短編|芥川龍之介「蜘蛛の糸」その後~蜘蛛が見ていた話
古典文学の傑作、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は、御釈迦様と地獄に落とされたカンダタの物語です。
極楽を散歩していた御釈迦様は、カンダタが蜘蛛の命を助けたことを思い出し、地獄で苦しんでいる彼に、蓮の葉にいた蜘蛛の糸をおろしました。
カンダタは、蜘蛛の糸を掴んで極楽へと上りはじめます。しかし、もうすぐ極楽というところで、他の罪人たちも上ってくるのをみて、叫ぶのです。
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。お前たちは一体誰にきいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」
彼が、そう叫んだ途端に「蜘蛛の糸」は切れ、カンダタは独楽のようにくるくる回りながら、真っ逆さまに地獄に落ちていきました。
御釈迦様は、極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてカンダタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになりはじめました。
…その様子を、蜘蛛が見ていました。
「御釈迦様、あの、御釈迦様…」
御釈迦様の耳に、震えるような、か細い声が届きました。その声は、足元から聞こえてくるのです。視線を足元に落ろしますと、そこには、先ほどまで蓮の葉の上にいた蜘蛛が、震えるように御釈迦様を見上げておりました。
「蜘蛛よ。どうしましたか」
「御釈迦様…ホッとされましたか?」
「なにを言うのです?」
「私はドキドキしていたのです。もし、カンダタが他の囚人たちに下りろと叫ばなければ、極楽に辿り着いて、さらに地獄の囚人たちも全員やって来ますから。だから、よかった。ホッとしましたねって」
「ホっとなどいたしませんよ。カンダタが極楽に辿り着いたら、蜘蛛の糸は切れるのですから」
「それでは、囚人たちに叫んだカンダタと同じことを、御釈迦様がなさるおつもりだったのですね」
「おつもりではありませんよ。カンダタは蜘蛛を助けたから、救われる機会があったのです。だから他の囚人たちに、機会は不要なのですよ」
蜘蛛は、少し考えるように言いました。
「あの、蜘蛛を助けたことがあるから極楽に来れるのでしたら、逆に考えると、一度でも生き物を殺したことがあれば、善人でも地獄行きということになります。蚊を殺しても同じですから、人間は一人残らず地獄行きなのですね」
「…」
「世界観がおかしいような気がするのですけど」
御釈迦様は、少し微笑まれました。
「おかしくなどはありません。『蜘蛛』というのは、カンダタのような男に踏み潰される『弱い人間』の比喩なのですからね。あなたは比喩的な存在なのですよ」
「そうだったんですね。カンダタを地獄から助けるための作劇上の都合なのかなと思っておりました。カンダタを助けるために『糸』が必要だったから、蜘蛛にしただけかなって」
「…そんなことはありませんよ」
蜘蛛は、少し困ったように言葉を続けました。
「あの、蜘蛛は弱い人間の比喩だとおっしゃいました。でも、蜘蛛は他の虫を捕らえ食べる捕食者です。人間なら、他の人間を食い物にする極悪非道な人ということになってしまうのですけど」
「…」
「御釈迦様、カンダタは極悪非道なものを助けたのですか?」
「…」
御釈迦様は、蓮池の蓮に目を移されました。
「あの、御釈迦様…」
「うるさいですよ」
御釈迦様は、静かに蜘蛛を踏み潰されました。
ぺちゃんこになった蜘蛛をみて、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着いたしません。
その玉のような白い花は、御釈迦様のおみあしのまわりに、ゆらゆらと花びらを動かして、そのまん中にある金色のしべからは、何ともいえないよい匂が、絶え間なくあたりへあふれております。極楽はもう昼になっておりました。
「御釈迦様、あの、御釈迦様…」
御釈迦様の耳に、蓮の池の方から、震えるような、か細い声が届きました。その声には聞き覚えがありました。御釈迦様が蓮に目をやると、葉の上に、あの蜘蛛がおりました。
「蜘蛛よ。あなたは、なぜそこにいるのですか?」
「だって、死んだから極楽に来たのです。あの、御釈迦様…」
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