【S6|外伝】記憶と匂いの関係---再生されるデザイン
匂いは、心のどこかに眠る“かたち”を呼び起こす。
1.新しいオフィスの匂い
会社のオフィスが移転した。
新築のビル。真新しい床。白い壁。
出社するたびに、身体が“新しさ”を感じ取る。
その正体が匂いだと気づくまでに、少し時間がかかった。
床材か、壁材か、接着剤か。
化学的で、乾いていて、どこかの記憶を触ってくる匂い。
私は愛煙家だ。
低層階にひとつだけある喫煙所に、一日に何度も足を運ぶ。
そのフロアに入るたび、胸の奥でざわつくものがあった。
――この匂い、知っている。
――でも、思い出せない。
1日目。思い出せない。
2日目。まだ思い出せない。
3日目。ようやく、輪郭が立ち上がった。
油絵。その溶剤の匂い。
テレピン油の、あの独特の香り。
なぜこのフロアだけ油絵の匂いがするのかは、いまだにわからない。
しかし、匂いは一瞬で私を40年前に連れ戻した。
2.母の選択と、幼い日の私
幼いころから、私は絵だけは得意だった。
それを知っていた母は、私を油絵教室に通わせた。
女手ひとつで二人の子どもを育てながら、
その出費がどれだけ大きかったか、当時の私は知らない。
いま思えば、母には“体験”を与える覚悟があったのだ。
亡き父ができなかった油絵を、私に継がせたかったのかもしれない。
油絵教室の先生は少し変わり者だった。
熱が入ると、生徒から筆を奪い、そのまま自分で描いてしまう。
「それじゃ教えていることにならないでしょ」と、
子どもの私は静かに反発していた。
だが、先生の口ぐせだけは鮮やかに残っている。
「サイドとメイド。コレが大切!」
何を言っているのか、最初は本当にわからなかった。
“彩度と明度”と理解したところで、
なぜそれが重要なのかは、なお謎だった。
3.十年後、ようやく腑に落ちる
その言葉の意味が全身で理解できたのは、
それから10年後、美大受験のときだった。
色を扱ううえで、彩度と明度がどれだけ本質的か。
構造を決定づけ、空間を生み、物の必然性を形にする基礎か。
あのときの先生の言葉は、あまりにまっとうで、あまりに核心だった。
必要な情報は、
“理解できる準備が整ったとき”にしか降りてこない。
子どものころに沁みたあの言葉は、
十年後にようやく意味として再生された。
後悔はない。
早く気づくことよりも、
一度身体に“痕跡”として刻まれることのほうが大事だからだ。
4.匂いは、記憶をデザインする
喫煙所のフロアのあの匂い。
ただそれだけで、記憶が再生され、
時間が折りたたまれ、忘れていた“原点”が立ち戻ってきた。
匂いとは、
私たちの内部に沈んだまま眠っている“かたち”を呼び起こすトリガーだ。
意図していないようでいて、
実はとても繊細で、計算され尽くした“気づきの装置”なのかもしれない。
記憶は、理由もなく蘇るのではない。
匂いがスイッチを押すことで、
過去が“いま”のなかで形を再生する。
これは、生物に組み込まれた
記憶のデザイン仕様と呼んでもいいのではないか。
5.結び──再生されるかたち
匂いに導かれて蘇った油絵の記憶。
母の選択、先生の声、テレピン油の刺激。
それらが混ざりあって、いまの私の“かたち”をつくっている。
匂いは、忘れられた過去を、
ただの思い出ではなく、
“再生されるデザイン”として呼び戻す。
それは、人生のどこかに置き去りにしてきた“始まり”が、
静かに息を吹き返す瞬間だ。
完
この文章は、マガジン
「考える前に、ひっかかったこと」
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