ただいま、しらたま ① 「爪を立てろ!」
【あらすじ】
過去の恋愛で深い傷を負った女性・つくねと、オッドアイの白猫しらたま。
つくねとしらたまは、二人で一人だ。
元恋人の支配から逃れたつくねの隣で、しらたまはただ静かに寄り添ってきた。
そんなある日、誠実で真っすぐすぎる青年・柊が彼女の前に現れる。
不器用でもどかしい距離が、少しずつ縮まっていく。
しかし過去の傷は簡単には消えない。
信じたいのに、怖い。でも…。
しらたまは見守る。
笑顔を取り戻していくつくねを。
そして、自分以外にも彼女を守ろうとする人間がいることを。
しらたまには、一人、また一人と守るべき人が増えていく。
これは、一匹の猫が愛する人の幸せを見届けるまでの、優しくて少し切ない物語。
つくねは会社帰りの環状線で、バイクを飛ばしながら怒り狂っていた。
「何で私が、あんな訳のわからないクソ専務の言うことを聞かなきゃならないのよ!言ってること、めちゃくちゃじゃない!社長の弟というだけで無能なくせに!あー!クッソ腹立つ!」
カワサキZ250のエンジンが唸りを上げる。低くうなるような音が、つくねの苛立ちを代弁するかのように、夜の街に響いた。アクセルをひねるたび、怒りが排気音に変わって空へと吐き出されていく。
だが、同時に不思議な爽快感が心いっぱいに広がっていく。
感情を爆発させることは気持ちがいい。
もう、自分の気持ちを檻の中に閉じ込めるなんて馬鹿な事はしない。
重い風圧が全身を叩く。街灯が光の線になって流れていく。
つくねは、さらにスピードを上げ、自分を待ちわびる彼のもとに家路を急いだ。
涼風つくね26歳。
細身の170㎝の長身に小さな顔と切れ長の目、そしてどことなく挑発的なボブヘア。
少々口が悪いが、芯の強さと情熱を秘めた美女だ。
朝夕の環状線を、カワサキZ250で颯爽と駆け抜ける女子を見かけたら、それがつくねだ。
*
腰の上まであった長い髪を、ざっくり切ってボブにしたのはつい最近のことだ。
長い髪はもともと好きではなかった。仕事に行くのに髪をまとめるのも面倒だったし、手入れも大変だった。
それでも髪を伸ばし続けたのは、3つ年上の彼氏がロングヘアを強要したからだ。
付き合って少し経った頃、つくねが「今日は、親友の菜奈が経営しているヘアサロンで髪をボブにしてくるね。」と言った途端、男は、
「お前はロングしか似合わない。」と言い放った。
つくねは、一瞬言葉を失ったが、心の中では「そんなことはない」と反発していた。
だが、男の顔はすでに怒りで歪んでいた。つくねは言い返すことができず、ただ黙って頷くことしかできなかった。男に、強引に予約をキャンセルさせられたとき、つくねは自分の心が折れたことに、まだ気づいていなかった。
その日を境に、男はまるで呪文のように「ロングしか似合わない」と何度も何度も繰り返した。
髪型だけではない。
このろくでもない男は、付き合い始めてから、つくねを言葉巧みに自分の精神的支配下に置いた。時には暴力も使いながら、この2年間で、つくねは男にとって都合の良い女になっていた。
最初は、とても優しい男だった。つくねの話をよく聞き、共感して涙さえ流してくれた。いろいろな所に連れて行ってくれて、つくねの知らない世界を見せてくれた。
初めてのデートの後、家路についたはずの男が息を切らして戻ってきた。「やっぱり、女の子を一人で帰らせられないだろ」
そう言って笑った顔を、つくねは忘れることができなかった。
あの日からだったのかもしれない。
つくねが、自分よりも男の言葉を信じるようになったのは。
男の身長はつくねより5㎝も低い。だからいつでもヒールのない靴ばかりを履いていた。
それでも不思議と、男の前ではいつも自分が小さく感じた。怒鳴られるたび、背中を丸め、声がかすれ、視線を合わせられなくなった。
いつの間にか、男に話す言葉が敬語に変わっていたことに、つくね自身は気づきもしなかった。 まるで上司に接するように、相手の機嫌を損ねないよう細心の注意を払って言葉を選ぶようになっていた。
つくねは、男からやることなすこと全てを否定され、まるで物のように扱われた。
男は気に食わないことがあると、つくねに手を上げ、そしてすぐに優しく抱きしめた。
つくねの全ての行動を報告させ、自分以外の人間との交流を絶たせた。
そして男は、何もできないつくねをそのまま愛せるのは自分だけだと信じ込ませた。
男には、友達らしい友達は誰もいなかった。その孤独すら愛おしいとつくねは思い込んだ。
つくねは、男に依存する心を愛情だと取り違え、この男に尽くすことが、自分が存在する意義なのだと信じた。
あれほど多かった友達付き合いもあっという間になくなってしまった。
菜奈が心配して、居酒屋に誘ってくれたことがあった。けれど、飲んでいる最中に男から何度も何度も電話がかかってきて、つくねは席を外してばかりだった。結局、相談もできないまま、菜奈との連絡はいつしか途絶えてしまった。
趣味だった風景写真も、バイクのツーリングも、古着屋巡りも、男にとってはくだらないものだった。否定され続けるうちに、つくねは好きだったことを一つずつ手放していった。
男は、気まぐれにふらっとアパートにやってきては、好き放題の末に金を無心して帰っていった。
つくねは、いつ来るかわからない男のために、仕事以外の全ての時間を費やし、四六時中男を想い続けた。
やがて、つくねの感情は壊死でもしたかのように、「楽しい」とか「悲しい」とかいう言葉の意味すら、思い出せなくなっていった。
職場では、精一杯の作り物の笑顔を提供するけれど、そのたびに心は疲弊していった。
何かが間違っていると頭の隅で誰かが叫ぶけれど、考えようとする間もなく、一瞬にして泡のように消えていった。
そんなつくねが、理不尽極まりない人生に絶望せずに済んだのは、しらたまのおかげだった。
しらたまは、3年前につくねが一人暮らしを始めたときに、実家から連れてきた4歳のアメリカンショートヘアだ。
名前のとおり、アメショには珍しい白猫だ。しかも、右目が淡いブルー、左目が金色に近い黄色のオッドアイだ。
しらたまは、極端に憶病で人見知りな猫だった。つくねの家族がどんなに愛情を注いでも、いつまでも警戒を解くことがなかった。
しかし、ただ一人、つくねにだけは心を許した。つくねが家にいないときは、どこか人目のつかないところに隠れ、彼女が帰ってくるとその後をどこまでもついてきた。
だから、つくねが一人暮らしを決めたとき、しらたまを連れていくことに家族の誰も反対する者はいなかった。しらたまも、それが当然とばかりに、実家を後にした。
しらたまは、ボロボロになっていくつくねにずっと寄り添い続けた。
心配そうな顔でつくねを見上げては、『元気出してよ』とミャアと鳴いた。抱き上げると、気づかないうちに頬を伝っていた涙をペロペロと舐めて慰めてくれた。
しらたまと2人でいるときだけ、つくねの周りの灰色の世界に色が差した。
しらたまは、つくねをいじめるあの男が大嫌いだった。
そして、いつも自分を乱暴に扱うあの男が恐ろしくてたまらなかった。
この男が家に来ると、しらたまは毛を逆立て、部屋の隅に逃げ込んだ。
男も、しらたまのオッドアイが不気味で、薄気味悪く感じていた。
全く懐かないしらたまを疎んじ、毛嫌いし、邪険に扱った。
しらたまは、つくねちゃんがどうしてこんな男と仲良くしたがるのか、理解できなかった。全然楽しそうじゃないのに、どうして会いたがるのか、不思議でしょうがなかった。
しらたまは、泣いているつくねちゃんを見ると悲しくなった。笑顔のつくねちゃんをずっと見ていたいと思っていた。
2年もの長い間、つくねを苦しめてきた呪縛が、あっけなく解けたのは、3週間前のことだった。
仕事に出かけたつくねの留守中に、男はいつものようにアパートに勝手に上がり込んでいた。
パチンコで大負けして荒ぶった気持ちのまま、日中からストロングチューハイを何本もあおり、しらたまにちょっかいをかけてきた。いつもならすぐに飽きて無視を決め込むのだが、その日に限ってよほど虫の居所が悪かったのか、しつこくしらたまを追いかけまわした。
そのうち、ローテーブルに足の脛をしたたか打ち付けた男は、理不尽にも激高し、しらたまにタバコの吸い殻を投げつけ、尻尾を無理やり掴もうとし、チューハイの残りをぶっかけた。
男は千鳥足で暴れまわり、しらたまは悲鳴を上げて逃げ回り、部屋の中は嵐が去った後のようにめちゃくちゃになった。
泥酔して完全に目が据わった男は、とうとうキッチンから包丁を持ち出し、しらたまにその切っ先を向けた。
しらたまは、本能的に男が持つ物が危ないものだと理解した。
『この男は、つくねちゃんの敵だ。』
しらたまは逃げるのを止め、男と戦うことを決意した。
「フーッ!!」
しらたまは、ありったけの勇気を振り絞って戦闘態勢を取った。
瞳孔が細くなり、耳が後ろに倒れ、尻尾が太くなる。
前脚を踏ん張って低い姿勢になる。
丸まった背中の毛が逆立つ。
飛びかかろうとしたその瞬間、玄関のドアが開き、つくねが帰ってきた。
つくねは、ドアを開けるなり、ヘルメットを小脇に抱えたまま、目に飛び込んできた部屋の惨状に立ち尽くした。
そしてすぐに、男が手にしている包丁と、しらたまが必死に男に立ち向かおうとする姿に気づき、全てを理解した。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
怒り、恐怖、後悔、そして守りたいという衝動が、混ざり合って一気に噴き出した。
「しらたまっ!!」
つくねは感情の奔流に身を任せ、つかつかと男に真っすぐ詰め寄り、男の持つ包丁を力いっぱいもぎ取った。
つくねの目は、ずっと自分を見下していた男を、今度は真っすぐに見据えていた。
「このクソ猫が、俺の言うことを聞かないから…」
きまり悪そうにモゴモゴと言い訳を続ける男に向かって、つくねは無言でヘルメットの顎紐を握り、真横に振りぬいた。ゴッという鈍い音とともに、男の顎が跳ね、そのまま床に崩れ落ちた。
倒れ込んで呻く男を見下ろし、自分でも驚くほど冷ややかな声で言い放った。
「今すぐ出ていって。もう二度とここに来ないで。」
「てめえ!何を生意気なことを…」
半身を起こした男が叫び終わる前に、しらたまが猛烈な勢いでジャンプして、その頬にジャッと爪を立てた。
ギャッと叫んだ男は、顔を押さえ、一瞬つくねに救いを求めるような視線を向けたが、彼女の揺るがない拒絶の表情に跳ね返された。
男は、しばらくブツブツと悪態をついていたが、やがて、つくねとしらたまの圧倒的な気迫に負けて、よろよろと部屋を出ていった。大好きだった男の背中が、こんなに小さく、そして弱々しく見えたのは初めてだった。
ドアがバタンと閉まると同時に、つくねは床にぺたんと座り込み、男との関係が唐突に終わったことに茫然とした。
しらたまが、トコトコと寄ってきて膝の上に前脚を乗せ、心配そうにつくねを見上げた。
「大丈夫だよ…しらたま。」
しらたまを抱き上げると、その小さな身体がプルプルと震えているのがわかった。
その振動が手に伝わると同時に、解き放たれた感情に押し潰されるように、つくねは声を上げて泣いた。
「しらたま、ごめんね。怖かったよね。もっと早く、私が勇気を出すべきだったんだ…。ありがとう、しらたま。やっとわかったよ。」
それに応えるように、しらたまが、優しくつくねの頬を舐めた。
霧が晴れたように、胸につかえていたモヤモヤが消え去った。
もはや、あの男に会いたいという気持ちも好きだという気持ちも、一片たりとない。
いや、その気持ちそのものが、男に作られた感情だったことがはっきりわかった。
心がクリアになったつくねの動きは早かった。
翌日、つくねは会社を休み、すぐに入居できるペット可のウィークリーマンションを探して契約した。
今住んでいるアパートは、今月中に引き払うことで大家さんと話をした。
電話の着信拒否はもちろんのこと、あらゆる連絡手段をブロックし、共通の知人経由での接触も完全に断った。
2人で撮った写真も、部屋のあちこちに散らばっていた男の持ち物も、全てゴミ袋にぶち込んで集積所に運んだ。
男の痕跡を徹底的に消し去った。
それから、意を決して、疎遠になっていた菜奈に電話をし、この2年間にあったすべてのことを包み隠さず話した。
電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。
つくねが「いつか髪を切って欲しい」とおずおずとお願いすると、菜奈は、泣きながら強い口調で言った。
「今すぐ来て」
急いで向かうと、予約を取れないほど人気のヘアサロンのドアには、「CLOSED」の小さな看板が下げられていた。
そして、「本日、急用のため休業いたします。」という手書きの張り紙が貼ってあった。
恐るおそるドアを開けると、菜奈がいきなり抱き着いてきた。
言葉もなくひとしきり泣き合ったあと、菜奈が優しく言った。
「ボブにしたがってたよね?」
貸し切りの店内で、つくねの長い髪にザクッ、ザクッと大胆にハサミが入る。髪が床に落ちるたび、心まで軽くなっていく。シュッ、シュッと仕上げに向かってクシが踊るたびに、あのクズとの忌まわしい記憶が、静かに剥がれ落ちていく。
とても素敵なボブヘアが完成したとき、2人は泣き笑いながらハイタッチをした。
「お帰り、つくね。待っていたよ!」
菜奈が、今度は満面の笑みで晴れやかに言った。
*
「ただいまー!しらたま!」
勢いよくドアを開けると同時に、しらたまが嬉しそうに駆け寄ってくる。
「ねえねえ聞いてよ、しらたま!またあのクソ専務がさあ…。」
今夜も、しらたまはただ、つくねの言葉に優しく耳を傾ける。
(続く)
