ライターの価値ってなに?「没入させることだよ」
最初に言っておくが、私はライターではない。ライターになりたい気持ちをうっすら抱えて生きてきただけの、ただの企画屋——もとい、バックオフィサーである。
言葉を操るのが好きだ。「書くことが好き」だとずっと思ってきたが、どうやら喋る方が向いているらしい。ああ、もちろん私の口からは災いも出るけれど、リボン結びしたさくらんぼのへたを器用に吐き出すことだってできる。
幼い頃は、安直にライターに憧れていた。しかし、社会人になる直前に気づくのだ。「書くのが好きなだけなら、別にライターという職業にこだわる必要はない」と。
エンジニアなら要件定義や仕様書、営業なら日々の顧客メール。社会人にとって、ライティングスキルはある種の必須科目だ。誰もが日々、大量の文章を書いている。
では、あえて「ライター」と名乗る者は、一体何者なのだろう?
「ライティング」の本当の価値は、どこにあるのだろうか。
ライターって?
ライターは大体四種類に分別できるようだ。

「何を伝えるか」によって該当する枠が決まる。私がかつてなりたかったのは、左下の「ルポライター」だ。事実の手触りを誰かと共有する営みが、読む側としても書く側としても好きだった。
この図を眺めていて、ふと気づく。ライターの仕事は「情報を発信すること」以上に「情報を獲得すること(取材)」の割合が圧倒的に大きいのだ、と。
だとしたら、ライターの真の価値は「書くこと」ではなく、「取材すること」にあるのだろうか?
ライターの「取材者」としての側面
文筆に多少の自信がある人なら、誰しも一度は「読んでほしい」と願ったことがあるはずだ。
私もご多分に漏れず、読まれるための工夫を凝らした。しかし、残酷なことに「自分の書きたいこと」をただ書いているうちは、驚くほど読まれない。反面、世間のトレンドに便乗したキャッチーなタイトルをつけると、途端に数字が(少しは)伸びる。ニッチな話題でも読者がつくのは、すでに固定ファンがいる強者だけだ。私はまだ、その領域に達していない。……悲しい話である。
私の感傷はさておき、発信の原則はやっぱり「どう書くかより、何を書くか」なのだろう。そしてそれは、「書くための準備(取材や体験)にいかに時間をかけたか」に直結する。
好きな作家(noteクリエイターを含む)の執筆プロセス(推測)と、私の雑な執筆プロセスを図示してみると、その差は歴然だった。

書くことよりも、圧倒的に「準備」に時間をかけている。
実際、noteを巡回していて私たちが思わず「スキ」を押してしまうのは、書き手の「体験」が前面に押し出された記事だ。旅、料理、DIY。これらのみずみずしい取材(体験)ベースの記事は、キーワードだけで読みたくなる。
例外的に、現場へ行かないエッセイストが面白いのは、彼らが「過去の蓄積(人生という名の取材)」の中から言葉を引っ張り出しているからだ。彼らこそ、もっとも準備に時間をかけているとすら言える。
でも「取材」がライターの真の価値なのだろうかと問い直すと、そうでもない気がしてくる。
[閑話休題]私たちが記事に白けてしまう瞬間
ネットの記事を読んでいて「あ、なんか白けるな」と冷めてしまった経験はないだろうか。
自分の胸にもブーメランとして突き刺さるのだが、「記事のネタにするために、無理やり情報収集しました」という下心が透けて見えるパターンがそれだ。自分の得意な土俵(あるいは本当に興味のある分野)で戦っていないのが伝わってきて、「書くとき楽しくなかったんだろうな」「ただ読まれたいだけなんだな」と冷ややかな気持ちになってしまう。
書く行為そのものは独りよがりでいい。けれど、その結果の文章が面白くなかったら、誰得である。
この現象は、面白いネタを扱い続けるWebメディア(オモコロ、Rocket News、デイリーポータルZなど)を見ているとよく分かる。どんなネタでも美味しく調理することを求められるからこそ、ライター自身の「ノリ」や「ネタへの愛」の純度が試されるのだ。個人的な感想を言えば、デイリーポータルZさんはそのあたりの妥協がない。
そう考えると、やはり単に「形だけの取材をすればいい」というわけではないのだと気づかされる。
ライターの「書く」側面
映像や音声など、あらゆる表現メディアがある中で、私たちが「書くこと(テキスト)」を選ぶのはなぜか。それは、ライティングが最終的には極めて個人的で、テーマに危険なまでに接近するからだと思う。
テキストは、個人に近ければ近いほど、生々しく肉薄した情報になる。いくら綺麗に推敲されていようとも、それはライター自身の目を経て、脳を介して出力されたものだ。それはもう読み手との会話に近い。

ここでどんな文章を想定していても構わない。事務的なマニュアルですらよい。文章の先にいるのは、いつだって「たった一人の個人」だ。他のメディアと圧倒的に違うのは、発信者とメディア(文章)の距離がゼロに近いこと。
書き手そのものがメディアとして立ち現れるその近さ。
これはライターの価値の片鱗ではないだろうか。
結論:取材×ライティングの相乗効果
「徹底的な取材」と「(あえて強調すれば、個人的な)ライティング」。この二つが掛け合わさったとき、ライターに価値が生まれるように思う。
ライターが取材(体験)することの真の重みは、個人が何かに「思い入れる(没入する)瞬間」を記録できる点にある。
せっかくなので好きなnoterさんを紹介して具体事例とさせていただきたい。
「おらんじぇっと」さま。
この方はサンドイッチの記事が秀逸で(他の料理もおいしそうである)、読むたびにサンドイッチへの思い入れに触れることになる。
毎日の記録を「取材」と読み替える。毎日(?)サンドイッチを作るおらんじぇっとさんのその動機はどこから来るのだろうと何とも興味惹かれる。
aoyamaan.jpさま。
この方は手帳沼(文具沼)にいらっしゃって、何度も「思いを馳せている」瞬間を目にすることができる。実はこの方の記事を読んで、このたびロルバーンを購入することにした。(あまりものを増やしたくないタイプなのだが)
いつも、人生にはときめきが重要だということを思い出させてくださる。

他にも素敵な記事を書かれる方は多いが、日が暮れてしまいそうだという常套句を許してもらいたい。
まとめると、取材したものを見せられるということ=書き手がそのテーマに没入していく様を見せられることであり、必然記事に重みと面白味が出てくるのではないかということである。
終わりに:片足を沼につっこみながら
ライティングは、最終的には個人の営みだ。
だからこそライターは、取材(経験)を通じて得た「ほかならぬ私の思い」という説得力で、読み手の心を絡めとることができる。
誰かが何かに没入する瞬間に立ち会うとき、私たちは思わず目を奪われる。被災地のルポも、デスクツアーも、料理の過程も同じだ。それは、書き手が穏やかに沼の階段を降りていく姿であり、私たち読者もまた、その手をとって一緒に階段を降りている。
もし、これからnoteを始める人がいるなら、できるだけ「ズブズブの関係」になれるテーマを用意するといい。私自身はといえば、抱えている精神疾患とズブズブな関係なので(笑)、そこを開示して書くのは少しためらわれるけれど。できればもうちょっと健全なお友達(趣味)を増やして、片足は別の棺桶に突っ込みながら書いていきたいところだ。
なんにせよ、好奇心と共感力こそが、ライターの価値の原資になる。
その土壌は、「書きたい」「読まれたい」という無邪気な欲望に支えられている。気持ちが行動を呼び、行動が共感を呼び、そこに価値が生まれる。
ライティングの本質は、ただの情報の提示ではない。書き手と読み手の、1対1の濃密な対話だ。
私の場合は、リボン結びしたさくらんぼのへたを吐き出すように。片足を沼に、あるいは棺桶に突っ込みながら、知らぬ間に画面の向こうの誰かと対話している現実を信じている。
もし、あなたのタイムラインに私の言葉が流れていったなら。
それは偶然の公転ではなく、必然のすれ違いかもしれない。そのとき、あなたの口角がほんの2ミリでも上がったなら、私の個人的な営みは大成功なのだ。自称ライターとしてね。
Thank you for Reading!
