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ポケモンキッズと旅する 第164回 コフキムシ|長野県小諸市

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第百六十四回、コフキムシと小諸です。

小諸城の立つ河岸段丘は、千曲川の水面から大きな高低差があり、垂直に近い急峻な断崖を形成しています。

この地形は浅間山の火山噴出物が堆積した丘陵を、千曲川の激流が長年にわたり削り取って形成した「田切地形」として知られています。

小諸市街地から懐古園へ向かう際は、城下町が「城の上」にあることを示す下り坂となります。

一見すると城下町より低地という防御に不利な立地に見えますが、それを承知でこの地が城の立地に選ばれた理由は、城を囲む千曲川の急峻な断崖だからこそです。

特に千曲川に面した南西側は、川が天然の堀として存在するうえに、断崖が天然の防御壁として機能し、非常に守りの固い要害の地を形成しています。

城内も複数の急峻な谷によって各曲輪が分断されており、特に最も深い「地獄谷」のような垂直な断崖が天然の防御壁として機能しています。

これにより、本丸から二の丸、三の丸に至る曲輪群がそれぞれ独立した城砦のように機能する、強固な防御システムが構築されています。

また、この断崖で隔てられた曲輪同士を結ぶ要が橋梁システムです。

園内にある橋の多くは、各曲輪間の連絡路であり、万が一の際には橋を落とすことで敵の進攻を阻止するという役割も担っていました。

水の手展望台は、小諸城の西側の断崖の突端部にあり、天然の要害を利用した城の立地を肌で感じられ、眼下には千曲川の大きな蛇行と対岸の地を一望できます。

断崖の縁の石垣は、自然の岩壁と一体化し、攻城側に絶望的な威圧感を与えたことでしょう。

入り口にあたる三の門周辺の石垣では、門と石垣が一体的に設計されており、高度な築城技術が見て取れます。

甲斐国(現在の山梨県)を拠点とした武田信玄は、小諸城を近隣の他の城とともに信濃国(現在の長野県)支配の重要拠点と位置づけました。

特に小諸城は、上野国(現在の群馬県)方面への備えとしての役割を担っていました。

武田氏滅亡後に紆余曲折を経て、小田原征伐で戦功を挙げた仙石秀久が小諸へ入城し、城郭の大改修に着手しました。

現在見ることのできる石垣群や三の門などの建造物はその多くが、この時期の仙石秀久とその子・仙石忠政の時代に整備されたものです。

関ヶ原の戦いの際には、中山道を進む東軍別働隊を率いた徳川秀忠が小諸城に本陣を構え、西軍についた真田昌幸の守る上田城への攻撃(第二次上田合戦⇒第214回)の前線基地となりました。

江戸時代に入ると、複数の幕府に近い大名が入れ替わりで入城したのち、譜代大名・牧野康重が入城し、以後牧野氏10代が小諸藩を治めました。

明治時代には、小諸城は小諸に赴任した文豪・島崎藤村によって不朽の名作の舞台となりました。

詩集『落梅集』にある小諸城周辺の春先の風景をつづっだ、

小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なす蘩蔞(はこべ)は萌えず 若草も籍くによしなし

で始まるこの詩は、後に作曲されて歌として親しまれています。


原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。

Scatterbug in Komoro, Nagano 60 (Kaikoen garden)

ここまでご覧いただきどうもありがとうございました。次回もお楽しみに。