ギリシャ神話から読み解く「映画ちいかわ 人魚の島のひみつ」“誰も悪くない”は果たして本当か?
友人に誘われて、大ヒット中の「ちいかわ」の映画を観た。正直に言うと、私は「ちいかわ」についてほとんど何も知らなかった。事前に仕入れた情報は、公式が出している2分ほどの予習動画と、誰かが作った15分程度のキャラクター紹介動画。そこで得たのは、ちいかわ、ハチワレ、うさぎというキャラクターの名前と、彼らのなんとなくの関係性。そして「ちょっとブラックな世界観らしい」程度の予備知識。それだけを抱えて、私はちいかわの映画を観た。
映画が終わり、上映スクリーン内の照明がぼわっと灯された時、私は思わず隣の友人と顔を見合わせた。そしてお互いに出てきた言葉は「ヤバいね…」だった。
友人と感想をいくらでも語りたかったが、夜遅めの上映だったということもあり、友人とはそのまま別れた。だが、映画の余韻がとにかく頭から離れない。何とかしてこの余韻を消化しなければならない。だから私はこのnoteを書くことにした。
映画の中に出てきた一つ一つの要素を思い起こしていくうちに、この映画はギリシャ神話をモチーフにしているのでは、という仮説に辿り着いた。だって、あまりに神話的要素が多い。なので、この記事では映画をギリシャ神話的な読み解きをしていきたいと思う。
以下、映画についての核心的なネタバレを多分に含んでいる。映画をすでに鑑賞した人に向けて書いているので、これから観るという人はぜひ読まずに映画を観てほしい。
また、私は「ちいかわ」のマンガを一切読んだことがない。映画と漫画で差異があったとしても、私は映画しか観ていない。ここで扱う物語はすべて映画準拠であることを承知してほしい。あと、映画を観たあとの記憶を頼りに書いている記事なので、細部にもしかしたら記憶違いがあるかもしれない。そこはご了承ください。
楽園としての島
まず、物語の舞台となる島そのものについて。自然豊かで、食べ物にも困らずに住人たちの暮らしは満ち足りている。南の島らしく花冠と腰蓑をまとった住人たちが、危機さえなければ祝祭のような日々を送っているらしいことが、画面の端々から伝わってくる。
この造形を見たとき、私はエーリュシオンを思い出した。ギリシャ神話に登場する、世界の果てにあるとされる楽園だ。ホメロスの『オデュッセイア』では、雪も嵐も降らず、西風だけが穏やかに吹く土地として描かれ、後の時代には「特別に選ばれた者だけが死後に迎え入れられる場所」として語られるようになった。苦しみのない、永遠に穏やかな土地。

だが神話における楽園というものは、たいてい無傷のままでは終わらない。豊かさの裏側には、必ず何かが埋められている。この島の場合、それは一人の人魚の死体であり、まだ誰も名乗り出ていない罪だった。
川を渡って冥府へ降りるということ
島に着いたその夜、ちいかわたちは洞窟に迷い込み、奥へ奥へと進んでいく。やがて地下深くを流れる川に行き当たり、手漕ぎの小舟でそれを渡って、セイレーンたちのもとへとたどり着く。
この場面の型を、ギリシャ神話ではカタバシス(下降)と呼ぶ。生者が死者の世界へ降りていき、そこで何かを得て帰ってくる、という一連の物語形式のことだ。
洞窟の奥の暗い川を、小舟で渡るというかたちに最も近いのは、ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』が描く冥府だろう。そこでは死者の国を隔てる川があり、カロンという渡し守が舟で魂を対岸へ運んでいる。

別の物語で言うとホメロスの『オデュッセイア』でオデュッセウスが死者と会う場面は、この型とは少し違う。彼は世界の縁を巡る大河オケアノスの果てまで航海し、そこで地面に穴を掘り、犠牲の血を注いで死者の霊を呼び寄せる。自らが降りるというより、向こうを招き寄せるのだ。
いずれにせよ、カタバシス(下降)の物語には共通する構造がある。降りた者は、地上では決して知り得なかったことを知って帰ってくる、という点だ。オデュッセウスは予言者テイレシアスの霊から、自分の故郷への帰路の行方を聞かされる。それは知りたかった真実であると同時に、知ってしまえばもう引き返せない重い真実でもある。
ちいかわたちもまたこの暗い川の先で、セイレーンの口から島の平穏な日常には出てこなかった真実を知らされる。セイレーンの仲間の人魚が一人殺されたこと。その犯人が、島の住人の中にいること。
そして重要なのは、この形式が物語の終盤でもう一度反復されることだ。終盤、ちいかわは台所の戸棚の奥から出てきた一枚の赤いうろこによって、犯人の正体という決定的な真実に触れてしまう。洞窟の暗がりで始まった知識が、戸棚の暗がりで完結する。冥府から持ち帰るものは、いつも重すぎる。
セイレーンはなぜ怪物になったのか
セイレーンという存在そのものについても、少し説明しておきたい。
ギリシャ神話のセイレーンは、上半身が女性、下半身が鳥という姿の怪物で、島に住み、歌声で船乗りを惑わせて難破させるとされる。人魚のような姿で描かれるようになったのは、かなり後の時代のことだ。

セイレーンがなぜ半人半鳥という姿になったのかについては、複数の伝承がある。よく知られているのは、豊穣の女神デメテルの娘・ペルセポネが、冥界の王ハデスに攫われた事件と結びつける説だ。セイレーンはもともとペルセポネに仕える乙女で、主人であるペルセポネがハデスに連れ去られるのを止められなかった。そのためにセイレーンは主人を探すため、自ら翼を求めた。別の伝えでは、ペルセポネを守れなかった罰としてデメテルによって半人半鳥の姿に変えられたとされる。
伝承ごとに細部は揺れるが、共通しているのは神話のセイレーンは、最初から怪物だったわけではないということ。大切な存在を失った出来事をきっかけに、それまでとは違う姿になってしまった者なのである。
映画のセイレーンも、まったく同じ順序をたどる。彼女はもともと島の生き物ではなく、外からやって来て、島の料理を気に入って居ついた存在だった。三人の人魚たちと戯れ、歌い、平穏に暮らしていた。その人魚のうち一人が島の住人に殺されたことを境に、彼女は島を襲う怪物になる。
暴れるツタと、デメテルの怒り
セイレーンの戦闘描写にも、目を引く点がある。彼女は歌うことで植物を操り、ツタを伸ばして相手を絡め取る。
この「歌で植物を操る力」は、先の章で名前を出したデメテルを思わせる。デメテルは穀物と大地の実りを司る女神で、娘のペルセポネを冥王ハデスに攫われたとき、悲しみと怒りのあまり地上のすべての作物を実らせなくしてしまった。そのため、世界は飢饉に襲われてしまう。その後、父である全能神ゼウスのとりなしもあり、ペルセポネは一年の一部だけ地上に戻ることになる。これが季節の巡りの起源だというのが有名な神話だ。

つまりギリシャ神話には、奪われた者の悲嘆がそのまま植物を動かす力に表れるという発想がある。セイレーンが歌によってツタを操るという設定は、この系譜の上にあるように見える。彼女の攻撃は暴力である以前に、抑えきれない悲嘆の現れなのだ。
ヒトハとフタバはなぜ花冠を持たないのか
ペルセポネがハデスに攫われたのは、まさに野原で花を摘んでいた瞬間だった。神話では彼女が美しい水仙に手を伸ばしたその時、大地が裂けてハデスの乗る戦車が現れる。

だから花というモチーフは、ギリシャ神話において二重の意味を帯びる。無垢さや、共同体の中で祝福されてある状態の象徴。それと同時に「略奪が始まる合図」でもあるのだ。
この映画では、島の住人たちは皆、花冠を身につけている。ところが、後に人魚を殺した犯人だと判明するヒトハとフタバの二人だけは、花冠をつけていない。腰蓑はみんなと同じなのに、頭には何もない。
誰かがそう決めたという説明も、劇中で語られる理由もない。ただその花冠の不在という点だけが、二人が「奪う側」に回ってしまった者であることを静かに告げている。無垢の花冠や祝福は、彼らには与えられないのだ。
唯一、対話を試みたラッコ
ちいかわたちの「討伐の先生」として同行するラッコは、セイレーンとの遭遇のあと、討伐ではなく対話を試みる。だがセイレーンは彼を「島の住人を庇う側」とみなし、ラッコを攫ってしまう。
この場面は、物語の中では一つの挫折として通り過ぎていく。だが後から振り返ると、ここには重い意味がある。ラッコはこの島で最初に、そしておそらく唯一、言葉で解決しようとした者なのだ。
古代ギリシャにおいて説得(ペイトー)は、それ自体が神格化されるほど重んじられた力だった。暴力によらず言葉によって事を収めること。これはギリシャ的な理想の一つであり、この後で触れる『オレステイア』が最終的にたどり着く解決も、まさにその線上にある。

だがラッコの言葉はセイレーンに届かない。それどころか、話しかけたという行為そのものが「敵側の人間だ」という判断を招き、彼は真っ先に舞台から退場させられる。中立であろうとしたことが、かえって立場を証明する材料にされてしまう。
この映画が周到なのは、沈黙の代償を描く前に、発話の代償を先に見せている点だ。言葉を口に出した者がどうなるかを、私たちはすでにラッコで見てしまっている。だからこそ、後にちいかわが口をつぐむとき、それは単なる臆病さには見えない。この島では、言葉が通じなかった前例があるのだ。
森の奥の導き手、島二郎
もう一人、見過ごせないのが、森の奥でカレーと貝汁の店を営む島二郎だ。傷ついて倒れ込んだちいかわを介抱し、目を覚ますと、素潜りで見つけたというセイレーンの隠れ家への道を教える。終盤でも、決定打となる激辛スパイスを届け、勝敗の鍵を握る。
彼の立ち位置には、考えるほど不思議なところがある。共同体の中心にいるわけではなく、森の奥にひっそりと暮らしながら、島の誰よりも決定的な知識を持っている。海に潜り「向こう側」への通路を知っている。中心にいないからこそ見えていたものがある、という配置だ。
ギリシャ世界には、クセニア(客人歓待)という思想がある。見知らぬ旅人を迎え入れ、名前を尋ねる前にまず食事と寝床を与えることは、人としての義務であるだけでなく、全能神ゼウスが守護する神聖な掟だとされていた。ゼウスには「クセニオス(客人を守る者)」という異名まである。そして神話では、しばしば神々が旅人に変装して人間の家を訪ね、その家がきちんと歓待するかどうかを試す。
面白いのは、この掟を体現するのが大抵の場合、権力者ではないことだ。『オデュッセイア』において、二十年ぶりに故郷へ帰り着いた乞食姿のオデュッセウスを最初にもてなすのは、王でも貴族でもなく、豚飼いのエウマイオスである。中心から外れた場所にいる者が、最も正しく旅人を迎える。

島二郎は、まさにその系譜に立っている。倒れ込んだちいかわに差し出されるのが、一皿のカレーと貝汁であることも象徴的だ。彼の提供する食事は単なる親切ではなく、物語を先へ進める鍵そのものになっている。
二つのコロス(コーラス)の対称性
さて、こうした神話的な読みが最も強く像を結ぶのが、「歌」をめぐる構造だ。
セイレーンにとって、三人の人魚たちはコーラス隊だった。彼女の歌に声を重ね、和音を作る存在。そしてこの「コーラス(chorus)」という語は、ギリシャ悲劇のコロス(χορός)をそのまま語源としている。
コロスとは、ギリシャ悲劇において舞台の中央ではなく傍らに立ち、集団で歌い踊りながら、劇の出来事について語る一群のことだ。彼らは物語の当事者ではない。事件を止めることもできなければ、裁くこともできない。ただ事件を目撃し、それを歌に変えて観客へ差し出す。悲劇において、コロスとは「見ているが、手は出さない者」の位置なのだ。

人魚たちは、最初から構造的にこの位置にいた。三人が揃って歌っていたとき、彼女たちはコロス──つまり「見ているが、手は出さない者」でいられた。
ところが人魚が一人殺されたことで、和音は崩れる。この映画が凄まじいのは、それを台詞で説明せず、音そのもので描いていることだ。人魚が全員揃っている場面ではコーラスのバランスが取れているのに、一人欠けた後の歌は不協和音寄りになっていく。歌が壊れたことが、耳で分かるように作られているのだ。
美しい和音を失った瞬間、彼女たちはコロスでいられなくなる。舞台の外で歌っていた者が、舞台の内側へ──復讐する当事者の側へ引きずり込まれる。セイレーンが怪物へと変貌していく過程は、その周りのコロスが復讐の当事者へ転落していく過程でもあった。
この、和音を失ったセイレーンと人魚たちとグロテスクなほどに対照的なのが、終盤に平和が戻ったことを祝福するために島の住人たちが「今日の日はさようなら」を大合唱する場面だ。ここでは彼らがコロスとして機能している。ヒトハとフタバの罪を裁くでも暴くでもなく、ただ美しい歌として夜に響かせる。
歌詞にある「いつまでも絶えることなく友達でいよう」という一節は、永遠の命を得たことで文字通り“絶えることなく”一緒にいることになった二人の姿と重なる。「信じあうよろこびを大切にしよう」という一節は、隠され続ける罪への皮肉として響く。
この歌は、まさに「輪の内側」を確認するための歌だ。いつまでも友達でいよう、信じあおう──その輪の外側で、歌えなくなった者が海に沈んでいる。
ちいかわは帆柱に縛られ、セイレーンの歌を聴いた
ここで、セイレーンの神話で最も有名な場面に触れておきたい。
『オデュッセイア』第12歌で、オデュッセウスはセイレーンたちの島の横を船で通過することになる。彼は船を漕ぐ部下たち全員の耳を蜜蝋で塞ぎ、自分だけは耳を開けたまま、体を帆柱に縛りつけさせる。どれだけ解けと叫んでも決して解くな、と命じた上で。

見落とされがちなのだが、この時セイレーンたちが歌う内容は、単なる美しい旋律ではない。彼女たちが差し出すのは「私たちは地上で起きるすべてを知っている」という誘惑なのだ。セイレーンの歌は、真実を教えてやろうという囁きなのである。
つまりオデュッセウスは、真実を聞くために、あらかじめ自分を縛った。聞くけれども、動けない。知るけれども、それに従って行動することができない。そういう姿勢を、自分の意志で選んだのだ。
そしてこの映画のちいかわもまた、真実を知りながら、動かないことを選ぶ。台所の戸棚から出てきた赤い人魚のうろこをポシェットにしまい、キャンプファイヤーの夜にヒトハとフタバと対峙する。だが、そこで結局何も言わない。
ちいかわを縛っていた縄が何だったのかは、映画では語られない。二人への情なのか、口に出したときに起きることへの恐れなのか、あるいは自分に裁く資格があるとは思えなかったからなのか。ただ確かなのは、ちいかわが帆柱に縛られたまま、歌を聴いてしまった側の存在になったということだ。
エンドクレジットの後も、まだ終わらない神話
翌日、ちいかわたちは船に乗って島を去る。デッキの上で、ちいかわはポシェットに忍ばせていた赤いうろこを取り出し、風に攫われるまま海へと還す。そして映画はエンドクレジットを迎える。
けれどこのエンドクレジットの後、物語はまだ続く。手漕ぎの船で別の島に逃れたヒトハとフタバの元に、セイレーンと二人の人魚が、静かに近づいてくる。
赤いうろこは海に還った。それでも、追跡は終わっていない。
ここで、ギリシャ悲劇の代表作『オレステイア』三部作を思い出す。母を殺したオレステスは、エリニュス(復讐の女神たち。血の罪を犯した者をどこまでも追い立てる存在)に追われ、逃げ場を失っていく。

だがその追跡は永遠には続かない。最後にはアテナイに法廷が設けられ、オレステスは公の場で裁かれ、そして赦される。報復の連鎖が、開かれた場での審理によって、初めて断ち切られるのだ。
つまりギリシャ悲劇が示した唯一の出口は、すべてを口に出すことだった。
だが、この映画にはその法廷がない。ちいかわは黙り、ヒトハとフタバも名乗り出ず、島の住人たちは事情を知らないまま歌っている。誰も声に出さない。
思えばこの島で法廷が開かれる可能性は、ラッコが攫われた時点ですでに閉ざされていたのかもしれない。言葉で解決しようとした者が真っ先に退場させられた島で、その後に口を開こうとする者が現れなかったのは、あまりに当然のことだったのだろう。
だから、追跡は終わらない。ヒトハとフタバが逃れた別の島は、避難先ではなく次の舞台にすぎない。だからセイレーンと人魚二人は、ヒトハとフタバを追跡してきた。この五人しか知らない、セイレーンたちによる復讐の遂行が始まるのだ。
おわりに──小学生の感想を読みたい
ネット上の感想を見ていると、「誰も悪くなかった。だから悲しい」という受け取り方が少なくない。
だけど私は、逆だと思っている。みんな悪かった。ヒトハもフタバも、セイレーンも、そして黙ったちいかわも。誰も悪くないのなら、エンドクレジットの後で、なぜセイレーンはまだ追ってくるのか。あの最後の数十秒は、この件がまだ終わっていないという、映画自身の宣言だ。
そして「みんな悪かった」と認めた上で、それでも「何が正しかったのか」は分からない。この二つは矛盾しない。むしろ、それこそが悲劇という形式の芯にあるものだ。ギリシャ悲劇が描いてきたのは、善と悪の戦いではなく、正しさと正しさが衝突して、どちらも譲れないまま両方が汚れていく過程だった。自分の正しさを貫いた瞬間に、人はもう一方の正しさを踏み潰している。だから全員が有罪でありうるし、それでいて「では正解は何だったのか」という問いには、最初から答えが用意されていない。
そして映画の中だけでなく、現実にも「悪い人」はいる。それはこの映画を子供向けの夏休みアニメ映画として企画したオトナだ!
なーんのことか分かんない低年齢の子供が観るのはまだいい、分からないまま楽しく観て終われるから。
少しずつ社会のことが分かってきたあたりの小学生は、この映画を観てどう感じて、どう育つんだろう。この映画がもたらす衝撃を、どう受け止めて消化するんだろう。
この記事みたいに、大人はギリシャ神話だのを引っ張ってきてこねくり回して考察ができる。そうして胸に抱えたモヤモヤを消化する。でも、小学生はどんな感想を抱くんだろう。
できることならこの映画の、小学生の感想文を読みたい。そしてその子の、将来への影響なんかを思いながら浸りたい。
叶わぬ夢なんだけれど。
◻︎記事内の画像はパブリック・ドメインの絵画を使用しました。
セイレーン像と「竹馬歩行者たちの合唱」が描かれた貯蔵壺についてはウィキメディア・コモンズの画像を使用しました。
◻︎漫画「カラオケ行こ!」「ファミレス行こ。」を、同じくギリシア神話から読み解く考察記事も書いています(ペンネームは異なります)。良かったらそっちも読んでね。

