとは見慣みなれておりんす」

 


十一

 みかどは、三千人の美女をそろえたものの、一人ずつ夜のとぎをもうしつけるにしても、三千人もいれば目移りしてならぬゆえ、ちょいと工夫して、それぞれの頭に生け花を乗せ、蝶を放ち、蝶がとまった者を、その夜のとぎとなしたまう。
 蝶々は、これにしようか、あれにしようかとまごつきけるが、どうでも日本がめずらしく、蝶蘭にとまれば、二千九百九十九人の美女がいっせいに、「そりゃ、とまった」と、はやしける。
 
臣下「うちのみかど様は、この米不足で米が高騰こうとうしているというのに、三千人も人を集めて、いくら米がいるんだろう」

 


十二

 蝶蘭ちょうらんは、みかどはだゆるしては、蝶五郎ちょうごろう義理ぎりがたたないと、寝室を抜け出し、ようやく海ばたまで逃げきたれども、日本へ帰ることもできず、後から追っ手も来るだろうと、海原うなばらを見ては、もだえこがれるが、女の一念いちねん、頭にさしたるかんざしたましいが入ってちょうとなり、日本めざして飛び帰りけり。
 
蝶蘭「せめてむこうの島までも、はねがほしい。飛んでゆきたいわいなあ。
しょうが心、まさに断絶だんぜつす。きみはこの思いをよもや知るまい」
 ちっとのうちからめしを食ったら、もう、ちんぷんかんぷんを覚える。
 実は「唐詩選とうしせん」中の詩の言葉なのだが。 

しょうが心まさ断絶だんぜつ
きみおもなんぞ知ることをん(郭震かくしん子夜しや春歌しゅんか」より)

 江戸の人々は、漢詩もよく知っていた。

 


十三

 濡髪ぬれがみ蝶五郎ちょうごろうは、一蝶いっちょうの家で浮世うきよをさみしく暮らしていたが、あるとき、家をたずねてきた者あり。出てみれば、放駒はなれごま蝶吉ちょうきちなので、
「いつぞや、ごほうびの品々を盗み、行方不明になっていた、おまえこそ盗賊とうぞくなり」
と、打ちかかろうとすれば、放駒はなれごま
「すなわち、そのときの、ごほうびの品々、今返すなり」
と、衣類を持ち運ぶ、はさみ箱を差し出す。
 蝶五郎ちょうごろうは怒って足でり倒せば、不思議や不思議、箱より蝶蘭ちょうらんが出てきて、かねてなつかしく思っていたおりから、
「どうしてここへやって来た」
と、しばし言葉はなし。
 そのとき放駒はなれごま、だんだんの本心をあかし、土手でぶったのも、蝶四ちょうし大尽だいじんと言ったのも、みな狂言芝居なりと話し、これより兄弟のちぎりを結ぶ。
 かくして一蝶いっちょうの世話にて、蝶蘭ちょうらん蝶五郎ちょうごろう祝言しゅうげんをあげる。

 さて、なにもかもうまくいったと思えば、どこからともなく夢を食べるというバクというけものがやって来て、蝶を残らず食べてしまったと思えば、荘子郎そうしろうの百年目の夢はさめけり。
 
放駒「わたしの本心はどうしたものかとおうたがいであろうが、くわしく説明すれば長くなるので、ゆるりともうしやしょう」
蝶蘭「しょうが心、まさに断絶だんぜつす。きみが思いを知ることをんと、うらんでいやした」
と、ちっとのうちからものとなっていたので、またまた、ちんぷんかんを言う。
蝶五郎「よくこのせまい箱の中に入っていたものだ。これもまた不思議だ」
一蝶「まず、ご無事で大慶たいけい大慶、非常にめでたい。大慶すくなからず、大慶すくな辛子からし味噌みそさ」

めでたしめでたし
  北尾政演まさのぶ画 

 北尾政演は、当然京伝浮世絵師としての名だが、このころはまだ、京伝という作家名よりも浮世絵師政演まさのぶの名のほうが有名だった。すなわち、浮世絵師としても、他の浮世絵師と並ぶほどの腕前うでまえだったのである。

 


ばつ(あとがき)
 詩にいわく、「花飛蝶はなとびちょう」と蝶が飛び、「鼻飛疔はなとびちょう」に驚くが、梅毒におかされ鼻が飛び落ち、はれもののちょうからウミが出て驚いても、そんなことでは心配しないのは折介おりすけなり。夢に蝶を見て、草双紙くさぞうし趣向しゅこうとするのも織輔おりすけなり。武家屋敷にいる折介は、武家のしもべの名前なり。身軽織輔みがるのおりすけは、京伝の狂名なり。どちらも同じ名前なれども、天地雲泥てんちうんでい、大違いの宝船たからぶね、宝船をいて見る初夢の、春の眠りの荘子の夢よ。荘子そうし草双紙くさぞうし草子そうしちょうは草双紙を数える一ちょう二丁のちょう、いずれもえんはありそ海、書きしるしたることの、花に心を春駒はるこまの、夢に見てさえよい趣向しゅこうと、思い机に向町、京橋中橋おまん稲荷いなりそなえるべにの、紅絵べにえ問屋の鶴屋に渡す、ちょっと待たせて、ちょっととばっす。
  唐来参和とうらいさんな

 


 黄表紙作家京伝の名が、まだ有名ではなかったので、先輩作家唐来参和とうらいさんなに文をもらっている。
 その文の中にある、黄表紙も含む草双紙くさぞうしは、木版印刷するA4サイズほどの紙を一ちょう二丁と数え、これが五枚(五丁)で一巻となる。一丁は二つ折りにするので二ページになる。一巻十ページだが、見開きページもあるので、本作上巻は、序文と七場面、計八となっており、下巻はばつ文と六場面、計七となっている。これらが上下二巻か、上中下三巻で黄表紙や草双紙はできていて、毎年、正月に発行された。
 江戸の人々は、古典や漢文の知識もありながら、こんなマンガを楽しんでいた。

 


タイトルが回文かいぶんになっている参和の作品はこちら、


京伝は、身軽織輔みがるのおりすけの名で狂歌を作っていたが、狂歌についてはこちらも、

 


自然についての私の文章をまとめたマガジンはこちら、



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