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辞世の句はないけど、広義の遺書はnoteだけでも3,272記事以上ある話

欲はないのです。色々、心の整理をつけてきたからでしょうか。次世代が憎悪や分断で苦しまずに、安心して暮らせることに、役立ちたいとは願っていますが、それは「欲」ではないです。Aが欲しいBが食べたい、みたいな感じではないから。仙人とか聖人君子ではないので、何も感じないわけではない。手に余る欲は持たないことを意識しているのでしょう。

考えてみると生命は理不尽にできています。どんな逆境でも寿命があれば生きるしかない。どんな順境でも寿命が尽きれば別れるしかない。

たとえば、鴨川シーワールドのシャチが心の中で、「明日、池袋駅近くのAさんの家の子になります」と決めて、寝て起きてそうなることが可能なら夢があるのですが、そうはならないですよね。信仰やスピリチュアルや文学の領域だから。あるいは、勝手にレバニラ炒めが出されて、食べるしかないので食べていたら、「時間なんで」と食べかけを下げられるのは嫌です。映画ならエンドロールを見たいのに、まだ30分くらい時間あるのに、自分だけ映画館をでないといけないとか。

生きて死ぬこと自体、僕らがコントロール出来ない部分があるので、理不尽になりがちです。

まして他者との関わりがあるからややこしい。

自分一人しかいなければ、おそらく今の自分になっていないでしょう。良くも悪くも他人との関わりを通して、自分を磨き上げていく。それは、川の上流の石が、角が取れて川の下流の丸い石になることと似て。受験・就職・引っ越しなど、選ぶ手段は少しあるけれど、基本的に誰と出会うか、我々は選べません。
例えば、夢のマイホームで裏がその地域のトラブルメーカー、なんてこともあります。不動産を買う時は雨の日も下見するといいといいますが、地域にどんな方がおられて、自分たちとの相性はどうかは、下調べに限界もあるでしょう。

けれど、人生経験を積むと、反射的に判断出来ることが増えます。上記の例なら、自衛とか逃げるとか。あるいは、尊敬できる方との出会いも、見落とさずに済むようになります。(あとになって気がつくのではなく、その場で感謝出来るようになる)

レバニラ炒めの比喩に戻ると、ようやくお出し出来る料理になってきた頃に寿命を迎えるのが、人生の残酷さです。生涯かけて鍛えたのに、どういうことかと。

そして、現代は封建時代のように、お坊さんが答えを与えてくれないから、自分で答えを出すしかないです。しかも、受験の模試のように、答え合わせすることが出来ません。自分にとって正しいよなと、不安も抱く日もあったとしても、自分で決めたことを引き受けるしかない。おそらく、これが上手い方は、寿命で心の準備も上手いと思います。

この意味で、文章を書くことは広義の遺書であり、様々な言葉で感謝と希望やユーモアを次世代に遺せるかもしれません。書いたから何になるのか。だれにも読まれない。そんな創作者の苦しみが重くのしかかる日には、広義の遺書と仮定すると、遺書は反応を求めるものではないはずだから、ストレスが減るでしょう。

何を書き残しましょう?
私なら、構造的予防や、文化的翻訳を扱いたいです。

「お前の広義の遺書、書きかけじゃないか」とツッコミがあるかもしれないですが、人生のエンドマークは本人ではなく、医師の確認や、葬儀で他者が描くかもしれないことを思うと、「書きかけ」であることがリアリズムなのかな、とも思うのでした。

「予約投稿」ではなく、亡くなったら公開される機能も、近未来に需要があるかもしれないですね。ネットの知人の葬儀に、全て参列は出来ないから。距離的に遠いとか。数世代時代が違いリアルタイムでないとか。(文学や哲学だと起きますね)


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