祀る、弾く、落す。
『リング』の原作を読んだことを思い出しました。
反応してから決めることは、アンガーマネジメントで怒りを観察してもそうですね。歴史を振り返ると、日本三大怨霊なども、私には同じことに見えます。祀ることで現象を鎮めようとする。
呪いはこうして「祀って鎮める」不活性化と共存の方向と、
境界線の応用で弾く方向と、
京極夏彦の「百鬼夜行シリーズ」の中禅寺秋彦(京極堂)の憑き物落としが効果的だと思います。
「祀って鎮める」は、端的に言うと、呪いや恐怖の対象に「そこにいていいから、静かにしててね。そのうち天寿をまっとうするので、少し待ってて。暇なら、そこに本もSwitchもあるよ」という、ナラティブによる無害化を通して、不活性化させる方向です。
神道の意味と言葉の使い方は異なるはずだから、伝統を踏まえて言葉をお借りしています。
次に境界線のアレンジです。
ご想像下さい。WindowsのウィルスはLinuxでは動かないはずですよね。
その呪いや恐怖はなぜ普遍的なのでしょうか?
ローカライゼーションは大変な労力が必要ですし、同じ地域でも価値観は多様なのに、「なぜ私のOSに互換性があるのですか?」と僕は考えます。
翻訳は、シェイクスピアのソネットであれ、聖書であれ、高度な専門性が必要ですね。知らない言葉で呪いの書があっても、何の本か解読も認識もできないはずです。
対して、ウィルスなどは生物学的な根拠がありますよね。
私はプロテスタント信徒になって、「もう神社でお守りを買うことも無いけれど、よく分からないものを怖がらなくて良くなったのか」と感じました。
・それ、プロテスタント信徒には通信規格が異なるので届きません
・細かなことは、うちの神様通してもらっていいですか?(「お前のとこの神様、沈黙で有名じゃないか」)
境界線は責任の線引きで自他を線引きします。
OSと信仰という2つの比喩で言いたいのは、「前提が異なるので、自分の前提を確認せずに何でも受け入れなくていい」ということです。
最後。先生が追記なさった部分は……。
私は常ひごろ、
表現というものは、「なにを言うか」より
「どんな気持ちで言うか」がすごく大事だと思っています。
その人の根っこにある想い・動機。
これを「根本思想」と言います。
根っこの気持ちがLOVEだったら
「バカ!」って言ってもあったかいし、
根っこの気持ちが軽蔑だったら
「おりこうさん」と言っても冷たいんです。
さらに、根っこに軽蔑をためた人から発せられる言葉は、
何を言っても、どう言っても、冷たいんです。
ほぼ日の『おとなの小論文教室。』の山田ズーニーさんの「根本思想」を借りると、先生がお書きになった意味で内面に不確実性があって、そこから出た言葉は、虐待でもハラスメントでも無いですよね。教師も人間です。子どもたちはズレを不思議に思い大人になるでしょう。
教え子さんにより、哲学かもしれない。
あるいは、ビジネスかもしれない。
ある日、自分の恩師の言葉にメタ的に込められた何かを受け取っていることに気がつき、自分の言葉で解体し再解釈出来るかもしれない。
こうした憑き物落としは、他人に頼まなくても自分で出来るようになります。
例えば僕は、犬養道子の『女性への十七の手紙』を読み返して、頭を抱える部分と、変わらず惹かれる部分があります。具体的には、推論の根拠が違う。思うに、語学・聖書と人道という聖職者のようなスキルセットの方だから、75歳でも現場に行って岩波から本を出すなど「傍観しない」ことの捨て身の現場型の面が犬養道子の強さであり、「論理的に分析して説明する」ことは向いてないのでしょう。
私淑して大きく影響を受け、大人になるために力を借りましたが、彼女に同調しません。
カシオジュクチョー先生も、他の先生たちも、人が人であることを無くすのは無理だから、その部分は、教え子さんが20年もかからずに「憑き物落とし」のように解体して、栄養にして、乗り越えていくと思いますよ。
なぜならば、それは、教育に携わる先生達ご自身も、乗り越えてきたことのはずだからです。人により、師の型を受け継ぎ、型を壊すと認識するかもしれません。
AIではなく、人が人に向き合うことの魅力や素晴らしさの影を、先生は指摘されたのかもしれませんね。
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