見出し画像

廓中丁子①~東洋思想の胡蝶の夢を女郎の話で描く山東京伝の江戸マンガ

 江戸の思想家、荻生徂徠おぎゅうそらい(1666~1728)の門人、服部南郭はっとりなんかく(1683~1759)が出版した、「荘子そうじ」の注釈書ちゅうしゃくしょ郭中荘子かくちゅうそうじ」(1739刊、原本は中国の郭象かくしょうが荘子の言葉をまとめたもの)は、よく読まれたようだ。
 黄表紙のようなマンガや大衆小説だけでなく、中国の古典も読まれており、百人一首も庶民の遊びとなっていたのが江戸時代。「論語」は手習所のお手本となり、「荘子」も原本に人々が興味を持っていた。江戸の庶民の知識欲はすごいとしか言いようがない。

 また、「荘子そうじ」中にある「胡蝶こちょうの夢」の話もよく知られている。
 荘子そうしが夢の中でちょうになった。目が覚めると人間だったが、蝶が現実なのか、人間が現実なのかわからない。蝶の世界も楽しんでいたのだ。人間がすべてではないという意味を含んでいるものだろう。
 この夢の趣向しゅこうが、一瞬に人生を見るという「邯鄲かんたんの夢」とともに、黄表紙ではよく使われる。

 ちなみに、紀元前の中国の思想家は荘子そうしで、彼の著書の名は「荘子そうじ」とにごる。

 夢を見るところから始まる黄表紙きびょうし廓中丁子かくちゅうちょうじ」は、山東京伝さんとうきょうでん(1761~1816)作画、天明四年1784年、鶴屋喜右衛門つるやきえもんから出版されている。出版年については、天明五年という説もある。
 二巻二冊の現代語訳を二回に分けて紹介する。

 


上巻
じょ(まえがき)

自序じじょ
 ちょうを売っている商人は、つゆの値段ほどのわずかなもうけのために、この手にとまれと蝶を呼ぶ。垣根かきねをめぐる蝶々ちょうちょうは、花を求めて飛び回る。おのれおのれの生きる道、あしたにめしを四杯食い、ゆうべに寝酒を三杯飲めば、朝四暮三ちょうしぼさんの計算はあえども、が身が荘子そうしならば、蝶にもけて、廓中かくちゅうの花にもとまり、栄華えいがをとどめんこと思う。
 そりゃ、蝶々とまった。
  作者京伝きょうでん 述

 


 ここに、異国を旅したという和荘兵衛わそうべえの息子で荘子郎そうしろうという、風流の遊び人ありけるが、春の日ののどかなる青空に、トンビとろとろまどろんで、
「おきゃあがれ、また夢か。黄表紙ではいつもの話だ」
と、苦情が出るのは合点がってんにて夢を見る。
 
 不思議ふしぎや、夢の中にふたつのちょうが、どこからともなく飛んできて、たちまち二人の若者となる。歌舞伎かぶき役者の市川門之介もんのすけと沢村宗十郎そうじゅうろうの二人ではなく、一人は住吉の楽人がくじん濡髪ぬれがみ蝶五郎ちょうごろう、もう一人は、天王寺の楽人、放駒はなれごま蝶吉ちょうきち名乗なのり、このたび、朱雀院すざくいんの新年会の席に、都へ呼ばれ、茶店ちゃみせで落ち合い、たがいのわざきそい合う。
 
放駒「そのように言いたい放題ほうだいの『太平楽たいへいらく』をぬかしても、手柄てがらはこっちで『青海波せいがいは』、天皇のおぼしも『越殿楽えてんらく』、とんだ『後生楽ごしょうらく』なやつじゃねえじゃあねえか。と雅楽ががくの曲名づくしだ」
濡髪「頭は左右へつづみ、鼻の穴へ太鼓たいこばちを押し込んで、楽器の調律ちょうりつ糸竹呂律しちくりょりつのくしゃみをさせるぞ。どうだ、おれは楽器づくしだ」

 荘子郎そうしろうの後ろの看板には、「夢ちょうものはたのみそめてき」とあるが、これは当然小野小町の和歌
うたたねに恋しき人を見てしより夢てふちょうものはたのみそめてき(古今和歌集)
のパロディー。
うたた寝の夢の中で恋しい人の夢を見てから、夢をたよりにするようになった
 江戸の人々は、町人もふくめ、こういう短歌や百人一首をよく知っていた。


 

 すでに蝶吉ちょうきち蝶五郎ちょうごろうは、朱雀院すざくいんにおいて、胡蝶こちょうまいいけるが、見物の中には官女かんじょも多くいる中で、勾当内侍こうとうのないし小蝶こちょうまえが、濡髪ぬれがみ蝶五郎ちょうごろう見初みそめたまう。
 
 二人が舞い終わり、ごほうびとして、南鐐なんりょう二朱銀にしゅぎん三百十六枚、つまり芝居の文句「二十日はつかあまりに四十両、使い果たして二分にぶ残る」じゃあないけれど、四十両には二分らず、そのうえ上等な反物たんものに、蝶千鳥ちょうちどり焼きをそえていただく。
 小蝶こちょうまえの飼い猫、蝶を見て飛び出る。
 
放駒「いい管弦かんげんに、じゃあねえ、いいかげんに終わろうぜ。にわか狂言のスター、春駒はるこまほど拍手はくしゅはこないや」
濡髪「さても美しい官女かんじょだ」

 


 小蝶こちょうまえは、濡髪ぬれがみ蝶五郎ちょうごろうのことが忘れかね、
もの思うわざもならぬ身のほころびし心知りきや
という気持ちがばればれの歌をんで、わらわをつかわす。
 
 蝶吉ちょうきちは、この間に、ごほうびの品々をひとりじめにし、行方不明になりける。 



 小蝶こちょうまえ濡髪ぬれがみは、いつぞやのいちゃつきより、大色事いろごととなり、内裏だいりでは一緒になれないと、おんぶをしてあくた川を渡り、あずま、つまり江戸へくだってみたところが、官女かんじょ楽人がくじんなので、たまにあるイベントに呼ばれるくらいでは生活もできず、ようやく工夫くふうして水茶屋(カフェ)をはじめ、小蝶こちょうまえ内裏だいりのころは派手はでなことばかりしていたのでこうとう(高等こうとう)の内侍ないしといっていたが、今は派手はでにもできぬゆえ、はでの内侍ないしと名を変える。
 こうなってみれば、女郎の時代にくらべれば、とんだらくで、四季のめんどうな行事もなく、むだばかり言っては、おもしろくらし、なかなか世帯せたいじみて、屋台の蕎麦そばの味もおぼえる。
 
小蝶「銭湯せんとうに行きなさるなら、一緒いっしょにまいりやしょう」
女「おめえのかんざしは、いいかっこうだのお」
 
男「ここの女房にょうぼうはもとが官女かんじょだという評判だ。わしがかんじょ(在所ざいしょ)は京都のいなかだ」
男「あのさむらいはどういう気か、編笠あみがさ姿で娘をねらっているのかい」

 


 濡髪ぬれがみ蝶五郎ちょうごろうは、おもしろく暮らすまま借金が重なる新世帯あらぜたいで、水茶屋もうまくいかず、貧乏きわまり、店も売らざるをえなくなり、どうしようもなく、女房小蝶こちょうまえを吉原に売ることとなり、女衒ぜげん観九郎かんくろうに世話をたのむ。
 
蝶五郎「これで大家にも家賃がはらえる。しゃあしゃあとして平気なままではいられめえ」
観九郎「さあ、はんを押しなせえ。拇印ぼいんでもいいわな。こういう場面も草双紙くさぞうしにはよくあることだ」 



 小蝶こちょうまえは、雲上人うんじょうびとから雲の下人したびととなり、荘子そうじ屋の蝶蘭ちょうらんと名をつけ、初会しょかいから大評判だいひょうばんにて、雲の上育ちで上品で、人気が出、初会から蝶四ちょうし大尽だいじんが深くなじみ、なにか様子ありげだが、世話になりける。
 

 荘子そうじ屋の蝶蘭ちょうらんというのは、吉原の丁字ちょうじ屋の丁山ちょうざん(長山)をモデルにしている。
 本タイトルの「廓中丁子かくちゅうちょうじ」が、丁字ちょうじ屋のくるわでの話という意味にもなっている。「郭中荘子かくちゅうそうじ」のダジャレであり、「郭中かくちゅう」と「廓中かくちゅう」、「荘子そうじ」と「丁字ちょうじ屋」のダジャレとなる。
 丁山ちょうざんは、公家くげか武家大名に仕えていた上品な女性が遊女になったといわれ、当時はそのことで有名だったようだ。現代でも、アイドルが風俗にいれば週刊誌ネタになるのと同じだろう。

 


 蝶五郎ちょうごろうは、女房に女郎づとめをさせ、自分は大門口で蝶屋という下駄げた屋を出したが、ある夜、何者とも知れぬ相手に、土手でおそわれ、蝶蘭ちょうらん座敷ざしきへ来て、みだれた髪をさいわいに、もういっそのことと元服げんぷくする。
 奥座敷では、蝶四ちょうし大尽だいじんの大騒ぎ。
♪蝶は菜種なたねの味知らず、菜種は蝶の花知らず
蝶蘭「重ねだんすの蝶つかい、ぐあいの悪い夫婦仲とは、ちときざな文句さ」
蝶五郎「元服したところを見たら、おれは悪いところにほくろがある」

 


 遊女丁山ちょうざんをモデルとして、次回につづく、

 


 荘子の思想は、自然に生きることを基本として、人間が手を加えることをきらっている。人間のために自然を壊して人工的な町を作る西洋の思想とは違う、自然の中で生きるという東洋的な思想の基礎となっている。

 


黄表紙の始まりといわれる恋川春町こいかわはるまちの「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」(1775年)の現代語訳は、こちら、

黄表紙の代表作、山東京伝さんとうきょうでんの「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」(1785年)の現代語訳は、こちら、

これらの中に、他の黄表紙の紹介もあるので見てほしい。
 

いいなと思ったら応援しよう!