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連載小説『恋する白猫』第六章・見知らぬ星の人

瞬(まどか)の言葉が頭の中を素通りするのを感じながらも光(みつる)は型通りの食卓についた。

『最初はね自分の為だけにおむすび握ってたの、すり胡麻まぶした簡単なやつ、でもねもう少し何か欲しいなって思ってお味噌汁作ってたら…つい光の顔が浮かんじゃって、きっとあの子もうすぐ帰ってくるなぁって、姉の勘かな?
多分お腹も空かせているはずだって、
そしたら沢山おかず作っちゃった』

朝食は駅へ向かう途中のセブンイレブンのマシンでスウィズする、光が普段「バッタもんスムージー」と心の中で呼んでいる冷凍野菜ジュースを取り敢えず飲んだきりだった。

昼食はとらなかったし「もと少年」とカフェでお茶なんぞした為に結局今日はなんにも固形物を口にしていない、と光は今更ふいに気がついた。


一口姉の料理へと箸を伸ばし口へ入れると腹の虫がグゥと鳴くのを感じて光は急に鋭いほど恥ずかしくなった。
しかしその気持ちとは裏腹に焼きジャケもひじき煮も出汁巻き玉子も口へ入れた途端、口腔に隈無く沁み入るような奥深い旨味が拡がり、光は鳥肌がたつほどの飢えを覚えた。
冷淡そうに食べてやるつもりがついガツガツと食べてしまい、おにぎりを口にすると益々その勢いは増し、彼女はまるで飢え渇れたどこかの国の可哀想な子供のようにその遅めの昼食をかっ込んだ。 
『よく噛んで食べなさいよ』
と姉に言われてうんうんと頷くも、その勢いは止まらない。
いつも玄米に徹している光に白米のおにぎりは久しぶり過ぎて東北の米の瑞々しい甘味(かんみ)に彼女は胸が一杯になった。
姉も向かい合って食べているのだが、
最初はピンと張りつめていた緊張の糸は口に含んだ姉の手料理の馥郁たる香味に目の前の緊張のもとすらまるで一時停戦のように光の頭の中から消し飛んでしまっていた。
気がつけば彼女は声にならない吐息と共に、目の前に並ぶまるで洗ったような空っぽの小鉢や大小とりどりの皿の上を見つめていた。
暫く時を忘れたようにそれらを凝視していた光はやがて我に返り、再びあの緊張感がじわじわ復活するのを感じた。
そしてそれが光に強過ぎる羞恥心と自己嫌悪感を与えた。

『よかった、今日は光、ちゃんと食べてくれて…昨日はパンだと食べてくれなかったから健康志向の光にと思って、
今日は和食にしてみたのよ』

『…美味しかった…ご馳走様でした』
光は憤懣やる方ない気持ちを抑え込み、苦虫を噛み潰したような顔で辛(から)くもそう言った。
『どういたしまして』
姉は白桃のような頬に笑窪を浮かべ、
こぼれるような笑顔を見せるとこう言った。
『光…ちゃんと食べてくれて嬉しいよ、ベベが元気だった頃のことをお姉ちゃん思い出して…なんだか今とても…
幸せな気持ち…』

『ベベの?』

『そう、ベベはね元気な頃はワンちゃんみたいによく食べてよく遊ぶ活発な子だったから』

『……』光は差し向かいに座る姉の姿を、姉の淹れた焙じ茶を飲みながら穴の空くほど眺めた。
姉の前で光の胸は詰まり、変な動悸に遮られ何もかもが今までとは違って感じられた。そして彼女は思った。

‘’もうお姉ちゃんは私の知ってるお姉ちゃんじゃない…あんな人、
あんなことする人、もう姉じゃない!
家族なんかじゃない!‘’

椅子の背にかけたコートのポケットから取り出した例の口紅を卓上へ置くなり、光は口火を切った。
『私はちゃんと口紅をつける人種だよって言いたかったんでしょ?
これってさ、アピール?』

『………』
それには答えず無表情に焙じ茶を飲む姉に、苛立たしさがじりじりと炙(あぶ)りたてられていくのを光は感じて苦しくなった。
彼女は徐々に強度を増す狂おしさに耐えて妙に冷静な声を出した。
『私、見たの』
『何を?』
と姉は伏せていたあの長い睫毛を上げると光の顔をどこか飄々(ひょうひょう)とした表情を浮かべて見た。その顔は空惚けているような、と同時に一体何をこんなに妹は熱(いき)り立っているのだろうと半ば呆れているようにも見えた。
『何をって…』
と光は思わず熱い息を飲み、唇を震わせつつ、こう言い放った。
『お姉ちゃんだって私を見たじゃないっ!しらばっくれないで!』
と光は思わずキッチンテーブルを平手でピシャリと叩いた。

『何も…しらばっくれてなんかいない』

姉は涼しいような、それでいて困惑したような、いつものあの掴みどころの無い非常に曖昧な表情を浮かべると肩をガイジンのようにそびやかしてそう言った。
『はいっ』と光は卓上の口紅を指先を揃えて姉の前へと滑らせるようにして突き出した。
『口紅返してあげる、
トム・フォードのやつ』
『………』姉は相変わらず人形より無表情なままだ。
『大事なものでしょう?
こんな高級なの私でも使ったことない、
だけど変だねこの口紅、
一度も使った跡が無かった』
と光は思いのほかヒリヒリと痛む手のひらをテーブルの下でそっとさすりながらそう言った。
『だって私のじゃないもの』
と、姉は自分の指のささくれを気にしてそれをいっそのこと剥いてしまおうか、どうしようかととても悩んでいるように見えた。
『はぁ??』
と光は喘いでしまい、一瞬酸欠の鯉のようにその口をパクパクさせた。

『お母さんのだって言うの?こんなヌーディーな口紅、
お母さんの趣味じゃないことくらい私にだって解るわ』

『それ麻祐子のよ、私はもう少しピンクっぽいのをつけるもの』

『…麻祐子さんの?』

『そうよ、いつだったかディオールでもないシャネルのでもない何かもっとずっと偉そうな外国製の口紅が欲しいって言ってたから…どうかなぁと思ってお誕生日に買って上げたらやっぱり地味過ぎるって、
ベージュ系のが欲しいって言ってたからこれにしたのに、
結局麻祐子が使わなかったのを私が遺品にもらうことにしたの』

『…遺品に?』

『ええうちへ泊まりに来た時あげたんだけど、そのまま私の手元になんとなく残されちゃってたから…一度も使ってくれなかったけど』

『………』

『もう捨てようと思って玄関に置いてあったの、
私が使ってもいいんだけど…
…思い出すから』

『……麻祐子さんの…』

『でもいいわ、あんたがこうして渡してくれたんならやっぱり捨てないで持ってたほうがいいのかもしれない、
貰ってもらえなかったプレゼントではあるけどさ』
姉はそう言って立ち上がると壁に備え付けのキャビネットから、キティちゃんの絵柄で背の低い茶筒を取り出すと光に背を向けた。
その茶筒の中には茶葉ではなく絆創膏が束になって入っているのは、家族だけが知っていることだ。
『ありがとう』
と背中を向けたまま姉は言った。
『何?』
と光は細い目をひん剥くようにして言った。
『一体なんのありがとうよ?』
姉はすぐに光に向き合うと再びもとの席についた。
その指先にはバンドエイドが貼られ、微かに淡く鮮血の跡があった。
姉がどこか妹が取り乱すのを楽しむようなイタズラっ子じみた微笑みを浮かべているのを見て光はとりあえず少し鎮火しないと、と思い立ち、敢えて話頭を転ずることにした。

『さっき言ってた話って何?』

『光、話聞けるの?』

『……』光は悔しまぎれに思わず涙で濡れ光る眼を向けて姉のすました貌(かお)を睨みつけた。
姉は諦めたようなため息を漏らすと
『さっき言ったことよ、
光がダイエットをし過ぎていてお父さんやお母さん達とても心配してるの、
最近の光いくらなんでも細すぎやしない?』

『お姉ちゃんだって細いじゃない、
お姉ちゃんなんて私よりずっと長身なのに』
その光の言葉を姉は遮るとこう言った。
『光も知ってるよね、私は体質なのよ、だからよく食べてるよ、
健康な食慾に抗って無理したりなんかしていない』
その言葉つきはまるで幼い子供を言い諭すかのようで光は今度は惨めになった。

『なんで私達姉妹なのにこんなに違うんだろう?昔っからそう思ってたわ、
私とお母さんやお父さん浅黒い肌色も癖っ毛も細い一重の目も背格好も太りやすい体質までもが全部そっくりなのにお姉ちゃんだけが違う、
全然違いすぎるってずっと不思議に思ってた、十代の頃は隔世遺伝なのかと思ってたくらい、でも…私はもう昨日までの私じゃない、私はもう知ってしまったもの、貴女は…貴女は…』と光は言い澱(よど)んだ末にこう叫んだ。
『私の姉妹なんかじゃない!』

『…何か…聞いたの?』

『……』光の眼から涙が見る見る溢れ出し次々とその頬を伝い落ちた。
身を乗り出すあまり、その涙がキッチンテーブルの上に小さな水溜りを作り、静かなその室(へや)に光の嗚咽だけが虚ろに鳴り響いた。
『誰から聞いた?』
姉は急にいたわるような優しい声を出した。
『光?多分ね、光が聞かされた噂話は全部本当のことじゃないのよ、だからもう心配しないで』そう言って姉は白々しく見えるほど落ち着き払ってこう言った。

『親子でも似てないなんてこと、
世間じゃよくあることよ』

『まだそんなことを言うの?
隣町との境い目にあるあの忌み地だなんだって呼ばれてる森に、お姉ちゃん棄てられてたって本当?
あの…玉蜀黍畑(トウモロコシばたけ)の中に在る…』

『誰がそんなこと…』
と姉は眉根をひそめて濃い影を作ると乱れかけた呼吸を整えようと思わず胸に手を当てた。その貌が見る見る血の気が引いて紙のように白くなるのを目(ま)の当たりにした光は更に怯えてこう問うた。
『…お姉ちゃん…大丈夫?』

『棄てられてたのは本当だよ、
初めて発見してくれたのがお母さんで…お母さんはそんな私を警察へ届け出てくれた…その後私は施設で育てられたけど赤ちゃんだった私を、どうしても忘れられなかったお父さんとお母さんが是非養女にしたいと強く申し出てくれたの』

光は固唾を飲んで更に問うた。
『…それで?』

『2年経っても親が見つからなかったから…そうなった』

『……でも、飯島くんこう言ってたよ』
と光はまるでバネ仕掛けのように反射的に「もと少年」の名を出すと迷いながらもそう言い及んだ。
だがその言葉は姉に烈しくボールのように打ち返された。

『光は飯島くんの言う事を私の言葉より信じるのっ!?』

『……私…もう解らない、
何がなんだか…もう解らなくなった』
光はカシミアのセーターの袖口で涙と鼻水を拭うなりやっとの思いでそこまで言いつのったが、姉にティシュの箱を渡されてそれを思わず引ったくった。

『今日はお姉ちゃんの作ったご飯ちゃんと食べてくれて嬉しかった』
と姉は唐突に話をもとに戻した。
さっきまで色蒼褪めていた姉の顔色は、もう既にキッチンを満たす強すぎる暖房でほんのり紅潮し、まるで程良く熟れた
水蜜桃のようだと光は思った。

『ベベね、食べるのが好きでよく食べる子だったけど最晩年はもう老衰で…
療法食がメインだったのよ、でもあれ美味しくないんだねベベ嫌がってあまり食べてくれなかった、だから療法食だけど香り立ちを良くするために湯煎にかけたり、獣医さんで買った猫にヘルシーなふりかけ掛けたりいろいろ工夫したんだけど、食べてくれるのは最初だけ、
すぐに横向いて美味しいもの出してくれるまで食べないぞってストライキやらかすのよ』
自分から問わず語りに話しておいて自分からはぐらかすように姉は再びその肩を軽くそびやかすとこう言った。
『だから最期の2年目に入った時私ね、思い切ってベベの大嫌いな療法食はやめたの、
その代わり獣医さんに習って点滴は家で毎日私とお母さんとでするんだけど、
…でも毎日がご馳走になった』
姉は遠くを見つめる瞳をまるで夢見るように細めて呟いた。
『あの子ったら生の秋刀魚を脂を落とさないようグリルでなくフライパンで焼いてあげるのが大好きで…
秋の旬の盛りにはあの子ったら一週間で4本も食べたのよちゃんと小骨の処理を丁寧にしてあげたのを小鉢にこんもり盛ってやって…
まるまる大きな秋刀魚一本、お夕飯に平らげていた、でもべべったら少しでも旬の過ぎた秋刀魚は匂いだけ嗅いで、前脚使ってカーシカーシって砂をかける真似をするの』
と言って笑った姉の顔色がもとに戻ったのをいいことに、光はいつの間にか心から姉と共に笑う自分に気がついた。
姉はべべへの想いをそのうっとりとした瞳に馳せて更にこう言いつのった。
『元気な頃はお正月や猫の日やクリスマスにしか食べられなかったお刺身もラム肉も、大好物の馬刺しまで遠くへ車を走らせて買いに行ったものよ、
ここいらでは海のお刺身は新鮮でも馬刺しはちょっと珍しいもの』

『呆れた、そんなことまでしていたの、ベベったらお嬢様ね』と言うと光はすぐに言い直した。
『じゃなかった、お坊ちゃまね』
『昔、おばあちゃんが仔猫の頃、着物の端切れで作ったおべべなんか着せてたから、ベベって名前になったけど…
あの子は牡だもの、大食漢だったよ』
姉は我が子の健康を語るように嬉嬉として言うと急にその微笑みを曇らせた。
『でもね若い頃はふっくらしていたけど二十歳超えて徐々に肉付きが落ちて、背中を触るとゴツゴツしてきた…』
深々とため息をつくと姉は芯から辛そうな声を出した。
『最期はね…大好きな秋刀魚を焼いてあげても…新鮮な馬刺しを出しても、
もう食べられなかった』
視線を落としてそう言った次の瞬間、
掬(すく)い上げるように光を見つめ返し潤んだ声を姉は上げた。
『食べたそうにはするのよ、
でも食べられないの』
と、再び姉は視線を反らしたが、光のほうが思わずそんな姉を見て啜り上げた。

『それを見て思ったわ、
ああ生きるってこういうことなんだなぁって…なんでもないことだと普段私達は思っているけれど…
だからついそそくさとぞんざいに頬張ったり、ろくに味わいもしないで大急ぎで飲み込んだりしちゃってるけど…
美味しく食べる、ってとても重大な人生の小さな日常のイベントなのね』

『イベント…?』

『大袈裟な、って思うでしょう?
でもそれがどんなに大切なことか…
べべが教えてくれたのよ』
長い沈黙のあと姉はその言葉の穂をこう言って継ぎ足した。
『べべが居なかったらお姉ちゃんはなんにも気づきを得ないまま凄く傲慢なまま生きていたと思う…
今もまだ傲慢なんだけど…』

『……』光は何も言い返せずただ無抵抗を装うためにティシュで一つ鼻をかんだ。

『ベベは猫だから自分に正直だし、これが正しくてこれは正しくない食事だとか健康にいい悪いも無かった』
姉はそんな妹には目をくれず愛猫への思いの丈をひたすら熱く語り続けた。

『でも最期の2年間、療法食をやめてなんでも好きなものを食べさせて私はよかったと思ってる』
姉自身も病んでいると母から、聴いていた光は見えない苦労に洗われ、磨かれたようにすら見える姉のその微笑みに微かな目尻のシワを見つけてはっとした。

『大好きな人達に囲まれて食べる美味しい食事は生きる讃歌だと思う、
人間も、猫もね』

と姉はもの柔らかくその笑いじわの浮かぶ微笑みで光を見ると急に真摯過ぎる顔に戻ってこう言った。
『それでも…たとえそうであっても最期は自分の意思とは反対にどんなに大好物であっても喉を通らなくなるのよ』
姉はそう言って湯呑み茶碗を包み込むように持つ自分の親指に巻かれた血の滲む絆創膏を見つめながら囁くようにこう言った。

『ベベは身を持ってそれを私に教えてくれたの、命は食べて、その灯火を灯し続けるものなんだって』

そう言って姉は妹へとまるで哀願するような視線を送ると『だから…光にもそのことを解って欲しいの、
ダイエットをするなとは言わない、
光の人生だし、そういう光の女の子らしい気持ちもよく解る』
姉は湯呑みを飲まずに卓上へ置くと、少し茶目っ気を含んだ笑顔を浮かべて妹にこう試問した。
『だけど…たまにはトランス酸脂肪でもいいじゃない?毎日爆食しなければそんなに青い顔してストレス一杯で清廉潔白な食生活でないといけないの?
将来、もし光が産んだ子供に〝ママ、ドーナツ一緒に食べよう‘’って誘われたら…
光は‘’ママはそういうのは食べないの‘’って言って断るの?』

『………』
光は言葉にならない言葉を言い返そうとして出来ず、ただの吐息となった無念さを一瞬感じた。だがそれ以上に姉に深く愛されていることを痛切に感じるその凡々とした悦びに満たされて、まるで童女に返ったかのようにその鼻を小さく頼りなげに鳴らして見せた。

『大丈夫よ少々の悪い食事は生きる喜びや慰めにはなってもその人を滅ぼしたりはしないと思うわ』

と姉は狭いキッチンの暖房より更に暖かく微笑んだ。
『光はまだ若い…
若くてこんなに綺麗よ、
もともと可愛かったけど都会暮らしで垢抜けて目をみはるくらい美しくなった、
それなのに…過度な食事制限で生理が止まったりしていないか、お姉ちゃんむしろそっちのほうが心配なのよ』
と姉はやや濃い眉をひそめて大きな黒目がちの瞳で愛する妹の顔を見た。

『あぁ、お姉ちゃん…』
光はまたもや大粒の涙がこぼれそうになり、それを防ごうと思わず両手でその顔を覆った。

‘’私は悪夢を見たのかしら?‘’

と光は思った。
こんなに心から自分を案じてくれる姉がこの世の中にそんなに居るだろうか?
きっとあれは人違いよ、
私ったら悪い夢を見たんだわ、
「もと少年」の言葉に動揺した私が臆病風に吹かれてまだ浅い春の白魔に眩惑されてしまった…
ただそれだけのこと、
きっとあの駅で見た人は、どこかの街に棲む見知らぬ誰か…。
彼は冬の逢魔…
黒塗りの列車に乗って何処かへ遠ざかっていった通りすがりの見知らぬ星の人…

ふと気がつくと泣いて震える光の肩を、姉の長い腕がすっぽりと包み込んでいた。
『お姉ちゃん…』光はその愛しい、少女の頃からずっと長く飢えていた懐かしい腕の中に身を任せた。
そしてこんなに深い安堵はいったい何年ぶりだろう?と思った。
子供の頃、いつも私を護ってくれた、
いつも私を庇ってくれた、
私のお姉ちゃん…
私だけの…
『ごめんなさい私…』
光は思わず心の鎧(よろい)を脱ぐ喜びの中、急に素直になって暖かい姉の胸に取りすがった。

『いいのよ、この街の人は噂に過激な尾ヒレをつけて、それが独り歩きするのを愉しむような人達が少なからず居るの、しょうがないわ』
すすり泣く妹の小さな頭を撫でながら
『不安にならないほうがおかしいよね』
と姉は言った。
『怖かったね光、でも大丈夫、
お姉ちゃんは光が思ってるような…
そんな人間じゃないから…
ただお姉ちゃんにも出自に関する詳細が…正直よく解らないだけ…』

『…解らない?』
と光は姉に凭(もた)れかかったまま夢見るような安堵の中、一抹の不安を覚えてそう囁いた。
『ええ…』と姉の声はどこか遠く、果てしない宇宙の彼方にでも居るかのように光の耳に響いた。
光はそんな不安を振り払おうとする余り、思わずそんな気持ちとは裏腹の言葉を口走った。

『お姉ちゃん棄てられてたんでしょう?お姉ちゃんのお母さんがそうしたんだって…私聴いたの、それって本当?』

『…そうね…それはそうだけどちゃんと拾われたわ、まるでべべみたいに』
と姉の声は無感動みたいに低く響く。
『そして大切に育てられたし、
お姉ちゃんはごく普通に今も昔も幸せよ』
姉がまるで舞台女優が台詞を言うような虚ろな口調でそう言うのを、光は姉の胸にぴったり耳を当てたまま安心してそのまま受け入れた。
『いつかこのことについては、お父さんやお母さんも一緒に光にちゃんと教えてあげなきゃとは思ってたの、
でも…なかなか…誰も言い出せなくてね…』
光はあまりの心地良さと深過ぎる安堵感との中で、半ば微睡(まどろ)むような心地となって思わず独りごちた。
『解るわ、そりゃそうよ…』
そして急に彼女はある忘却を喜びと共に思い出し、ふいに姉の胸からその顔を離すとこう言った。
『お姉ちゃん私ねスィートハートがある商店街で可愛いハンカチ買っちゃったの、買ったのは随分前なんだけど、
何となく渡しそびれてて』
光が余りにも嬉色ばんでそう言うのを見て姉もまた嬉そうだった。
瞬(まどか)は弾むような声で妹にこう問うた。
『今持ってるの?』

『うん持ってる』
と光は子供のように大きく一つ頷くと、
妙に甘ったるい声を出した。

『待ってて、横浜のお土産にと思って商店街のだけど可愛い黒猫の刺繍のついたハンカチだからお姉ちゃん喜ぶかなぁと思って』

『嬉しい!黒猫の刺繍入りだなんて光、優しいねお姉ちゃん凄く大切にするわ』

『待ってて、まだバッグの中に仕舞ってあるの、今取ってくる』

姉が妹との氷解を待ち詫びていたことはその眼を見ればもう解る、と光は思った。‘’帰省してよかった!‘’と光は喜びに弾む胸でキッチンを飛び出すと二階の自室へ急ぐ脚を何故だか急に凍りついたように廊下で止めた。
何故、止めたのだろう?
「解らない」と光はまるで声に出すようにそう思った。
「解りたくない」と彼女は機械的にそう思った。
この家の中に存在するはずのない「色」がそこにはあった。
それは光の視界を一瞬、よぎって消えた。ただそれだけだった。
だがそれはほんの数秒なのに光の心の死角を本気で怒った猫の爪のように引っ掻いた。
そして‘’それ‘’は彼女の脳裡に痛く深く刻み込まれた。
光は通り過ぎたその足を数歩、後退(あとずさ)らせ、その痛む刻印の素(もと)を検めようとした。
一階の姉の部屋は、扉が細く開け放してある。姉は長くべべの出入りの為に、
このようにする習慣がなかなか抜けず、そのまま癖となって残り続けているのであろう。
その今は亡きべべの為の隙間へと、
光は泥棒のようにそっと顔を近づけた。
姉の部屋はいつも通りきちんと整頓されている。
白と淡いピンクと僅かなペパーミントグリーンとが存在するごく平凡な女らしい部屋だ。
窓際に面した机の上に透明硝子の一輪挿しが置かれ、光はそこに挿された一輪だけのあの蒼い、蒼過ぎる狂恋の宿りを再び見た。

‘’…きっとどこかで買ったのよ、
お姉ちゃんは花を活けるのが好きだもの、そうよ、それだけよ…
今どきあんな色の花、どこにだって‘’

震えながらそう思おうとする光の前で、まるで見えざる猫が素通りしたかのように扉が揺らぎ、音も無く大きく開いた。
そしてベッドの上に急いで脱ぎ捨てたかのように見える黒い服がぞんざいに投げかけてあるのを見て光の心は引き裂かれた。
一瞬それは桜いろのベッドの上に落ちた巨大な何かの影法師のように見えて光は我が眼を疑ったものの紛うことない証左をその傍に発見し、彼女は思わず両手で口をふさいだ。
指先のない黒い毛糸の手袋が、何故か片方だけ絨毯の床に落ちていた。

光は例の過呼吸が起き始めたその口を両手のひらで必死に抑え、声にならない悲鳴を飲み込み、影のようにそそり立った。

思わず眼を閉じた光の脳裡にあの列車の中、光と目があったその瞬間、あの手袋を嵌めた白い指先でキャップの鍔(ツバ)をつまんで引き下ろし顔を隠した青年の姿が蘇った。
青年は明らかに動揺し、苦痛を隠忍していた。その貌は紙のように白くなり、
黒い手袋から突き出した細く白い指先はまるで少女のように震えていた。

そんな青年の目の前で車両の扉は音も無く閉まり、
やがて列車は遠ざかった。

遠く何億光年も遥か彼方に…





to be continued to episode-7th


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