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ポケモンキッズと旅する 第98回 ヒメグマ|熊本県熊本市

本記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。

第九十八回、ヒメグマと熊本です。

当企画、九州にも続々上陸中です。
ホウエン地方・キンセツシティもとい、九州・熊本ということで、熊なキャラを選んで来ました。

街中の景色の中に、別の熊が浮かび上がっていますね。

豊臣秀吉の子飼いである加藤清正は、肥後国(現 熊本県)の北半分を与えられ、熊本にやって来ました。

当初加藤清正は、同じく豊臣秀吉の子飼いという立場の石田三成と共に豊臣秀吉を支えていましたが、次第に関係が悪化していきます。

関ヶ原の戦いでは、石田三成が西軍の総大将となった一方、加藤清正は徳川家康が率いる東軍に参加しました。

旧縁のあった石田三成との関係を断ち切ったこの決断で、加藤清正は関ヶ原の戦いの本戦…というわけではなく、九州での戦いで東軍として参戦することになります。

この関ヶ原の戦いでの功績により、加藤清正はそれまでの肥後国の北半分に加え、西軍についた小西行長の領地である肥後国の南半分を追加で与えられたことで、肥後国一国が領地となりました。

熊本城は丘陵を利用した平山城で、天然の地形と人工の防御施設が高度に融合しています。

特に、石垣の設計には特筆すべきものがあります。

「武者返し」と呼ばれる逆勾配の石垣は、上部ほど垂直に近づく構造で、攻め手を寄せ付けません。

このような急勾配では、重い鎧兜を身につけて登ることは困難に思えます。

また、石垣の配置も敵の直進を阻む蛇行路を形成しています。

黒を基調とした大天守と小天守が連なる連立式天守は、威風堂々たる姿で平野を見下ろします。

3層5階の構造を持つ宇土櫓は、櫓でありながら(つまり、メインでない建物でありながら)他の多くの城の天守閣に匹敵するほどの規模です。

城内には他にも数多くの櫓が配置されており、互いに視界を確保するように計算されて建てられています。

加藤清正がここまで堅牢な城を築いた背景には、南方に脅威がありました。

関ヶ原の戦いの功績で現在の熊本県全域を得た後ならなおさら、南方の鹿児島に位置する島津氏が大きな脅威となったため、加藤清正は島津氏の北上を想定した防御システムを構築します。

加藤家の後を継いだ加藤忠広は1632年に改易され、代わって小倉城(⇒第90回)から細川忠利が異動してきて、以後幕末まで細川家が熊本藩を治めました。

明治維新後の1877年、士族反乱(明治維新によってそれまでの待遇を失った旧武士階級である士族たちが、新政府の政策に不満を持ち各地で起こした反乱)である西南戦争が勃発しました。

鹿児島で西郷隆盛が新政府の政策に抗議して挙兵しました。

兵を率いた西郷隆盛は、新政府軍のいる熊本城を攻略すべく北上を開始しました。

当時、城内には谷干城率いる新政府軍がおり、最新式の銃砲で防衛体制を整えていました。

薩摩軍は熊本城を包囲し、総攻撃を仕掛けますが、加藤清正が築いた石垣と堀の防御網が功を奏し、容易に侵入できません。

新政府軍の援軍到着により西郷隆盛軍は撤退を余儀なくされました。

後に西郷隆盛は「我々は官軍に負けたのではない。加藤清正に負けたのだ」と語ったという逸話があります。

西郷隆盛軍が西南戦争で鹿児島から北上し、熊本城を攻撃したことは、加藤清正が恐れていた事態が約270年の時を越えて現実のものとなった瞬間でした。

この堅牢な城郭は、近代銃火器をもってしても容易には突破不可能だったことで、先見の明があったと言えるのでしょうか。


原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。

ここまでご覧いただきどうもありがとうございました。次回もお楽しみに。