連載小説『恋する白猫』第十四章・Don't disturb
『あの人達…もう2回目ですよ、
ベルちゃんを見に来たの』
と、昨日から今日にかけての猫用おやつの総売り上げ額を計算する光(みつる)の傍に立つ有栖(ありす)が近々と彼女に身を寄せてそう耳打ちした。
『え?』と、光は電算機から顔を上げ、心、此処に在らずみたいな顔をして有栖を振り返った。有栖は部屋の中央のソファーに座る4、50代くらいの品のいい身なりの夫婦に向かってそっと顎をしゃくるようにしてこう言った。
『あのご夫婦ですよ、
東京からわざわざいらして下さって…
ベルちゃんのこと欲しいようなんです』
『ベルを?』と光は思わず息を飲みその夫婦を改めて見た。
なるほどふたりは目の前のテーブルの上でスフィンクスのように気高く座るベルに手を伸ばし、さも大切そうに、
だが、慣れない手つきでかわるがわる嬉しそうに撫でている。
『…へぇそうなんだ』
と、言いながらも光はその夫婦を見るのが今日が初めてであったため、そんな重大な話が何故自分という一番の古株の職員を差し置いて暗々裡に進んでいたのだろうという気がした。
とはいえ店長や店長夫人から全く具体的な話が無いということは恐らくは本決まりどころか、まだ青写真にすらなっていない段階なのだろうと光は経験上、思弁した。
『山田さんが留守の時、あのご夫妻いらっしゃったんですけど、お子さんがいない夫婦らしくって淋しいのかもしれませんね、特に奥様のほうがベルに一目惚れしちゃって…
ベルって見た目だけじゃなくて性格も優しくて可愛らしいし、超絶いい子だから』
と、有栖は言うと、赤ピンクの細いメタリックな縁取りの眼鏡を外し、ツインテイルを垂らしたエプロンの胸もとで、ぞんざいに拭くなり、またいそいそとかけ直すとこう言った。
『どうやらベルの里親になりたいと志願しているようですよ』
『そうなんだ…』
ベルは誰にでも人懐っこく明朗で悧発、尚且つ穏やかな性格で家猫にとても向いた性格の猫だ、一見するとまるで純血のターキッシュアンゴラなのかと疑うほどの優雅な外見を持ってはいるが、スリットの入った片耳でかつては外で暮らす地域猫であったことが一見して判る。
『まぁ…でももしそうなればベルにとってはいいことよね、正直猫カフェの職員がこんなこと言っちゃなんだけど…やっぱりちゃんとした家庭に貰われていって、大切にされるほうが猫も幸せだと思うもの、ま、よかったじゃない、
ベルもう大人だしなかなか貰い手がつかないなと思ってたけど…
有り難いお話だわ』
光は、計算が終わると昔からスイートハートで連綿と受け継がれているもう何冊目なのか解らない帳簿代わりの大学ノートへそれを書き写しながらそう言った。
『でもそうするとコミュ障の隅っこスミ子がまた独りぽっちになっちゃいますね、せっかくベル姉さんとは仲良しなのに、ベルだけですよ、陰キャで気難しいスミ子ともうまくやれるのは』
『そうか…そういえばそうね』
だが、心の中で、光は‘’ベルが居なくなってもスミ子にはもっと最愛の人がいるわ、だから大丈夫よ、それに「隅っこスミ子」は最愛のその人からはリリーだなんて貴婦人のような名前で呼ばれているの、貴女はそんなこと…知らないでしょ?‘’
と思った。
‘’そのことを知っているのは私と亜希子さんと…そしてリリーの三人だけ‘’
『今日も来ていますね』
『え?』
『坂本さん親子』
『ええそうね…』
『瑞葉(みずは)さん統合失調症だとはねぇ…全然普通に見えるのに、
だから働いてないんですね、
ってか働けないんでしょう、
ああ見えて彼女、障害者手帳の等級もかなり高いらしいから…
見た目より重症なんだそうです!』
光はため息をついた。
『ねぇ有栖ちゃん珈琲私に淹れてきてくれない?私なんだか喉乾いちゃった、
ちょっと今日暖房いつもより強いみたい、もう少し温度下げようかな』
『えー私が珈琲淹れるんですかぁ?
お客さんのじゃあるまいし、自分で飲むぶんくらい自分で淹れて下さいよう』
『だって有栖ちゃんが淹れてくれる珈琲超美味しいんだもん私大好き』
『え〜マジですかぁ?
う〜ん…まぁそういうことなら…
淹れてあげてもいいですけどぉ…』
満更でもない様子で厨房へ入ろうとして有栖は光にまるで思い出したようにその身を再びするすると寄せてきた。
『あの人この頃また来ないですね?
手島さん、でしたっけ?
そう言えば手島さんね時々瑞葉さんと話し込んでましたよ、私、過去2回だけ、見たことあるんです、
なんていうのか…
他愛のないお喋りとかいう雰囲気ではなくて、まるで密談中みたいな感じでした、手島さん凄く深刻な顔で瑞葉さんと間近で向かい合って…
お互い目は合わせないのに小さく頷きながらヒソヒソって感じで…
瑞葉さんがまるで手島さんに何かを教えてるみたいに見えました、
だって手島さん瑞葉さんの言葉を手帳にメモったりしてたし…不思議なんだけどその時の瑞葉さん…
いつものニコニコふわふわしてて、
でもたまに頭のネジが軽く飛んだみたいな素頓狂なこと言ってきょとんとしてる、あのテンネンな感じじゃなくて…
凄く明晰な様子でした
あの冷たい横顔忘れられないもの、
まるで別人みたいだった…
手島さん、最後そんな瑞葉さんにそっと肩を叩かれたりして…
まるで慰められてたみたい、
いったいふたりが何を話してたのかは解らないけど、親密な仲なのは間違いないですね、あれはきっと…
普通の関係ではないです、
なんていうのか…雰囲気的にはまるで…』
と、一瞬の間があったかと思うと有栖は光の耳朶(じだ)にぴったりその唇を密着させると熱い吐息を吹き込むようにしてこう言った。
『…共謀者!』
『…えっ!?』
と思わず有栖を振り返ったが、彼女は光が振り返ったと同時に厨房の扉を揺らし気まぐれな季節風のように消え去った後であった。
‘’何?どういうこと??
有栖が担当の日に偶々(たまたま)そういう光景を見たってこと?‘’
光は思わず耳同様、妙に熱く感じられる親指を手のひらに固くたわめ込んだ。
‘’どうせ大袈裟に言ってるのよ、
亜希子さんだって私以外の人と此処でお喋りすることくらいあるわ、気にすることない、ない、
でも…メモしてたって…?
いったい何を…‘’
彼女はまるで舞台の上の大根役者のように大袈裟にかぶりを振るとこう思った。
‘’きっと美味しくて簡単なお料理のレシピでも習ってたんでしょ、
そんなの女同士だとよくあることよ‘’
そう思いながらも光は、不快な芽が自分の心の暗部に固いささくれのように醜く芽ぐむのを感じて厭な気持ちになった。
その夜、窓硝子をガタガタと荒々しいほどに鳴らす春の嵐に光は枕を抱きかかえ、まるで大き過ぎる不安な胎児のように横たわっていた。
悪霊に取り憑かれた女が泣きすさぶような春霖(しゅんりん)をはらむ風の音にも、臆病な光はその耳を塞ぎたくなった。
なかなか眠れずベッドの上で輾転反側するうち、彼女は亜希子へ思い切って電話をかけてみたいという切な過ぎる発作に襲われた。
夜は気持ちが昂ぶる、
こんな不安な夜はもっと昂ぶる…
そんなことを言い訳に深夜だがいっそ電話をかけてしまおうか?という想いが、矢も盾もたまらず光に追い打ちをかけるが如く襲ってくる。
亜希子は‘’今は事情により、いろいろ立て混んでいるから暫く電話は出られないと思う‘’
と言っていたしその言葉通り電話をかけても繋がることはあれ以降皆無だった。
ラインも既読にすらなっていない、
光はいつの間にか戦慄(わなな)く唇から切れ切れの浅く狂おしい呼吸が漏れ、
枕を抱きかかえたまま、ベッドシーツを涙で濡らした。
横たわって泣き咽(むせ)ぶ光の右目からあふれた涙が鼻筋を横一文字に乗り越えて左目に入り、右目から流れてきた涙と左目の涙とが、ない混ぜとなって大量の涙と化し光のベッドをしとどに濡らす。
やがて真夜中の寝室を頭を抱えて右往左往した挙げ句、亜希子にやっとの思いで電話をかけたものの、ワンコールですぐに切ってしまい、その直後、毛布を頭から被ると自己嫌悪の余り光はまるで吠えるように泣いた。
‘’いったいあの幸せはなんだったの?
あれは気まぐれ?亜希子さん
もう私のところへ来てはくれないの!?‘’
するとナイトテーブルの上でブブブ、ガガガと音が鳴りながらスマートフォンが振動した。
光は毛布をガバと跳ねのけると、ベッドの上をひとっ飛びし、飼い主に思いっ切り放り投げられた棒っ切れに飛びつく仔犬のような勢いでそのスマートフォンに飛びついた。
『亜希子さんっ!?』
するとあの懐かしい声が当たり前のように明るく響く。
『みぃちゃん?ごめんねなかなか電話出られなくて…どう?元気だった?』
『うん…元気』
と、光はしゃくり上げながらも、あの老いた魔女のようなダミ声はどこへやら急に無垢じゃないのに無垢みたいな声を出すとそう言った。
『よかった』
『リリーも元気だから心配しないで』
と光は、あまりにも可憐過ぎて不自然な少女のような声を抑えて意識的にいつもの自分の声に戻ろうと努めた。
『ありがとう、みぃちゃんが見ていてくれるから安心してるわ、仲良しのベルちゃんもいてくれることだしね』
そのベルがもうすぐ居なくなるかもしれない、とはこの時の光は言い難かった。
『私ね、ちょっといろいろしないといけないことがあって…電話かける余裕というか…余力が無かったの…でも…ようやく少し落ち着いてきたから…
かけてきてくれてありがとう』
『電話かけておいてすぐに切ったりしてごめんなさい、こんな時間なのに…
でも淋しくてたまらなかったの、
こちらからかけ直す?』
『いいのよ大丈夫、でもみぃちゃん、
…また眠れないの?まぁ私も偶々まだ起きていたんだけどさ』
『だってこの音、聴いてよ!』
と、光は泣きそうな声を出して寝室の窓に向かって携帯を向けた。
『本当だ、そっちの方が風、強いね』
『ずぅっと独りぽっちでこれ聴いてると頭がおかしくなりそうになるの、
これ以上頭がおかしくなって、もしもビョーキになったら私もう働けなくなるわ、そうなったら亜希子さん責任もって私のこと養ってよね!?』
『何言ってるのよ、みぃちゃんの頭はとっても優秀だし、それに鬼の霍乱(かくらん)ってそうそう起こらないものなの、
だから大丈夫よ、
貴女はもっと健全な人でしょ?
それよりお姉ちゃんから返事は来た?』
『まだ…』と言いながら光は‘’オニのカクラン‘’ってどういう意味だ?‘’と一瞬考え込んでしまった。
『そう…遅いね…でもまだ読んでないのかもしれないわね』
『そんなことより!』
と光は頭の隅で未だ‘’オニノカクラン‘’にこだわりながらもこう叫んだ。
『桜っ!!
とうに咲いちゃってるじゃないっ!
嘘つき!桜咲いたらこっちに来るって言った癖に!』
『まだ五分咲きくらいでしょう?
もうちょっと待ってよ』
光の強い悲しみをはらんだ不機嫌を、その後の沈黙から受け取った亜希子は、『ごめんなさい嘘ついたつもりはないのよ、もうすぐ行けると思うわ、
今ねえちょっと…急なことになってて…
そのせいでバタバタしてるの、
だから…』
『急なことって何?』
『………』
『いつも何も言ってくれないのね…』
『今はね…今度言うわ、
ただ…あんまり心配かけたくなかったのそれにきっと…』
と、長い沈黙が流れ、光は問うた。
『きっと、何?』だがそれには答えず妙に朗らかに亜希子は言った。
『ねぇ今夜はこのまま電話繋ぎっぱなしで朝までいましょうよ』
『大丈夫なの?そんなことして』
と、光の不機嫌はまだ溶けない。
『私は大丈夫よ、だからどっちかが眠れるまでお喋りしましょう、声だけでも繋がっていたらお互い安心出来るでしょう?久しぶりだしね』
『うん!嬉しい』
光はその言葉を聴いてさっきまでの不安でならないあの問いかけすら今や綺麗さっぱり忘れ去って感極まる思いがした。
『淋しさに負けそうな時には想像してみて、私が傍にいるって、
私もよくそう思うのよ、見えないだけで…本当はみぃちゃんが傍にいてくれるってね、妄想だけど』
『私のこと妄想してくれるなんて嬉しい』
つい涙声が出てしまう光に亜希子は受話器の奥から、まるで天鵞絨(びろうど)を想わせる低いがなめらかで暖かみのあるその声でこう囁く。
『今もしてみて、目を閉じて、
みぃちゃんのベッドの片側に向かって手を延ばして』
『手を?』
『そうよ、その向こうにはただ暗闇だけがあるでしょう?でもそこには本当は隣り合わせに私のベッドがあるって…
想像してみて』
そう言う亜希子の声は暖かく光の耳には響くが、何故か同時に疲弊と深い悲しみを感じるような気がしてならない、
『だから手を伸ばせば…私達はその手を繋ぐことが出来るわ』
光は目を閉じて、無理矢理な想像に身を任せて亜希子におもねるようにこう言った。
『見える…ような気がする…そうね、
なんだか見える気がする…
亜希子さんが私のベッドから少しだけ離れたところに横たわっているのが見えるわ…私と同じように暗闇の中、
ベッドの上で』
でもそれはどこか元気のない亜希子の声に異変を感じて光が無理にそう言って合わせただけで、光は内心そんな空疎なロマンチックなんていらないと思っていた。
『ねっ?だから離れていても私達の心は寄り添っているのよ、そう思うことにしましょう』
今日の亜希子からは何処となく弱々しい言葉が多いように感じた光はそんな亜希子への心配がよぎる中、それでも尚、自身の不安に耐えられなくなってとうとう光はこう叫んだ。
『でも想像するだけなんていや!
そんなの淋し過ぎる、私はリアルが欲しいの!』
『でもね、
私達はこうやって遠く離れていてもお互いをいつでも思い出すことが出来るのよ、星の光が地上から見えても本当はもうその星が存在しないことがあるように、
もしどちらかがいつの日か欠けて居なくなってしまっても…
何億光年もかけてその星の光が地上の人の目に届くように、私達の記憶にはきっとこれから何があってもこの思い出は…
消えないと思う』
亜希子の話し進むにつれ、妙に掠れゆく声が一声一声まるで努めて絞り出すかのように感じて光の胸に不吉なざわめきのような波立ちが起きた。
『そんなこと言わないで、
なんだか…どちらかがまるで…
死んでしまうみたいな言い方じゃない』
『そうじゃなくて…仮の話よ、
でも私より若いみぃちゃんが…この先ずっと長く生きたとして…
私に関する記憶が、将来のみぃちゃんの幸せの影で、もし影の薄いものになってしまったとしても…
または若気のいたりだったとして、
私とのことを恥ずかしく思うように変わっていってしまったとしても…
ふたりが友達であったということだけは…きっと無傷で美しいまま変わらないと思う…
でもそれは…私の願望でしかないのかしら…』
光はこの時やっと気がついた。
亜希子が光に気づかれないよう朗らかを装って泣いていることに。
光はベッドから飛び降りた。
するといきなり彼女は頭の上までどっぷりと、ボリュームのある漆黒の豊かな夜の水に深く深く沈み込んだが、彼女はすぐに浮上した。
そして亜希子のベッドの傍まで抜き手を切って泳ぎ寄った。
亜希子のベッドへ泳ぎ着くとそんな光に向かって姿勢を屈めた亜希子の襟を光は掴んで思いっ切り引っ張った。
それは自分に悲しみを与えた罰のつもりだった。
黒々とまるで綸子(りんず)の表面のように艷やかで光沢のある、凪いだその水の中へ落ちた亜希子は少しも驚かず、
むしろ嬉しそうに笑っている。
ふたりは水の底へ底へと手を繋いで泳ぎ進むとやがて揃って上を見上げた。
ふたりのベッドはまるで小舟のように遠い水面にぷかんと浮かび、その上にはペンダント式の照明の在る、あの味気ない狭くて四角い光のマンションの天井が見えた。
水底(みなぞこ)を見渡すと長い廊下がうねうねとまるで蛇行するようにひたすら連続し、その両脇には等間隔に同じ扉が並んでいた。
その扉は皆、概ね閉まってはいるものの、中には薄く半開きのものもある。
そこには灰色のデスクが置かれ、上にはクリームいろの固定電話があった。
やがてその電話は水の中で鳴り響いた。
まるで早く電話に出ろとでも言うかのように、
別の半開きのドアから見える風景は、いつものスイートハートへ向かう駅への道程(みちのり)が何故だか果てしなく続いていた。
もうひとつの扉の影からは光の故郷の街並みが望めた。
他の部屋からはパソコンに向かって頻りに、ゲームに興じる40過ぎた男の姿が垣間見られた。
彼の傍には家族から差し入れられたのであろうか?空の食器が山ほど部屋の一隅に積み重ねてある。彼は、パソコンの中の世界以外はどうなってもいいとさえ、思っていそうな雰囲気が漂っている。
だがその世界を支えてくれているのは間違いなく彼の老いた家族のはずである。
だからその世界との連携がいつまで続くか彼には解らない、
増して自分がいつまでこうやっていられるのか?その先の見通しなど立たないというその不安定な安住に、鈍い不安はあれど、彼にはこの先、一体どうしたらいいのか?長く続き過ぎた不安な安住の末、彼の視野狭窄は最初は見えていたはずの出口さえ見えなくしてしまったのだ。
もう何もかも解らなくなってしまったのだ。淋しそうな幸せそうな彼の世界の傍を光と亜希子はやはり無言で素通りした。
一見幸せな夫婦の囲む食卓の風景も、ふたりは口も、聞かずに黙々と食べ、食べ終えるといかにも疲れたように夫のほうは「もう休む」と言う。
「明日も早いんだ」と…。
妻は辛うじて子供とだけは口をきくが、立ち上がりかけた夫に向かって、妻は不満いっぱいの声でこう言いつのった。
「この子ったらまた算数のテストで零点取ってきたのよ!あなたからもなんとか言ってよ!」だが父親は「何言ったって無駄だよそいつは頭がおかしいんだ」と吐き捨てるように言うと寝室の扉を叩きつけるように閉めた。
そして母親は小学生の低学年ほどの娘の頭をそばにあったテキストでめった打ちにしながら大声で泣き叫んだ。
「この低能児っ!脳ミソの腐ったクソガキめがっ!私は普通の子供が欲しかったのよ!!こんな脳足りんの子供なんか要らなかったのにっ!!」
そして凍りついたような無表情のまま、テキストで殴り倒され、椅子から床へ転げ落ちたまま、涙も流さず真っ青な顔で固まっている少女に向かって更に母親はこう言いつのった。
「こんなの要らないっ!
子供の返品交換して欲しいくらいよ!!お前が本当の子供ならきっともっと優秀だっただろうに、このかたわの不良品め!施設へ送り返してやりたいわっ!」
ふたりはその隣りを手を繋いだまま、
まるで鳥が飛ぶようにすり抜けていった。
亜希子はそんな光景にただ睫毛を伏せて何も見ないようにしていたが、早くその場を通り過ぎたがっていることが何故だか光に鋭いほどに伝わった。
様々な扉を幾つも幾つも通り過ぎたのち、
ふたりはやっと顔を見合わせて微笑むと、
今までにない深い安心感が芽生えてきた。
‘’もう終わったんだ‘’
…という気がした。
一体何が終わったのか?それすらまったく解らないというのに。
やがて水の上のほうに遠い空が見えてきた。
切り取ったように円くて蒼いその空は、純白のベタ塗りの雲を浮かべたどこか態とらしい青空だ。
そして夜の水の奥深くまで太陽の射す円錐形の光が透き通ったカーテン状に目映くくっきりと鮮明に降りてくる。
その円錐形の光の帯の中をふたりで泳ぎながら浮上してゆくと、蒼い空は膨張するかのようにどんどん巨大化してくるような気がした。
その空をあの日見た鳶がピーロロロロと鳴きながら横切ってゆく。
光がそれを指差して笑うとふたりはそのまま太陽の燦(きら)めく青空に向かって上昇していった。
水中で息は出来るのに何故か大きく息をついてふたりはまるで溺れていた者のように水から勢いよく浮かび上がった。
すると今まで全く気がつかなかった白蓮(びゃくれん)が五月蝿いほど流れ寄ってきてまるでふたりの上陸を阻むかのようだ。
それを荒々しく掻き分けながら通り過ぎ、ザブザブとふたりは岸辺へと上がった。
ふたりの身体は陸へ上がりながらそれと同時にたちまち渇き、髪も着ている服の裾もまるで風に流転するように棚引いた。
そして岸辺へ上がると同時に光は見た。
あの時の夢で見たあの花野原を…。
花はよく見ると蜻蛉か何かの昆虫の羽根で出来ているかのような脆そうな花弁を持ち、明らかにその翅脈(しみゃく)に沿って血が流れるような光が、まるで電流が這う如くびくびくと光り輝き、その花弁を震わせていた。
その可憐で気味の悪い花は時々咲いたり、風に揺れたり、突然、薄羽蜉蝣(ウスバかげろう)のように姿を変えてそこいら中を飛び回ったりと忙しそうだった。
そしてそんな奇妙極まる花咲く野辺を遠く見遥(みはる)かすその稜線に、光は以前夢で見たあの赤屋根に漆喰塗りの小屋のように粗末な家を見つけて思わずこう叫んだ。
『あの家、前に夢で見たやつよ!』
と光が嬉々として亜希子を振り返ると、何故か、彼女はどこにもおらず光は夢の中で茫然とそそり立った。
『亜希子さんっ!?どこ??』
光はそう叫ぼうとして突如気づいた。
かなり遠く離れた花野原の中、亜希子がまたもや誰かに殴り倒されたかのような格好でぶっ倒れていることに。
『亜希子さん??またなの?大丈夫?』
と言いながら光は、丈の高いカゲロウ花を掻き分けながら、花野原の奥深く、
うずもれるように横たわる骸(むくろ)のような亜希子へと歩み寄った。
亜希子は以前夢で見たよりはるかに遠くでへたばっている。
まるで目には見えない巨人(ギガント)とのボクシングに敗れリング外へすっ飛ばされたかのようだ。
咲き群れる花をなぎ倒すように延びている亜希子の躰を光は助け起こしながら『ほんとにもうっ夢の中でまで心配かける人ね!』と言ったものの、抱き起こした亜希子の顔を見て彼女は思わず慄然(りつぜん)とした。
亜希子の目元ははっきりと青痣があり、目尻と裂けた下唇に固まりかけた黒ずんだ血を滲ませていた。
『…これは本当に夢なの?
もしかして…
違うんじゃないの?』
光の口から思わずそんな言葉が出た。
何も言わない亜希子を助け起こすと、
彼女は薄目を開けて微笑んだ。
『ここは夢の中よ、誰も何も追っては来ないわ、時間も…明日は戻らないとならない現実も…
捻じ伏せたい病魔ですらね…』
光はそれに対して何故か問うことが出来なかった。
どうしても声が出なかったのだ。
そこで彼女は思った。
『これはどうせ夢だもの、
そんな言葉に意味なんて見出そうとなんてするほうがおかしいんだわ、今はそれよりもこの世界を楽しまなきゃ、
朝が来るまでの短い間、
この夢での逢瀬を隅々まで謳歌したいの!』
光は、立つのがやっとの亜希子に肩を借し、跛行する亜希子を支えながらゆっくりとまるで二人三脚のように歩き出した。
『誰にも邪魔されない場所へふたりで行きましょう』
と光は言った。
夢でもいいと光はその夢の中で思った。
少しでも長くこの夢の中に居たい、
と思った。
そう思いながら現実の狭間で光は思わず涙を流した。
尋ねたかった筈の問いが宙に浮いたまま、夜の静寂(しじま)に眩しい光の残像のように滲んでしまい、どうしても夢の中から消えなかったからだ。
そして彼女はついに気がついた。
既に自分がもう目覚めてしまっていることに…。
夜明けの乳白色の光が薄手のカーテンを透かして、光(みつる)のベッドの上から、徐々に夜気を追い払い、室内を鈍い朝日で浸食していくのを彼女は見た。
生温く不安定な動きを見せる細長い指を這わせるように、部屋の中を徐々に明るませる朝の到来をぼんやり見守っていた光は、急に我に返り携帯に向かって鋭くその手を伸ばした。
そして次の瞬間、光は携帯を持ったままベッドの上で啜り泣いた。
きっと真夜中のことであったのだろう、
光の携帯はバッテリーが切れていた。



