連載小説『恋する白猫』第十五章・百合嫌い
‘’どんな人だろう?
どんな瞳をして、
どんな肌を持ち、どんな体臭、どんな癖があり、どんな唇と声をしているんだろう?そしてどんな風に私に向かって微笑みかけてくれるんだろう?
どんな風に歩み寄って来てくれるんだろう?もしかしたら…
駆け寄ってきて『逢いたかった』と抱き締めてくれるかもしれない‘’
亜希子の胸は歓喜と期待のときめきと、それを上回る不安感とに今にも爆発しそうに揺れ動き、そのフードコートに座りながらも、
どうにも落ち着かず、暗い携帯に映る自分の前髪を指先で引っ張って直したり、
無謀にもマスカラを塗り直したりもした。
かと思えばついぞ立ち上がり、付近を低回したりそこから自分の席を見つめてみたり、またその席へそそくさと戻ると‘’早く来ないかな?‘’と周りを睥睨(へいげい)したりもした。
そしてその間も目の前のターコイスブルーのリボンをくっきりと結んだだけの赤い薔薇の花を一輪だけその手に頑(かたく)なに持ち続けていた。
目が覚めるように真っ赤なその薔薇は、赤は赤でも今までお目にかかったことのない稀有な赤だと亜希子は誇らしく思った。
濁りやえぐ味の一切無い非常に澄んだ明るい赤は、透明感すらあった。
こんなに美しい薔薇がそこいらの花屋で手に入るなんて幸先がいいような気がして亜希子はなんだか、わくわくした。
そして亜希子は自分が幼い頃から自分に宛てて書かれた姉の手紙の数々を束にして、リュックの中からさも愛おしげに取り出すと、それら古い色褪せた便箋が全て白百合と、その翠の葉の絵柄とで彩られたものであることを今更ながら、
一枚一枚その手の中で彼女はあふれる慈しみと共に丁寧に検(あらた)めた。
継父母がまだ揃っての生前の頃、
親たちはずっと亜希子の実姉からの、
手紙の一切を秘匿し、幼い頃から若い頃にかけての亜希子に対し、決してそれらを見せることはなかった。
だが、今はもう違う、
亜希子は生まれて初めて自分と同じ血を分けた人間の顔を見ることが出来るのだと思うと胸弾むような期待が水泡のように次々と止めどなく彼女の胸の裡(うち)に湧いてくるのを感じてならない。
然しそれとは裏腹に、ほんのり薄く墨を刷いたような黒っぽい恐怖や不安が自分の頬を生温い風のように撫でてゆくのを感じてもいた。
しかし病身の継母が施設や病院を行き来するその間、亜希子は実姉と継母との遠い過去のやりとりの手紙や、様々な書類を母の寝室にあるウォーク・イン・クローゼットの奥深くに隠された小抽斗の中から発見した。
初めてそれを見つけたのはもう十年以上も前のことだった。
発見した時それら亜希子への手紙は、
六つ歳上の姉がまだ十代の妹へ書いたものから、二十代になった亜希子へと書かれたものまであり、それらはすべて幾つもの束にされ、ばらけないよう、恐らくは亜希子の継母により、おのおの麻紐で十文字に固く結わえつけられていた。
「生まれたばかりの貴女を見た時これが私の妹なんだと幼心にもとても不思議な気持ちになりました、それでも私と貴女とは血の繋がりは半分しかないのね、
でもたとえそうでも亜希子ちゃん、
貴女は私の妹なのよ、
でも許してね、お父さんが貴女に逢ってはいけないと言うの、まだ十五の貴女には解らないと思うけど、お母さんは不倫をして貴女という子供をもうけたのよ、
だから私の父は怒って異父姉妹の貴女と私とが親しくなってほしくないと願っているの、
確かに父にしてみれば無理からぬこと、
でも私達姉妹にそれがいったいなんの関係があるというの?
亜希子ちゃん、私ね今、看護学校へ通っているの、
私はそこで勉強して、ナースになるの、
幼い頃からナイチンゲールに憧れていた私は看護の道へ進みます、そして立派なナースとなれたその暁には、いつか貴女と逢いたいです、
離れて暮らす遠い私の妹、亜希子へ
貴女の姉の百合英より」
また別の手紙にはこうある。
「お姉ちゃんは結婚します、
相手は入院患者さんだった人でふつうのサラリーマンさんです、亜希子ちゃんもいつの日か好きな人が出来て家庭を持つ時がくるわ、お姉ちゃんは今とても幸せです、結婚式に本当なら貴女に参加してほしい、
でもそれは少し複雑な私達の関係では無理です…
たとえ貴女を呼ばなくても、
貴女を呼びたく思っている私の本当の気持ちを知るだけできっと私は私の優しい父を深く傷つけてしまうことでしょう、
でもいつの日かお互いに家庭をもって、子供が出来たら姉妹で逢いたい、
堂々と」
「お姉ちゃんの写真、
ウェディングドレス姿、送ります、
どうかな?お姉ちゃん…綺麗ですか?
感想を教えてね、
私の旦那様はどう思いますか?
私はね、亜希子ちゃんとは姉妹だけど全然似てないって聞いているの、
お姉ちゃんの写真見るのは亜希ちゃんは初めてね」
だが、それらの写真は無かった。
継母が棄てたのか?
今やそれすらももう解らない、
「お母さんの写真も同封しておくね、
お母さんは亜希子ちゃんのお産の時に亡くなったの、それはきっと知っているわね、亜希子ちゃんは重い難産の末、
産まれてきたの、最初貴女は仮死状態で生まれてきて母子共に生死を彷徨った、
でも出血が止まらないお母さんが意識不明となり、まるで貴女の身代わりのように天に召されて…
運の強い貴女だけがかわりに息を吹き返したわ、
お父さんや親戚のひと達はそんな貴女を「まるで呪われた子供」だと当時口々に揶揄したの、
母親を殺して生まれてきた父親の解らない私生児だとね、あの赤ん坊がかわりに逝ってくれて家出先からせっかく戻ってきたまだ若い母親のほうが助かってくれていたらよかったものを、と嘆いた親戚までいたけれど、それはまだ幼かった私のことを想ってみんなはそう言ったんだと思うわ、
でも私は妹が生まれたと聞いてとても嬉しかった、何故なら私は弟ではなく妹のほうを欲していたからなの、
そりゃあ、母はお産の時に亡くなりはしたけれどそれはきっと運命だったのよ、
避けることの出来ない運命…。
それに若く美しかった母はあまり家にじっとしていられなくて、家出ばかりを繰り返し、私の幼い頃はまるで父と父方の祖母に育てられたようなものだった、
母なんて居て居ないようなものだった、だから母が亡くなったと聞いた時、
まるでよそのおばさんが亡くなったかのような冷たい心持ちにしかなれなかったのをよく覚えているわ…
それなのに父親が誰か解らないというだけで、みんなが生まれたばかりの貴女を悪く言うことに私は幼いなりに抵抗を感じたことを覚えています、だって赤ちゃんだった貴女にいったいなんの罪があったというのでしょう、
そしてどれだけ私が、貴女に逢いたいか?
解ってちょうだい
貴女のたった一人の姉の百合英より」
「父が貴女が生まれたと同時に亡くなった私たちの母を想い、それと同じくらい母を憎み、生まれたばかりの貴女をさっさと養護施設へ出してしまった、でもね私は施設へ出される前の貴女をこの目で見ているのよ、
だから、‘’この子をどこかへやっちゃわないで、一緒にうちに連れて帰ろう‘’
と父に頼んだこともよく覚えている、
でも駄目だった、
父は母の裏切りが許せず、それ以上にまだ赤ちゃんの貴女を憎んだ、
そして母亡きあと半年と経たずして父は再婚したわ、それはまだ幼い私に母親が必要だったからでしょう、
だから私も貴女と同じ、継母に育てられたの、
私たちお互いに姉妹揃ってなんて皮肉な運命なのかしら」
テーブルの上でそれら古い手紙を読み耽っていたが、やがてため息をついて、亜希子はそれらを硝子の円卓に伏せた。
同封されたはずの姉や実母の写真は一枚も無く、その後の姉からの手紙や葉書は何故か途切れていた。
だが、ところどころ過去の手紙には
「どうして返事がないのか?
お姉ちゃんには察しがついてます、
貴女のお父さんやお母さんがきっと私の手紙を隠しているのね、でもいいの、
いつの日かきっと私の手紙は貴女の手元へすべて届く日が来るでしょう、
それはもっと遠い未来かもしれない、
私達が親達の見栄や憎悪や世間体から、やっと解放されて自由になれた時、
お互いの子供を連れていつか姉妹そろって逢いましょう、
その日をお姉ちゃんは夢見ています」
「ふたりが初めて逢う時、私は大好きな百合の花を手に、貴女を待ちます、
貴女は貴女の好きな花を持ってどうか私を探してね、こんなことを書く私を貴女は少女趣味だと笑うかしら?
本当にそうよね、自分でも少女漫画の主人公じゃあるまいしってちょっぴり恥ずかしく思うわ、
でもカサブランカやシベリアのような白百合を持つひとを見つけたら、
それは私よ」
だが、亜希子が三十路近くなる頃から手紙は途切れ、簡単な挨拶のみの年賀状やクリスマスカード、
バースデーカードなどはその後2、3年切れ切れに続いたものの、いつの間にか、ばったりとその便りは途絶えていた。
自分が施設を通じて貰われてきた養女であることは知っていても、姉という血縁がいるなどとは夢にも思わなかった若かりし頃の亜希子は、その夥しい量の手紙を見つけて酷く驚いた。
だが問い合わせようにも姉の住所はもうとうに過去のもので、養女の亜希子にそれら新たな所在を探す伝手(つて)など、まるで無かった。
しかし数年前、自称、実母方の叔父だという初老の男が突然電話をかけてきて『あんた姉さんと逢ってみたいとは思わんかね?』と言い出し、以降亜希子はさながら寝た子を起こすにも似た気持ちを揺さぶられ、姉への想いが日に日に強まっていった。
自称叔父は、姉の現住所を識っており、生前の亜希子の母親がどんなに激しいほどの変わり者であったか、
喋々(ちょうちょう)と伝え述べたのち、実母は家出をして家庭を一年半も留守にし、果てには臨月近くの躰でふらりと家庭へなんの悪びれもなく帰ってきた、と言った。
そしてどうやら亜希子の父親はヤクザであったらしく亜希子を身籠った途端、
母は棄てられた為、渋々帰省したらしいのだとまるで鬼の首でも取ったかのような口調と態度で亜希子の反応を窺いつつ縷々(るる)と語った。
『ヤクザだなんてそれ…
本当のことですか?おじさんはちゃんと父と逢ったことがあるの?ないんでしょう?一度も逢ったことのない人のことをよくそんな風に言えるわね』
亜希子は冷たく片眉を吊り上げ、いかにも軽蔑しきった口調でそう言い放った。
『お前俺を疑う気か?やっぱり血は争えんな、お前も母親と似て変わりモンや、俺はな、お前のためにほんまのことを言うてやってんねんぞ?せっかくほんまのこと教えてやろう思うて言うたってんのに、こんな言い草で返されるとはさすが出自が違うとはこのことやな』
『私の為?嘘ばっかり、ただ自分の言いたいこと思いの丈に任せて言ってるだけじゃない、
父がヤクザかどうかなんてなんの確証も無い癖に』
『そういう噂やったんや、
どうやらそうらしいでってな、
お前の母ちゃん長いこと家出して、
ふらっと東京の家、帰ってきた時には、もう大ぉきなお腹してた…でも相手は誰かようわからへん、そやけどどうやら相手はヤクザの若い衆らしいでって、
当時はみんな言うてたわ、
でもそれがもし心外なことならお前の母ちゃんかて怒って否定しそうなものやのに、何言われても黙ったまんまや、
なんや知らんつ〜んと澄まし返ってニヤニヤしたまんまや、
ほんま変わった女やったで、あれは、
色の白おいべっぴんやったがね…
取り柄はそれだけや、旦那にも子供にも迷惑かけてお前さん産んでサッサと逝ってしまったわ』
『結局、母は何も言わなかったんでしょう?なら真実なんて闇の中じゃないの、ヤクザだなんだとあなた達の薄汚い好奇心で勝手に作り上げた妄想で私の出自を汚さないでよ!」
叔父とはそれ以降、酷く険悪となり当然、絶縁状態となった。
もともと神戸に住む叔父は頻繁に逢えるほど互いに近しくはなかった。
亜希子はなんとなく‘’不貞で出来た穢らわしい娘‘’と自分が見下されていることを肌で感じていて、最初から彼を厭(いと)うていた。
それと同時に叔父の中には自分を育てた時代によって染みついた思い込みが深く、さながら画用紙の折りじわのように彼の中に在り、詳細を知らぬままとはいえヤクザだの不倫だの非摘出子だのといった対象への拭いきれない嫌悪感が、
面白いほど勝手に黒い想像力を掻き立てていったのかもしれない。
‘’何が父親はヤクザだ、巫山戯るな!‘’
亜希子は心中怒り狂った。
だが、姉の現住所を教えてやった、
やったと恩着せがましいその叔父が、
実は遠縁でその血も可成り薄い者であることをのちの亜希子は知ることとなった。彼は亜希子の継父母がそこそこの家柄であるらしい噂を風聞で知り、良からぬ浅慮と共に亜希子に近づいたことも後の彼の言動により判明した。
だが肝心の亜希子にその浅はかさゆえに嫌われた‘’叔父‘’は彼女の中に悪意ある不明瞭な知恵を植え付けていっただけであった。
だが、‘’叔父‘’の‘’唯一教えてくれた真実‘’
、姉の現住所を訪ねるとそこには姉はもうとうに居なかった。
居たのは姉の父と、その後添いであり、急に現れた亜希子に取り乱した姉の父との軋轢に亜希子は苦い思いを噛み締めることとなった。
姉の行方は、当然教えてもらえようはずもなく、
『何処の馬の骨かも解らぬ女に今更娘の住所を教えられるとでも思うか??
自分の身の上をわきまえろっ!』
と玄関先で叫び立てられ、悔し涙を浮かべつつ、帰りの電車に揺られた夜を亜希子は今も忘れることが出来ない、
電話の向こうで急に私立探偵は破裂音のような烈しいくしゃみを立て続けにした後でこう言った。
『当然でしょうが、私立探偵雇うってことはねそんな十万、二十万ではどうにもならないよ普通、そりゃまあケースバイケースだし探偵にも寄るかもしれないけれど…俺はノーマルな探偵だからさ、
情にほだされたりもしないしまあ、
百万は下らないね、安くしてやったとしても百万はするね絶対に』
『……解りました諦めます』
亜希子の声はあまりにも闇(くら)かった。
『それがいいよそれか、もう少しお金貯めてからまた再チャレンジするか、
ねっ?』
『……ありがとうございました』
『…百万円は今はないんだね』と探偵は気になるのかもう一度試問してくる。
『今は私が、自由に出来ないんです』
『そうかぁ払えなくはないけれど…
ってわけか、
お母さんに成年後見人ねえ…
何故、君が後見しないの?家裁にそんなものつけてもらわなくたって君がすりゃいじゃないの娘なんだからさ』
『障害者なんです…私、一見普通に見えますが……その為の投薬もしています、
そういう人間は親の後見人には不適切とされます、
だから…家裁から許されませんでした』
『そうか…』
そう言ったきり、探偵は須臾、沈黙していたがやがてその沈黙の後に思いもかけぬことを、亜希子にこう告げた。
『後一時間くらいしたらもう一回電話してきてよ,あんたのお姉ちゃんの苗字がさ、國千嘉(くにちか)さん?
國千嘉百合英さんだよね?
職場だけなら…俺さぁタダで調べてやってもいいよ』
『職場って』唖然とした亜希子は咄嗟に二の句が継げなかった。
『お姉ちゃんの職場だよ、
ナースだってことまでは解ってんだろう?そこまで詳しいこと解ってんなら、まぁ、オマケ中のオマケしてやっても構わないレベルだわ』
『でも…東京中の病院ですよ』と亜希子はやっとの思いでそう言った。
『個人医の診療所とかでなく総合病院らしいってことまで判ってんなら、
こちとら簡単よ、君みたいな普通の人が自力で探すのはむしろ大変だと思うよ、プライバシー保護の観点からこういう人いますか?って聴いたって簡単には答えてもらえないだろうからね』
『その通りですもう調べようがありませんでした…』
『我々は仕事上、まず警察に許可をとってすることだからね、
時には目星にした家や会社のゴミまで持ち帰って、入念にいろんな角度からその人物を斬り込むように調べ上げてゆくんだが、プライバシー保護法から鑑みてもそれは決して違法なんかじゃないんだよ、だから本来こういうことは警察に許可を貰わなきゃ動けないんだけど…』
ここで電話の向こうの探偵の声が途切れた。
『まっ、これくらいだったらいいや、
なんだか君のことが気の毒になっちまってね…』情にほだされることはないと言ったその舌の根も渇かぬうちに彼は、
顔も見ぬ亜希子にどこか生き生きとしてこう言い放った。
『三十分後に…いや二十分後に電話しといでよ、
多分その時には教えてあげられるよ、
お姉ちゃんの勤務先、でも…それだけだよ?それ以上はもう何もしないし手伝わない、
いいね?解ったね?』
病院のロビーを低徊しても亜希子は妙な背徳心を感じて常に後ろ暗かった。
姉は2階の消化器内科の外来勤務と聞いていたものの、ナースはほとんど診察室に籠もりっきりなのか?なかなか見ることが出来なかった。
入院患者のためのナースステーションと違い、外来向けのナースステーションは、あらゆるブースや扉に細かく仕切られていて来訪者への透明度が薄く、事務職員の座る受け付けのデスクに囲われたその奥で立ち働く看護師の姿はなかなか見ることが出来ない。
たまに外来の診察室からバインダーを胸に抱えて出てくる若いナースも居るには居たが、待合室に座る患者に二言三言何かを告げるとすぐに診察室へと消えてしまう。
中年のベテランナースともなると、中に入りっぱなしで恐らくは医師の付き添い的な存在なのかもしれない、その片鱗すら見ることが叶わない。
たまに廊下ですれ違うナースは二十歳過ぎくらいの非常に若い女性ばかりだ。
その為、妙齢の看護師とすれ違うたび一々亜希子の視線はその胸にある名札に釘付けとなった。だが、姉の姓をそこに見つけることはまる3日通い詰めても、ただの一度として無かった。
亜希子は三日目の朝、メッセージカードに姉に逢いにこの病院へ来ている旨、一度だけでも姉妹としてどうか逢ってはもらえまいか?とその気持ちを率直に綴り、自分の電話番号を書き記すと、通りすがりの外来の姉と年端の近い感じがするナースを呼び止めるとそのカードを託した。
ナースは怪訝な顔を隠さなかったものの、『妹さんからだと言って渡したらいいのね?』と柔らかく言ってくれ、
亜希子はその優しい口調に思わず安堵して震える笑みと共に深く頷いた。
その日、亜希子は家へ帰ったが、二日後にポストへ届いた百合のメッセージカードにはこう書かれてあった。
「あれからいろいろと考えました。
でももう私は昔の私ではありません、
もう以前とは気持ちも違うし、お互い立場も違います。
でもせっかく来てくれたのなら、
次回の木曜日になら逢えます、
忙しいのではっきり何時とは言えませんが、十一時から昼下がりにかけてまでの間、それでも私に逢いたいと貴女がまだ思うのであれば、私は百合の花を手に貴女に逢いに行きます」
亜希子は感涙と共に天にも昇る思いとなってそのカードを固く胸に抱きしめて、思わずその場で躍り上がった。
東京とひとくちに言ったって広い、
同じ東京にいた姉妹といっても亜希子は、家庭でじっと定住出来ずに施設だの全寮制の学校だの、他人の家へ預けられることもよくあり、日本中、居場所を常に転々としていた。
その為、形式上、継父母がいるとはいえその内実、あまり家庭を知らずに育ってしまった。
‘’姉はどうだったのだろう?‘’
亜希子はよく思った。
姉もまた継母に育てられている、
軋轢は無かったのだろうか?
それとも他に兄弟姉妹は生まれなかったというから、よい関係性を築くことが出来たのだろうか?
世の中、継母だからといって何も上手くゆかない間柄ばかりではない、
亜希子は自分の胸元と肩とにある小さなケロイドの痕を鏡の中に見るたびに鏡が銀色の水面(みなも)のように一瞬揺らぐほどの、ほとんど目眩に等しい悲しみを覚えた。
悲しみと恐怖という概念事態がまるで逞しいような個人性を持ち、人のような強い意思を持って我が身を見知らぬ他人のように凌駕してしまうことがあることを、一体、誰が解ってくれるだろう?
そんな時どうにも制御不能な坩堝(るつぼ)へと陥ってしまう、
それを解ってくれるのは姉以外にはいないような気が、亜希子にはいつもした。
無論それは甘ったれた自分の中の希望的観測に過ぎず、的外れなただの夢想に終わる場合だって充分にある。
とはいえ自分と血をわけた姉とはそういった以心伝心が可能な気がする…亜希子の胸は否応無く高鳴った。
そして、今日その姉に生まれて初めて逢えるのだ。
姉が若かりし日にあの白百合の絵柄の便箋に自ら書いたとおり、姉は百合を手に、妹を探す。
妹はいちばん好きな花である薔薇を持って姉を待ち焦がれるのだ。
まるで失われた少女の時を互いに姉妹揃って取り戻すかのように、
たとえ、それがどんなに安っぽく俗悪なメロドラマや薄っぺらい陳腐なロマンチシズムだとしても一体誰に、それを嗤えよう?
だが、いくら待っても姉は現れなかった。
約束の時間は三十分を超え、
一時間、二時間、三時間とどんどん過ぎた。
時間の流れは恐ろしく鈍(のろ)かった。
だが、亜希子は目の前に置かれた赫い薔薇を見つめたまま、自分の顔から血という血が一斉に引いてゆくその恐ろしい音をただ熱い耳朶(じだ)の裏でひたすらに聴いていた。
やがて薔薇を持ったまま色蒼褪めた彼女は、姉の指定した待ち合わせ場所のフードコートの中だけでなくそこへつながる赤煉瓦敷きのパティオや人通りの多い外廊下、
カフェの店員にまで目まぐるしく視線を馳せた。
どこかで百合を持たずに代わりに亜希子には理解不能な計画を持った姉が自分を密かに人影に紛れて何処からか、
見ているような気がしたからだ。
やがて「私は貴女の顔を知っている」
と過去の姉の手紙にあった言葉を亜希子はつい想起してしまい、時が経つにつれ、彼女はその言葉に飲み込まれるように翻弄されていった。
「遠くから貴女を見たことがあるの、
その時、貴女は高校生だった、
度の強い眼鏡を掛けていたけれど制服姿の貴女はとても初々しくて可愛かった、
今は眼鏡は掛けていないのね、コンタクトなのかしら?」
「電話で話したこともあるのよ、
貴女はお姉ちゃんだとは知らずに間違い電話だと言った私にとても丁寧に優しく接してくれたわ、お姉ちゃんそれがなんだかとても嬉しかったの」
そんな達筆な姉の手紙の文字が亜希子の脳裡を幻の暗号符のように浮かんでは消える中、彼女はただ自分の周囲の見知らぬ世界をどんどん目の前で風船のように膨らみ続ける恐れをもって見守るより他は無かった。
『どうして知らないのはいつも私だけなの?
いつも私にはその権利がない、
教えてよ!見せてよ!
貴女の顔を、
貴女の声を、
貴女の世界を少しでいい!!』
五時間を過ぎた頃には亜希子の顔は昏く絶望に打ちひしがれていた。
夕刻近くなり、姉の病院へ電話をかけると見知らぬ看護師が出てきてこう言った。
『國千嘉さんね電話には出られないって…
彼女言ってたわよ、
‘’彼女‘’は本当は妹じゃないんだって、 妹だと言い張って意味不明の電話をしてくる他人で…ちょっとおかしい人で…
困ってるって、だから私言ってやったのよ、それなら警察に電話すればって、
だってそれじゃまるで女のストーカーじゃないのって』
姉が妹に逢いにくい真の事情を亜希子は自称叔父の遠縁を通して知っていた。
百合英と亜希子の姉妹の実の伯母が亡くなり、その家の土地売却代金に対し、子供の、いない伯母の姪である長女の百合英に半分、異父姉妹ではあるものの自分の妹の娘である亜希子に残る半分を贈与すると遺言されたにも関わらず姉が全て受け継いでいたのだ。
その際、姉は妹の現住所を一方的に知っていながら『妹は生き別れてからずっと行方知れず』と言ってしまっていた。
現に姉妹揃って二度三度と、転居をしており、当時の弁護士はそれを事実上、
黙認してしまった。
姉の良人(おっと)は当時、リストラをされ、幼な子たちを抱えた姉は困り切っていた。
妹といつの日か逢えると夢見たあやふやな将来よりも、今在る家族との絆を姉は選んだ。
やむを得ない事であったと亜希子は理解したものの、
その行為は完全にこの日本という国の法律においては違法でもあった。
そしてその選択をして以来、姉の中には怖れが生まれた。
姉を今更責めるつもりもない亜希子の気持ちは変わらなかったが、百合英は妹が秘密を知ってしまっていることをあの‘’叔父‘’から早速、吹き込まれ、不必要なまでに怯えてしまった。
亜希子と険悪な仲の‘’叔父‘’から、姉、百合英は、お前の妹は自分の取り分を知らぬ間に盗られてお冠だ、とでも吹き込んだのやも知れぬ、
過去の行いという罪に慄(おのの)く後ろ暗い白百合は、自分を責め立てる薔薇の棘を、信じる余り、とうとう自らの約束の場に現れることはなかった。
絶望する亜希子は、後ろからいきなり肩を叩かれ、怖気(おぞけ)だつその顔で鋭く背後をふりかえった。
が、そこにいたのはフードコートを掃除する店員で、小柄な老人の掃除夫は困惑した顔でまるで酷く済まないことのようにおずおずとしてこう言った。
『あのう…もうすぐここを閉めないといけないんで…』
亜希子は狼狽し切ったように辺りをふりかえると張りつめた口調でこう言った。
『ごめんなさい気がつかなくって』
すると彼はまるで憐れむように優しく首を振るとこう言った。
『いいんですよ、
今日ずっとここで、誰かを待っているようでしたね…でも』
と、彼は薄くしぼんだ瞼のかぶさる驢馬のように黒ぐろと大きな、驚くほど美しいその瞳を亜希子に向けると、まるで神のように悲しげな声でこう告げた。
『もう…終わりなんです』
亜希子は青褪めたまま深く頷いた。
解ったと云うかわりに予期せぬ大粒の涙が彼女の頬を転げ落ち、コーデュロイに包まれた暖かい太腿を、まるで他人事のように冷たく濡らした。
亜希子はフードコートを去り、パウダールームでおざなりに化粧を直すと外へ出た。夕暮れの明色を挿し色に揺らぐように一気に陰へと沈みゆく、まるで傾いた難破船のような街を彼女はうつむき加減に歩き始めた。
まるで暗い波間を独りで小舟に乗って漕ぎ出すような強過ぎる心細さに、亜希子は本気で気が狂うのではないか?と懸念した。
そして彼女は口籠るように人知れず黒いマスクの下でこう呟き続けた。
『百合なんて嫌い!』
そう言うと彼女はスニーカーの靴紐が解けかかっていることに気づいて立ち止まり、佇んで靴紐を結びながら尚も、こう独りごちた。
『もともと嫌いだった、
あの花粉も嫌いだし、香りも好きな香りなんかじゃない、
もともと肌の合わない花だったのよ』
彼女は靴紐をわざともう一度荒々しく解くと、更に結び直しながら震えるそのか細い指先と自分の声とに気づきながらも、
「毒があるくせに優しいフリしてあんな花嫌いよ!薔薇のほうがむき出しの
棘を隠そうともしないし、まだ素直じゃないの、違う?」と言った。
「もういい」
涙が雨のように足元の渇いたアスファルトを濡らす。
「もういいのよ忘れよう…亜希子、
忘れよう!
あの人だって可愛そうなのよ、
だからもう…仕方が無い…」
そう自分に言い聞かせると彼女は秋の冷たい夜気の中、揺らぐ虚ろな影のように立ち上がった。
「一目だけ逢ってみたかったけど…
向こうが望んでいないんだもの…
私にはもう……どうしようもない」
彼女は足元に影とはいえ、異様なまでに巨大に伸び過ぎる自分自身の影法師を、誰か見知らぬ者が造ったものであるかのように怯えながらも、やり場の無い怒気と悲しみとにまるで嵐の中、あの時折見かける路面で旋回するビニール袋のように翻弄された。
『でもそれならどうして…?
一度だけ逢うって言ってくれたの?
あの場所を手紙で指定してきたのだって貴女のほうからだったのに…
私を信じてくれたからじゃなかったの?』
彼女は見知らぬ街の空に向かって心の中でこう叫んだ。
『それとも私が怖いの!?貴女を愛しているのに??そんなに私が嫌いなのっ?貴女にとって私はいっそ現れないでいて欲しかった邪魔者でしかないんでしょうっ!?』
今となってはどうしようもない怒りが次々と彼女の中に滾々(こんこん)と黒い泉のように沸いてくる。
姉の父から玄関先で塩でも撒きそうな勢いで言い放たれた悪罵までもが、亜希子の脳裏をまるで脈打つ頭痛のように彼女を内側から支配し、やがてそれはくるくると蝙蝠が造る影のようにひるがえりながら何度も何度もその脳裡に蘇った。
「私は‘’どこかの馬の骨‘’なんかじゃないっ!そんな昭和みたいな酷いこと言わないでよっ今一体いつだと思ってんのよ?そんなこと言っていいと思ってんの??人権蹂躙、名誉毀損!!
そのうちのどれかでいずれ必ず訴えてやるから覚えてろっ!」
彼女は怒りの余り、駅の裏にあるゴミ箱のコンテナーを蹴っ飛ばし、声にならない叫びを隠忍した。
「悔しい悔しい悔しい…!」
彼女は散々、コンテナを蹴り飛ばし、
近くの店裏からそんな所業を見咎められ通報されそうになってようやくその理性を取り戻した。
涙ぐみ、震えながら、亜希子は片手に握りしめていた血塗れの薔薇の花を錆びついたコンテナの上へ置き去りにすると、まるで野良猫のように咎(とが)のある闇路を駆け去った。
手のひらに食い込んだ薔薇の棘を公衆トイレの個室で丁寧に鼻歌と共に抜き去り、ハンカチできつく縛りつけたその手を自分の胸に抱きかかえ、亜希子は涼しい顔で電車を乗りかえ、乗りかえし、
やがて無意識に誤った家路へと着いた。
途中から彼女はその誤りに気づいたが、それに任せてどこか遠くへ消えてしまいたい、と強く願った。
電車の扉に寄り添って、亜希子は遠い空に何故か赫く輝いて見える星を見た。
その星は次の瞬間、薄蒼く砕氷のように冴え冴えしく見えた。
その時、彼女は幼い頃、転々と預け先の変わる居場所と褥(しとね)の上から『あれは私の星』と勝手に決めた星があったことを思い出した。
幼い頃は東の星に必ずあったはずのその星なのに、不思議と彼女の成長と共にその星はいくら探し出そうとしても見つけることが出来なくなっていた。
それなのにその‘’亜希子の星‘’はその日、いとも簡単に見つけることが出来た。
まるでそれが神の真意であるかのように。
亜希子はその星を見て思った。
‘’今日もうここで過去は棄てた…
だからもうここへは戻って来ることもない、姉のことも…
もう忘れるんだ、しょせん私には血の繋がりだの家族だの縁の無いことだった…
守ってくれる家庭、庇ってくれる家族に幼い頃から乞い焦がれていた。
心から焦がれ続けた…
でももう今日を限りにそんな夢は忘れるんだ!そんなものは普通の人たちにだけ当然のように付与されるもの…
私はそうじゃない!
‘’普通‘’じゃない!
ずっとそう言われてきたじゃないの、
母親を殺して生まれてきた低能児だ‘’ってね、いい加減そのこともう解れってわたし!?‘’
亜希子は痛む手のひらを力任せに握りしめ、その圧で痛みを紛らわせた。
気がつくと横浜まで来てしまっていた彼女はその初めて歩く街を意味もなく彷徨い、涙にかすむ視界に、旧く寂れた匂いのするどこか昔懐かしいアーケイド街を見つけ、迷うことなくその疲れた足を踏み入れた。
そしてその古びた商店街に似つかわしい木造モルタルの一軒家をごく僅かに改装しただけの小さな猫カフェをそこに見つけた亜希子は、狂おしい悲しみに塞ぐ胸を鎮める為にその猫カフェへと半ば逃げるような心地で駆け込んだ。
いろんな毛色の、いろんな大きさの猫たちが、様々な色の瞳を一斉に亜希子という新参者に向けると同時に黙って静かに見守るのを感じる中、亜希子はふと身じろぎひとつせず、射るような強い視線を自分に向かって一心に放つ小さな白猫の存在に気づいた。
他の猫たちは馴染み客とおぼしき人物の膝の上へ乗ったり、頭を撫でられていたり、おやつを分け与えられていたりと、めいめいに客である人間と親密そうな交わりを見せているのにその猫だけは、
壁にある毛布を敷いた作り戸棚の中から顔だけ突き出し、亜希子をじっとただ睨みつけていた。
よく見ていて気がつく程度の差異ではあったが、その白猫は片目が僅かに小さかった。その為、どことなく顔立ちのバランスが悪く、口もとにも少し歪みがある為、憐れなほど奇妙な顔つきに見えた。
白猫といっても生まれつきうっすらと塵埃を被ったように見える白猫で、毛並みもパサついて艶がなくとうに成猫であるにも関わらず、非常に小柄で貧相ですらあった。
白猫らしい美しい澄んだ碧眼でもなく、神秘的で人気のオッドアイなどでもないその猫の瞳は、菜の花のような黄色ですらなく、まるで使い古して濁った古い油のような珍しい色をしていた。
その左右非対称で奇妙な目と口許で、
無愛想丸出しのその猫は亜希子を穴のあくほど凝視し続けていた。
店内に招き入れられた亜希子は、その見るからに人間嫌いの白猫の眼を見て、
氷が溶けるようにゆっくりとした時間をかけて幾度も幾度もまばたきをして見せた。
そのことだけに三十分以上も費やした。
気がつけば一時間以上経ち、亜希子が帰ろうと立ち上がると、白猫はいつの間にか亜希子の足元に忽然とその姿を現した。
そして亜希子が差し伸べた無傷のほうの手のひらに白猫は思いっきりその林檎のように小さな、しかし聡そうな頭を何度も心からめり込ませて見せた。
「あら、珍しい、滅多に人に懐いたりしない子なのに初めての人にそんなことするなんて、貴女何か魔法でも使ってスミ子の心を動かしたの?」
と、お客の一人が言ったのを聞いて亜希子は、悲しみにひび割れた心を隠した明る過ぎる笑顔でこう言った。
「スミ子ちゃんっていうんですか?
この子」
そう言ってゆっくりと膝を延ばし立ち上がったその瞬間、亜希子の胸、目がけて白猫は唐突にジャンプした。
咄嗟に白猫を受け止め、胸に抱(いだ)いた亜希子は、その豊かな乳房と乳房の奥深く皮膚が裂け、まるでダムが決壊したように押し寄せてくる濃い血の濁流を感じて彼女は思わずその眼を閉じた。
そしてその濁流とほぼ同じ味のする白猫への愛おしさに、亜希子は鷲の鉤爪のように強く絡め取られ、その場に動けなくなった。
白猫への予期せぬ愛に釘付けとなった亜希子は思った、
誰にも知られずこう思った。
「やっと逢えたね私たち…」
亜希子は小さな白猫の頭に頬を擦り寄せ、心の中でこう問いかけた。
「リリー…
私は貴女をリリーって名付ける、
いいでしょう?」
亜希子の心の声を聴いたように‘’隅っこスミ子‘’は、亜希子の腕の中で亜希子をその奇妙な、だが美し過ぎる古い油のような色の瞳でじっと見た。
そしてにゃあと囁くように老婆の如く掠れたその声で‘’彼女‘’は鳴いて応えた。
「貴女はリリー、
でも百合じゃない、
ただのリリー、私の…友達」
飛びついて抱きとめられた白猫は、亜希子の顔に頻(しき)りに頬擦りをしながらその喉を鳴らし続けた。
それを見て、光(みつる)は何故か初めて見る光景とは思えなかった。
亜希子が入ってきた時も前から彼女がここへやって来るような、そんな気がしていたからだ。
全てが既設された出来事の中にいるような既視感があり、光はそのことに何故か不思議な安堵感を覚えた。
亜希子の細長くどこか不安定に見える首に巻かれたあの時代遅れな青紫のロングマフラーも何故か総てが懐かしい、
酷く新鮮なのに同時に古粧(めか)しくもあり安堵する、
そんなシンクロニシティってあるのだろうか?
いやシンクロニシティとはもしかしたらそういうものなのだろうか?
光は初めて見るお客をそんな想いで凝視せざるを得なかった。
平成の名残りがまだ強い令和の秋の夜だった。



