『アメリカン・スナイパー』 『さらば愛しき大地』 と道徳の教科書 ②
前回から、中学「道徳の教科書」の内容を映画で考えています。(全3回)
1988年、オードリー・ヘプバーンは、内戦と飢餓に苦しむエチオピアを、ユニセフの親善大使として訪問し、子供たちの現状を目にした。
「とても耐えられないつらいことが、私たちの地球上で起きています。どうか、このような飢えに苦しむ子供が少なくなるよう、皆さんの力を貸してください」
彼女が、自ら危険な地域に赴き、飢えや病気の子どもたちを励まし抱きしめたのは、一体なぜだったのだろうか。
教科書の内容をつかむための4本はコチラ。

本文には
もう一つの手で人助け
偽善がこわい
親鸞のような我が子
悪を全否定する善行マッツ
166人殺したスナイパー
戦争トラウマとダークな茨城
極悪チェイニー
などを書いていきます。
↓前回は以下より↓
「悪いこと」にはバチが?
前回は「福が返ってこないとしても、なぜ善を信じるのか」って話を書いたが、こんどは逆に
「悪いことをすればバチが当たるのか」を考えてみますね。
したり顔の中学生が超硬い系グミとかぺたぺた噛みながら「なぜ人を殺してはいけないんですかー?」なんて尋ねてきた時、さてどう返すか?ってイメージトレーニングを時折するんだが、皆さんはどうだろうか?しませんか?
「自分が殺されたらイヤだから」って答えも
「法律で禁止されてる」ともいえる。
「人生の行く末を他人が決めてはいけない」なんて言い方もあるかも。
しかしグミ中学生は「自殺志願者が殺してくれと強く望んだ場合は?」とか「法律に書かれてるのは殺人に対する罰だけで、禁止の理由は書かれてないですよね」とか「じゃなんで戦争での殺人はOKなんですかー」とか言ってくるだろう。

答えられない。
いつだって僕はグミ中学生に言い負かされる。
あの勝ち誇った顔。むかつく。
だけどもし奴に言い返せることがあるとすれば一つだけ、クリント・イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』に描かれていたことだ。
『アメリカン・スナイパー』の主人公は、実在した狙撃手、クリス・カイル。
彼は米海軍特殊部隊SEALs に所属し、2003年にはじまったイラク戦争に4度派遣され、殺害確認戦果166人(自己申告によれば255人)という米軍最多記録を持つ凄腕のスナイパーだ。
166人…!
信じられない人数。
いまの日本に生きていて、1人殺した経験者ですら出会うことは生涯まずないだろうに。
アメリカがいまも現役最高峰の戦争殺人マシンなんだと再確認するし、国として付き合っていくの正直かなり怖いなあとも思う。
映画の冒頭で、狙撃手クリス・カイルがまず一番最初に殺すのは、自爆テロをしようとしたイラク人の母親と子供だ。
引き金をひかなければ仲間が吹っ飛ぶ。
選択肢はないのだろう。相手が女性と子供だったとしても。
むごい。
しかし戦地で交戦状態にあるのだ。
実際、166人を殺した彼が罪を問われることはなかった。交戦規定に違反していないかを調査されたことはあったようだが、むしろ”伝説”の狙撃手として賞賛されることになった。
「おれが殺してきたのは野蛮人たちだ。後悔なんかしていない」
「なぜ奴らを殺したか、神に説明できる」
彼は生涯イラク人のことを「野蛮人」「卑劣な悪魔」と呼び続け、”野蛮人”を殺すことで世界は平和になる、と本気で信じていた。
しかし自分でも意識していなかった影響が出始めたのは、一時帰国していたアメリカでのことだ。
些細な音に驚く。
常に緊張が解けず、血圧も脈拍数も異常な数値。
後続の車に追われているような気がする。
子供と遊んでいるだけの犬を殺しそうになる。
産婦人科で、生まれたばかりの我が子が泣くのを見て、何とかしろと看護師を怒鳴りつけてしまう。
過酷すぎる緊張が続いたことによって、クリスの心は壊れてしまったのだ。
戦争トラウマによる「外傷後ストレス障害(PTSD)」だ。
罪悪感は感じていないはずなのに、心身に起こる激しい変調。

この現象、これをスクリーンで観た際に、ああ、これが「人を殺してはならない理由」なのかも、と僕は思ったのだった。
つまり、人間が生きていこうとする力ってもんがあって、その生きていくためのエネルギーが突然遮断されたときに、いきなり堰き止められ行き場を失ったその大水の濁流みたいなものが、殺した側の人間に向かっていくというか。
濁流に呑まれるというか。
そういったことがあるんじゃないかと。
だから「人を殺してはいけないのだ」と。
殺さなきゃならなかったのかもしれない。国家による命令だったのかもしれない。仲間を救うためだったのかも。罪にだって問われない。しょうがなかったのかも。
だけど、濁流には呑まれるよと。
だからもし、選べる余地があるならやめときなと。
グミ中学生にはそう言いたい。
やっぱり言い負かされるだろうか。どうだろう。
だけど『アメリカン・スナイパー』は一度観て欲しい。
戦争トラウマという理不尽な「報い」
「人を殺してはいけない理由」の一つにはなるかもしれないが、戦争トラウマを悪行に対する「バチ」と表現するのは妥当なんだろうか。
そもそもクリス・カイルのしたことは悪いことだったのか。彼は悪人だったからその「報い」を受け、心が破壊されたのか。
クリスは、1998年にケニアとタンザニア両国で同時に起きた「アメリカ大使館爆破事件」の報道を知り、愛国心と正義感からSEALsへの入隊を志願したという。

事件の黒幕はオサマ・ビン・ラディン率いるテロ組織「アルカイダ」だ。
オサマ・ビン・ラディンがなぜテロを起こしたかの背景や理由の一切を省き、いかにもアメリカ映画的な世界観にだけ立つなら、クリスは「正義」。彼とその仲間に危害を加えようとする連中は「悪」ということになる。
おまけに彼は最前線で戦うイチ兵士であり、イラク戦争のGOサインを出したわけじゃない。
上意下達の厳密な命令系統のなかで、指示に従っただけとも言える。
なのにクリスが”バチ”を受ける。
これは順当な結果なんだろうか。
アメリカの正義が眉唾だったとしても、
一途にその正義を信じて、命をかけて国家の指示に従ってきた人間が苦しまなきゃならないっていうのはいかにも切ない。
そして理不尽だ。
その理不尽さは、暴力を意図した人間と、暴力を実行した人間が異なることからくる。
理不尽な苦痛、戦争トラウマの被害は裾野が広い。
なぜならトラウマ由来の虐待や暴力が別の人間へ、世代を超えて連鎖してしまうからだ。
元日本兵を中心に戦争トラウマの実態に迫った、朝日新書刊「ルポ 戦争トラウマ」によると、虐待の連鎖が起こる割合は約30%程度という研究結果があるという。
つまり虐待を受けて育った人のうち、10人に3人の割合で自分が親になった時に子どもを虐待してしまう、ということだ。

祖父からの暴力は、父の体内に取り込まれていた。
祖父は軍隊で身につけたやり方で、暴力や威圧的な言動を通して家族を支配した。
父はその被害者だったと言える。
祖父から祖母への暴力を日常的に見せつけられ、自分への虐待にも怯えながら育った。
(そんな父が)私に対して日常的に体罰を加えるようになったのは必然だったと言える。
国が家族から男を引き離し、戦場でボロボロになった男たちのケアは国でなく家族にやらせる。
その結果、家族までもがボロボロになってしまう。
極端な暴力が残す傷は深く、世代を超えて受け継がれていく。
さらば愛しき大地
ストレートに戦争トラウマを描いた作品ではないが、柳町光男監督の傑作ダーク茨城覚せい剤映画、『さらば愛しき大地』にもトラウマの連鎖が埋め込まれている。
伝統的な農村風景を、急激な工業化の波が侵食しつつある80年代の茨城県・鹿島の臨海工業地帯が舞台。
主人公の根津甚八はとにかく初めから終わりまでずっと不機嫌だ。イライラしてひがんで、いじけて、酒を飲んでは乱れて暴れて暴言を吐く。妻を殴る。家中を破壊し柱に縛り付けられる。
事故で子供を失ってからはますます無軌道になり、背中に彫り物を入れ、妻を放って秋吉久美子との間に子を作り、酒を断とうと使い始めた覚せい剤にのめりこみ、ダンプでの土砂運びの仕事にも穴をあけ、ケンカをしては信用を失い、借金に追われながら目をギラギラさせてまた怒鳴り散らす。
理由はまったく説明されない。
「ただ面白くねえだけだ」
甚八がそう吐き捨てるのみ。
背景に父親がいる。演じるのは奥村公延。
ぼうっとして無気力で、甚八がどれだけ暴れても諭すわけでなし、叱るわけでもなし、しょうがねえなあと荒れた部屋を片付けるだけ。
甚八の弟が茨城に帰ってきても、父親は歓迎するでもなく居場所なさげに庭の小さな祠の屋根を拭いている。
父のその様子を眺める弟の、哀れなものを見るような目の色が親子の関係性を物語っている。
近所の親戚が、甚八の父親を指してこう言う。
「満州ば引き揚げてからこっち、まるっきり人が変わっちまったかんな。あのごじゃっぺが」
“ごじゃっぺ”というのは茨城弁で「馬鹿」とか「まぬけ」といった意味で、この文脈であれば「あの役立たずめ」といった感じかもしれない。
覚せい剤による幻覚・幻聴がひどくなり、事件を起こすことになった甚八が刑務所に送られても、父親は表情ひとつ変えず、ぼんやりとタバコなどすっている。
父の心はここに無いのだ。
おそらくは満州で何事かを経験したのだろう。
そこで心を壊されてしまった。

戦争トラウマは虐待や暴力といった形をとらない場合もある。
「ルポ 戦争トラウマ」にはこんな証言も紹介されている。
「無気力で、そこにいるかいないかも分からないようなおやじでした」
「抜け殻と呼ぶしかないような人間だった」
自分から言葉を発せず、問われれば一言二言、単語を返すだけ。
悲しげな表情で黙り込み、笑顔など見せたこともなかった。
父が”一人前の男”じゃないことが、ただただ悔しく情けなかった。
父親は甚八と、”親子の情緒的なつながり”を作ることに失敗した。
そのことはおそらく甚八の乱暴や暴力、覚せい剤や凶悪事件とつながっている。連鎖している。
それでも甚八は、どこか父親にすがっているようにみえる。
「この家のために働いてきたんだど。一生懸命やってきたのによ」と言い、「俺はこの家ば捨てねえど!」と喚きたて、自分の存在をどうにか父親に認めてもらおうとしている。
無視されるのは分かりきっているのに。
「ダンプば増やして、金ば貯めて、実家も大きく作り直してやっかんな」
叶えるには遠い遠い夢を語る甚八が切ない。

CyberOyaji/CC BY-SA 3.0
<続>
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