人気のなかった子猫と、鶏の唐揚げ下拵えの寓話から可視化する、社会構造の不備の話
子猫を想像してください。保護猫のシェルターにいて、他の子猫と団子になって寝ているけど、顔が少し大きくて毛並みの模様が独特で、子猫なのに中年男性みたいな貫禄があるのです。なかなか家族が現れなかったのですが、初めて猫を家族に迎えるので健康なら他のことは気にしない「先入観のない人」がたまたま現れました。
トイレは出来ているか、ご飯は食べられるか、夜は寒くないか、遊びは足りているか、そんなことを意識しながら飼育して、子猫は飼い主の膝によじ登っておでこを軽くぶつけて甘えたり、遊びたい時は投げて欲しいと言いたいかのようにおもちゃをくわえて運んできて、ポトンと落とします。
「顔が少し大きくて毛並みの模様が独特で、子猫なのに中年男性みたいな貫禄」があっても、すでに家族の信頼関係が出来ており、人も猫も交換不可能な存在のはずです。
我々は因果関係を間違えることがあります。特別な理想の誰かと出会うから、特別な関係になるのではなく、自分の理想と比較して少し妥協するような本音をお互いに持ちつつ、共に暮らして信頼関係を育てるから特別になるのではないでしょうか。
次に、美は多様な価値観です。ルネッサンスからギリシャやローマを遡ったり、印象派、キュビズム、現代アートのような客観から主観への転換など、様々です。日本なら、侘び寂びもあります。これらは前提知識や文脈が無いと理解は困難です。例えばオリヴィエ・メシアンの作品は、クラシックの知識が少ない私には難解です。けれど、ピカソの作品を言語化出来ないけれど、なぜか惹かれることも起きるでしょう。
美は多様であり、マルセル・デュシャンのように「選択」という行為は創造でもあるため、選ぶ側は特権的な立場になります。
僕は外見を重視しすぎると、いつか法の下の平等を壊すと心配します。デザイナーベビーが可能になれば、落語の『寿限無』が象徴的ですが、子どもの幸福を祈る以上のことを、受精卵へ介入するわけだから、人の欲望は止められないと私は思います。出来ることがあるとすれば、「そんなことしなくても、ありのまま生まれてきてくれれば、幸福に育てるよ」と思える覚悟や経済的な余裕を育むことかもしれません。
一つ、比喩を述べます。鶏が自腹で片栗粉を買ってきて、唐揚げの下拵えをしていたら、どう思われますか? 皮肉ですよね。もちろん、鶏はしません。
瀬戸内寂聴さんが髪を剃っておられて、知恵や誇りや経験と、品位と共感を備えておられることを、私は美しいと思います。
素朴な質問なのですが、清潔であれば仕事もプライベートも問題ないはずです。長い髪は手入れが大変です。瀬戸内寂聴さんのように剃ること。そして、メイクはミニマムで日焼け止め程度であること。これは清潔で問題ないはずなのに、なぜ男性は職種によって選択できても女性は選択しにくいのでしょうか。
「清潔な身だしなみ」以上を行うことは、時間もコストも負担しても、しないと悪目立ちするからでは無いでしょうか。これは結果的に、「華やかで性的に魅力がある状態」を自費で行うことになります。鶏の唐揚げの比喩で置き換えると、どう思われますか?
社会にはノンバイナリーの方や、アセクシュアルの方もいます。SOGIやクィア理論やパフォーマティビティーの概念が無かった時代の二元論的な分類と、家父長制の頃の「選ぶ・選ばれる」役割の固定など、社会構造に問題がないでしょうか。
仮に、社会が必要としているのであれば、メイクや感情労働のコストを社会が負担するのが筋ではないでしょうか。仕事が終わってメイク落としする時間がある人とない人では、一生でどれくらい「自分の時間」が変わるでしょう。
メイクも美容整形も、本人の希望なら本人の責任でするのは反対しません。けれど、社会構造の圧があり選択肢がないのに、自分で選択したように扱うのは問題です。
なお、コールセンター時代にスキンヘッドにしてニット帽被って通勤した時期があります。洗顔の延長で清潔になるから、極めて快適でした。ぶつけると怪我しますし、日に焼けると痛いし、汗が髪の毛でせき止められないから、慣れるまで驚きますけど。当たり前ですが、髪型で仕事のパフォーマンスは変わりません。
デフォルトは剃っちゃって、自分の性別を必要とする時にウィッグを用いるとかは、どうなのでしょう。全員そうする必要はなくて、そう選択する人がいても不利益が無いのなら、徐々に社会構造の問題も改善するのでは無いでしょうか。
一言にまとめると、肉体的に女子に生まれると、母性とかケアとか色んな役割を求められすぎます。シモーヌ・ド・ボーヴォワールの言葉を借りるなら、我々は人に生まれ人になることが本質であり、女性や男性に必ずしもならなくてもいいのではないでしょうか?
伝統的な価値観が好きな人も仲間だし、そういうのから降りたい人がいても仲間だし、期間限定で戻ってくる人がいても仲間。こうした多層性の方が、本来の美の多様性と近くないでしょうか。
なぜならば、人は尊厳があり、誰もが美しいのだから。
参考資料
かつて日本では「女性が髪を切ること」が公的に禁じられたことがあります。「女性らしさ」が法に組み込まれていたことに私は驚きます。
おそらく100年未来から現代を見ると、驚かれるでしょう。
より良いコミュニケーションのために
Q: これはフェミニズムの押し付けではありませんか? 自分は伝統的な価値観を大切にしているのに、否定されているように感じます。
A:
本稿は「構造」の問題を扱っています。個人が伝統的な価値観を大切にすること、それを美徳とする生き方を選ぶことに対して、否定も批判もしていません。むしろ尊重と敬意をもって語っています。
たとえば、私の母は社会的に「女性らしい」とされる部分とそうでない部分を併せ持ちながら、自分の信念を大切にして生きてきました。スキンヘッドにして働いた自身の経験も含め、どんな選択も「選択肢がある状態」であることが重要だと考えています。
問題にしているのは、「ある方向に向かうしかない」という構造の圧力です。
つまり、「こうしなければならない」「こうでなければ美しくない」といった無意識の要請や、社会的な前提としての規範が、知らず知らずのうちに人々の自由や尊厳を狭めてしまっていることに対しての問いかけです。
このエッセイは、「降りたい人が降りられるようにしようよ」という話です。伝統に残る人も、そこから離れる人も、どちらも仲間という考え方に立っています。
英語版
Photo by E Pro from Pexels:
https://www.pexels.com/photo/round-brown-framed-mirror-with-reflection-of-curtain-1587597/
告知
私の主著です。フェミニズムや倫理学の観点で、現代を可視化して公共に資する願いを込めています。
期間:2025年4月15日(火)17:00〜 4月20日(日)16:59(日本時間)
※太平洋標準時(PST)基準のため、日本時間に換算しています。
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