金々先生造花夢③~三巻目にしてやっと茶漬けができる江戸の黄表紙マンガ絵本完結
栄華をきわめた「金々先生」とは大違いのべらぼうな作品として描く、米ができるまでの話。
「米」という漢字は八十八と分解できる。米ができるまでには、八十八日かかったとか、八十八人の手を経ているとか言われ、だから米を大切にせよとされた。ご飯を食べた茶碗に飯粒がついているので、そこにお茶をそそいできれいにする。もちろん、食後のお茶になる。そんなSDGsをしていた江戸時代。いやいや、数十年前までは当たり前の日本の家庭風景だった。
黄表紙「金々先生造花夢」は、山東京伝作、北尾重政画、寛政六年1794年、蔦屋重三郎から刊行された三巻三冊。
その現代語訳(かなりの意訳)を三回に分けて紹介する三回目、最終回。いよいよ完結。
下巻
十三

百姓の仙人、辛苦して、香の物の漬け物にするダイコンを作り、塩くみの仙女は、塩をこしらえて渡しければ、糠屋の仙人、糠を売りに来て、樽買いの仙人、樽を売りに来れば、なにもかも買いそろえて、漬物屋の仙人は、例のダイコンをタクワンにするために、つける。これすべて、金々先生に食わせる茶漬けの飯のためなり。
搗き屋の仙人、茶漬け飯になる米を搗く(精米する)。搗き屋の昼飯になるサンマの干物から、汗を拭く手ぬぐいまで、それぞれ必要な品物を作り出すこと、それを考えると数えがたし。
あおむいて搗き屋 さんまをぶつり食い
とは、川柳の名句である。
十四

桶屋の仙人、井戸の周りをこしらえる。これは、飯を炊いたり茶をわかしたりする水を用意するためで、別に井戸を掘るつもりなり。その木の余りを使って、手桶、飯桶などをこしらえる。
仙人のお頭、帳面につけて、いちいち種類と数を確認する。
まだ香の物を切るまな板と米を入れるザル、火吹き竹と火打ち箱ができていない。薪と炭はたいていできている、などと、開演前の芝居のごとく大騒ぎなり。
金々「ひもじいせいか、わしの目には、石屋のげんのう(丸くなった金づち)がさつま芋のように見えるわ」
左官屋の仙人、へっつい(かまど)を塗る。
「へっついの上塗りは、恥の上塗りをするよりましだの下駄屋だ」
団扇屋の仙人、七輪に風を送る団扇をこしらえる。これも、藪から竹を切って骨をくみ、紙をすいて作って団扇に張り、山から渋を取ってきて上に塗る。団扇にしたって、そのできるまでを見れば、幾万人の手にかかっているか知れぬなり。
十五

かくて、金々先生に食わせる茶漬けの道具立て、あらましできあがりけれども、いまだ、飯を炊き、煮花を煮る、かんじんの水がない。それゆえ、仙人のお頭、井戸掘りの仙人に言いつけ、急に井戸を掘らせる。これも、足場をくんで、道具をこしらえ、その辛苦、幾万人の骨折りか、それも数えつくしがたし。
女仙人、井戸を掘るのを見に来る。これは、なんのために見に来ているのかわからない。ただ、この本には女が少ないので、挿絵の愛嬌のために見に来たように思える。
十六

龍宮では、このたび井戸を掘ると聞いて、水を与えようと、龍王みずから出て来て、多くの魚たちにその用意をもうしつける。これまた金々先生一人のために、龍宮までの骨折り、言うまでもなし。
龍王の水をさずけるところ、冠が反吐を吐くようなり。
ことわざに、
水は方円の器にしたがう(水は器によって形を変える=人も環境によって変わる)
ともうすことあり。方円の器は、さしずめほら貝なり。それゆえ、龍宮でも、水をさずける手伝いは、ほら貝がつとめるなり。
魚「今度の茶漬けにつけるものが干物でなくてよかった。そうだとおいらも、こうしてはいられねえ」
十七

さて、なにもかもできあがりければ、飯炊きの仙人、下女の仙人、丁稚の仙人集まりて、水をくみ、飯を炊き、漬け物を切り、茶を煎じ、膳を準備し、さまざま辛苦する。
さて、この飯炊きの仙女、下女の仙人、丁稚の仙人などは、至極辛苦する者なり。下女だの、丁稚だのとて、別になりたくてなったものではなく、貧乏に生まれたゆえ、かかる辛苦の奉公もするなり。これも、うまくいけば、ご新造さんや奥様と呼ばれるけれど、やれ、三助、おさん、長松などと安っぽく呼ばれるのは、その身の果報が少ないからだと思い、憐れんで仕事をさせるべし。
左の神様「これ、長松仙人、茶の焙じ方が悪いぞ。合点か。それ、おさん仙人、早く釜の下の薪を引き出せ、こげ臭いぞ。ああ、世話のやけるやつらだ」
かまどの神様の荒神様も、マッチングアプリで相手をさがすように、あれこれ指示を出して、台所の采配をしたまう。
「はじめちょろちょろ、中くわっかっ、三尺さがってたかねぶり、というから、ちょっと船をこごう」
初めちょろちょろ(弱火)中ぱっぱ(火を強くし)赤子泣いてもふた取るな(蒸す)で、炊けたらしばらく休憩なので、船をこいで寝ようとは太いやつだ。
十八

かくて、ようよう一膳の茶漬け飯ができあがりければ、仙人のお頭、これを金々先生に食わする。
金々先生は、茶漬け飯をこしらえる多くの人の辛労を目前に見たので、席についてつくづく思いけるは、わずかの茶漬け飯一膳、たった二切れの香の物といえども、幾万人の手にかかっているか数えがたし。まして、美をつくした料理なぞは、幾億万人の辛苦だろうか、はかり知ることもない。これを思えば、家をつくり、着物を着て、人間の一生に必要な品々は、みな、これ幾万人の辛苦をつめこんでいるのか。紙一枚、箸一膳も、わがものにはあらず、みな天地よりめぐみたまうものなり。米の一粒も、遊びながら食べるのは、もったいないこと。
ああ、そうじゃなあと、感心して、ひざに白い涙をこぼしければ、給仕の童子が涙のしずくを見つけて、
「もし、飯粒がこぼれました」
仙人「いかに金々先生、なんじは生半可な物知りで、決まった仕事もせず、あたたかい服を着、おいしいものを食べ、千万人の辛苦によって、ぶらついているのは大きなあやまりなり。浮世はもちつもたれつだ。これで茶漬け飯を食うように、さらさらと悟りが開けたであろう」
金々「ただいままでは、茶漬け飯などは、なにも気にせず、いやいや食べましたが、だんだん多くの人の辛苦するところを見ましては、のどへつかえて食べられませぬ。今まで、いいものを食べ、よりごのみしていましたが、これは大きなあやまり。ひもじいときには、まずいものなし、ともうしますが、よいたとえでござります」
十九

……と思いしは夢にて、
あたりを見れば、ようよう煮花が煮え立ったところなれば、はたと手をうち、
「ああ、奇なるかな、妙でごぜえす。盧生は、粟飯が炊けるうちに人生五十年の夢を見、わたしは煮花のできるうちに千万人の辛苦を知りました。浮世を夢と思って、ただうかうかと暮らしていましたが、今日より心を改め、天地の恩にむくいるために、一つの商売をはじめましょう」
と、これより無性にかせぎければ、四五年もたたぬうちに百万両の長者となり、夢ではなくて、ほんまの栄華の身となりけるぞ、おあつらえむきの、とびきりの
めでたしめでたし。
ああ、久しぶりで草双紙の終わりが夢だ。
作者京伝は、寛政元年1789年の「黒白水鏡」の挿絵を描いたことで罰金刑になっている。さらに寛政三年1791年に発行した自身の洒落本三冊(遊里を描いた小説)により手鎖五十日の刑となっている。そんなことがあり、遊里も出てこない黄表紙を描いている。
米を大切にしようというまじめな道徳的な作品ではあるが、タイトルに「金々先生」とつけたのが、京伝流のせめてもの抵抗ではないだろうか。
また、巻末には、自分の店、京屋の宣伝を入れるのは黄表紙ではおなじみのこと。マルチクリエイターであった京伝は、自らがデザインした小間物も京屋で売っていた。
堅実な面とべらぼうな面とを併せ持っていたのだろう。
挿絵が罰金刑となった「黒白水鏡」はこちら、
十三場面では川柳の紹介があるが、江戸時代に一般的だった川柳の紹介をまとめたものは、以下の後半部分を参照、
