第1回|脳化社会は、AIによって“緩む”のか?
「社会が“脳”ばかりを優位にしすぎている」と語ったのは、解剖学者の養老孟司さんです。
都市は情報と機能で構成され、人間は思考や論理、効率といった“脳的な価値”を中心に生活しています。
自然や身体、感覚──そうした“脳では処理しきれないもの”は、後回しにされがちです。
養老さんは、こうした現代のあり方を「脳化社会」と呼び、私たちに警鐘を鳴らしてきました。
けれど、最近ふと思いました。
AIがここまで進化した今、私たちはもう、自分の脳をそんなに使わなくてもよいのではないでしょうか?
AIに任せられる部分は任せて、私たちはもっと“身体”や“感性”に立ち戻ってもいいのでは?
AIの登場によって、脳化社会はかえって“緩む”のではないか──
そんな逆説的な可能性について、今回は考えてみたいと思います。
脳化社会の風景
養老さんが指摘する「脳化社会」は、次のような特徴を持っています。
言葉、論理、効率、データが価値の中心にある
身体性や感覚、関係性や曖昧さが軽視される
社会全体が“頭で考えること”に偏っている
たしかに私たちは、「どう思うか」「どう考えるか」を重視して生きてきました。
しかしその一方で、「わからないもの」「説明できないもの」を遠ざけてきた側面もあるのではないでしょうか。
AIは“脳の代理人”です
現在では、その“脳の役割”を代行する存在が登場しています。
それがAIです。
情報を整理し、構造化し、要約し、分析する
推論や判断の材料を提示してくれる
考えの筋道を示してくれる
AIはまさに、“人間の脳の機能”を模倣し、しかもそれを人間以上のスピードと正確さでこなしています。
だからこそ、「脳化社会」が緩むのでは?
このような状況は、一見すると「脳化がさらに加速する」と思われがちです。
けれど、もう一つの見方もあるのではないでしょうか。
「脳の仕事」をAIが担ってくれるのであれば、私たちはもっと“身体で生きる”ことに時間とエネルギーを注げるのでは?
たとえば──
看護の現場では、記録や分析はAIに任せて、看護師は患者と「ただ一緒にいる」ことに集中できるかもしれません
教育の場では、知識の伝達はAIが担い、教員は“揺らぎや対話”を通じた学びに専念できるかもしれません
このように、AIが社会の“脳的な部分”を担ってくれることによって、
私たち人間が“脳化”から少し自由になれる可能性もあるのではないでしょうか。
脳に偏りすぎない、という希望
脳化社会が問題なのは、「脳が悪い」からではありません。
“脳だけ”で世界を捉えようとすることが、人間にとってバランスを欠いているからです。
AIが登場したことで、
私たちは“脳的であること”を競うのではなく、
“身体であること”“感性であること”“関係にいること”を大切にする時間を取り戻せるようになるかもしれません。
それは、養老さんの警鐘に対する、ひとつの前向きな応答になり得るのではないかと感じています。
次回予告
次回は、「AIが思考を代行することで、人間は“考えなくなる”のか?」という問いを扱う予定です。
しかしその前に、もう一つ問い直したいことがあります。
私たちは、そもそも本当に“自分で”考えていたのでしょうか?
AI時代の「考える」とは何かを、引き続き考えていきたいと思います。
