「泡」松家仁之
登校拒否の男子高校二年生佐内薫が、八月の一ヶ月間だけ大叔父である佐内兼定の住む街、砂里浜で暮らし、彼の経営するジャズバー「オーブフ」(ロシア語で靴)で勤めることになる。
砂里浜は関西地方にある太平洋に臨む浜辺の街。おそらくは架空の街。
「オーブフ」には岡田という従業員が一人いる。
薫、兼定、岡田、この三人のひと夏の生活を描いたストーリー。
ありきたりに見れば、薫が兼定、岡田、それと岡田の恋人マサコとその友人カオルとの触れ合いによって癒しを得、東京に戻るというストーリーになっている。
でも、それはこの作品のメインストーリーではない。
兼定の半生が所々で描かれる。
彼は佐内の実家に肌が合わず、家を出て戦友の出身地であった砂里浜に居つく。この地の保険会社に勤務して金を貯め、アパートを経営しつつ、「オーブフ」を開く。
兼定は太平洋戦争で召集を受け、シベリア虜囚を経験している。その体験話も出てくる。戦友である緒方、Kのエピソードが出てくる。淡々と記されているが、シリアスでタフな内容である。
岡田の人となりについては詳しく書かれていないが、夜逃げのようにして「オーブフ」にやって来て、そのまま働くことになる。
三人それぞれの癒しの物語。
文章は淡々としてエピソードは飛び飛び、読みにくいかもしれないけど、やがてこの世界観に飲まれてしまう。
僕が若い頃によく読んだ、高橋三千綱や片岡義男の世界に、村上春樹のフレーバーが少し加わったような世界。
パソコンもスマホもない時代、セックスも暴力もギャンブルも犯罪も事故も事件も災害も描かれない、穏やかな田舎町での静かな日々。
ストーリーが延々と続けばいいなあと思った。
年寄りのノスタルジーと言わば言え、僕には愛おしいほどに親和性がある。
表題「泡」は薫の呑気症という病の症状であるとともに、海の波が砂浜に吸い込まれる時のそれのことを示していると思うが、人の一生もそんなものであるという意味なのだろう。
ところで、ディーゼル列車のアイドリング音を「ゼロゼロゼロ」と表現したり、シベリアの森の雪を踏む時の音が「クフクフ」と表現するところもツボでした。
2025/11/09
