【S2|生命とデザイン】進化を疑え──デザインから見たダーウィニズムの限界 #1
第1回 子供の疑問とリモコンの迷走
恐竜図鑑とリモコンを並べてみると、進化って本当に進んでいるのか疑いたくなる。
昨日、「進化」という言葉の誤用について書いた。
だがこの違和感の根っこは、もっと昔、子供のころからあったのかもしれない。
“進化”という言葉の曖昧さに、最初に戸惑ったのは、図鑑のページの中だった。
1.子供のころの違和感
私は子供のころ、図鑑を見るのが大好きだった。
動物、魚、植物、そして恐竜。どれも一日中眺めていても飽きなかった。
そこに書かれていたのは「恐竜は何万年もかけて海から陸へと進化し、やがて鳥類や哺乳類へとつながっていった」という物語だった。
だが、幼い私は首をかしげた。「じゃあ、なぜシーラカンスは太古から今まで同じカタチなのか? 進化しないのはなぜ?」
のちにダーウィンの進化論を知っても、この疑問はますます大きくなっていった。
「すべては淘汰の結果だ」と言われても、どこか腑に落ちなかったのだ。
2.進化という言葉の軽やかさ
日本語では「進化」という言葉を、あまりに軽やかに使いすぎている。
新型スマホが出れば「進化した」と言い、家電が便利になれば「進化系」と呼ぶ。
だがそこにあるのは本当に「進歩」なのだろうか。
私にはむしろ、変化をすべて“進化”と呼んでしまうことの危うさを感じている。
3.リモコンの迷走
ちょっと意地悪に「進化」という言葉を借りるならば、テレビのリモコンのデザインの進化は止まっている。
ボタンは増える一方で、地上波・BS・ネット放送と複雑化した選択肢に応えられていないのが実情だ。
「誰でも使えるリモコン」そんなものは、いま存在しない。
むしろ使う人を置き去りにしたまま、形だけが変化している。
しかも昔は分厚い取扱説明書がついてきたのに、今は「詳しくはWebで」。
そのWebにたどり着くまでの操作がさらに複雑化し、ユーザーは二重に迷子になる。
これを「進化」と呼ぶのは、やっぱり皮肉が過ぎる。
4.違和感の根っこにあるもの
「進化=より良くなる」という直線的な物語に、私は昔から違和感を抱いてきた。
図鑑を見ながら抱いた子供の疑問も、リモコンに翻弄される大人の嘆きも、根っこは同じだ。
進化論にせよデザインの世界にせよ、単線的な「淘汰と進歩」の物語で語ることはできない。
多様性や偶然や文脈を無視したところに、ほんとうの理解は生まれないのだ。
5.デザインが教えてくれること
デザインの世界は、淘汰によって一つの形に収斂するのではなく、多様な答えが共存している。
同じ「椅子」でも北欧と日本で形が違い、同じ「住まい」でも砂漠と寒冷地では思想が違う。
自然界もまた、シーラカンスとマンボウが並んで存在していることが示すように、直線的な進化物語には回収できない。
「進化」という言葉に安易に乗らず、「多様性をどう捉えるか」という視点を持つこと。
それこそが、デザインが私たちに教えてくれるもっとも大事なことなのかもしれない。
次回予告
第2回では、「進化」という言葉が教育や文化の中でどう浸透してきたのかを見ながら、デザインと社会の関係を掘り下げる。
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