撃っても怒られない概念の発明――ゾンビを通し、現代社会と娯楽の倫理を考える
無所属だけど倫理も研究し、暴力はNOというスタンスなので、フィクションのゾンビをどう考えればいいのか、考えていました。
人だったもの。もう人でないもの。危険で共存出来ないもの。
そういう設定で、一方的に撃って倒していい存在としてのゾンビをどう扱うと、ダブルスタンダードを避けられるのでしょうか。
テレビ局の放送コードやスポンサー規制
人種・ジェンダー・年齢などの実在グループへの配慮
ポリティカル・コレクトネスへの配慮
まず、嗜好以前に、こうした制約があり、商業的に成功を目指す必要があります。例えば、本来守るべき未成年もゾンビなら安心して撃つことが出来、誰にも批判されない。架空の存在だから訴訟にもならない。視聴者も安心して見ることが出来る。
けど、死体損壊は犯罪です。
フィクションだから問題がない、一理あります。
死者は人権を持たなくても尊厳はあるでしょう。
例えば墓荒らしはタブーだと思うし、されて構わない方は少ないでしょう。死生観により、気にしない方はいるかもしれない。
なぜゾンビなのですか?
思考実験をしましょう。
ジョーズみたいなサメが陸上にも現れる。感染する。サメの中には元人間もいるけれど、見た目はサメ。
たぶんゾンビものより人気出ませんよね。
「人の形をした元人」という要素が使えないから。
暴力を娯楽として扱いたい
人を極限に追い込んでドラマを描きたい
フィクションで見たことがないことを実現したい
そこは分かる。表現の自由を妨げるつもりはないし、もしかしたら、差別や偏見を無くそうとすることが禁酒法みたいに逆効果になっていることが、ゾンビもののヒットという現象に繋がるのかもしれません。
だから、ゾンビものというジャンルが商業的に成功することを批判する意図はありません。
ただ、フランケンシュタインの怪物だって、原作を読めば悲しみを負っています。怪物が、完全な敵で理解不能な存在で撃っていいことが心配。
例えば、味方にゾンビがいてもいいと思う。
人間だけどソンビ陣営にいる変わり者がいてもいいと思う。
ゾンビ=絶対的な敵で、尊厳を剥奪された動く死体ではなく、何かしら人間性を持っていてもいいと思う。(そういう世界観のゾンビの描き方もあるようですね)
何より、「人の形をしてるけど、もう人ではない」という設定は、歴史を振り返ると危ない考え方なので、ゾンビものを楽しむ時に「これ、毒がある」と意識するといいと思う。
お酒を飲みすぎると体を壊すし、喫煙などもそう。
娯楽としての暴力と、撃っても怒られないゾンビという便利な装置を規制するのではなく、視聴者がお酒や煙草を扱うように、リスクを想定するといいと思う。
お酒や煙草と違い、ゾンビものや娯楽としての暴力の研究例は少ないだろうから、私なら慣れて麻痺させないことを選びます。
我々は相手の気持ちを考える社会性を持ちます。
ゾンビものは、そこをオフにして安心して見ていられる。
そう意識しておくと、フィクションをフィクションとしてより楽しめると思うのです。
規制より意識。それだけです。
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