コモソウはいつから薦僧で、なぜ薦僧なのか
なぜ「薦僧」なのか。ネーミングの由来を考えてみた。
薦(植物の真菰のこと)の筵を持ち歩いている僧だから、そのまま「薦僧」なんでしょ?
…と今までそれ以上は考えていなかったが、
中世の頃、筵を持ち歩いていた人々は他にも居たはずだ。
巡礼者、乞食、芸能者など。
では何故、専売特許である縦笛による「尺八僧」もしくは「竹僧」と呼ばれなかったのか。
自ら「薦僧」と名乗ったのか…。
なぜ「薦」を選んだのか、考えみた。
1500年代の『洛中洛外図』には、筵を腰に下げた、巡礼者が描かれている。
こちらは薦僧。

下京の室町通りで門付けをしているこの二人は、尺八と思われる縦笛を吹いており、腰に巻いた薦(こも)を下げていることから、薦僧と思われる。鎌倉時代の暮露(ぼろ)の系譜を引くとされ、近世には虚無僧となるが、この時期はまだ深い編み笠は被っていない。『三十二番職人歌合絵巻』にも尺八を吹く薦僧が描かれている。
こちらは巡礼者。

上京の革堂(こうどう)境内を歩く巡礼二人。袖無し羽織のような笈摺(おいずり)を着、足には脛巾(はばき)を付け、むしろを腰に付けている。本屏風で他にも散見される他、『三十二番職人歌合絵巻』にも巡礼が描かれており、それには背中の文字が「三十三所巡礼同行三人」と書かれている。革堂は現在も西国三十三所観音霊場の札所である。
薦僧と巡礼者は着物が違うだけで、同じ物を持ち歩いている。たまたまなのかもしれないが、腰につけている「筵」は見た目は同じなのに解説には、薦僧は「巻いた薦」、巡礼者は「むしろ」とある。
「筵」とは
むしろ【筵・蓆・席・莚】
① 藺(い)・竹・藁(わら)・蒲(がま)などで編んで作った敷物の総称。平安・鎌倉期は屋内用であったが、畳の普及後は屋外用となった。今はもっぱら藁筵(わらむしろ)をいう。筵薦(むしろごも)。 [初出の実例]「梯立の さがしき山も 我妹子と 二人越ゆれば やす武志呂(ムシロ)かも」(出典:日本書紀(720)仁徳四〇年二月・歌謡)
② 転じて、人々が寄り集まり、すわって、風雅な遊びや法事などをする場所。えん。 [初出の実例]「女院は法皇の御病のむしろに御髪剃させ給へりき」(出典:今鏡(1170)三)
③ 寝るための場所。寝床。 [初出の実例]「Muxironi(ムシロニ) ツク〈訳〉寝床に寝る」(出典:日葡辞書(1603‐04))
「薦」とは、
〘 名詞 〙
① ( 菰 ) 植物「まこも(真菰)」の古名。《 季語・夏 》
[初出の実例]「恵曇(ゑとも)の池、陂(つつみ)を築(つ)く。〈略〉四辺(めぐり)に葦(あし)、蒋(こも)、菅(すげ)生ふ」(出典:出雲風土記(733)秋鹿)
「心ざしふかきみぎはにかるこもはちとせのさ月いつかわすれん〈道綱母〉」(出典:拾遺和歌集(1005‐07頃か)雑賀・一一七二)
② まこもを粗く織って作ったむしろ。今は藁(わら)を用いる。こもむしろ。
[初出の実例]「独り寝(ぬ)と茭(こも)朽ちめやも綾席(あやむしろ)緒になるまでに君をし待たむ」(出典:万葉集(8C後)一一・二五三八)
「桜木や菰張まはす冬がまへ〈支梁〉」(出典:俳諧・炭俵(1694)下)
③ 植物「こもくさ(薦草)」の略。〔享和本新撰字鏡(898‐901頃)〕
④ 「こもかぶり(薦被)②」の略。
[初出の実例]「橋にねて菰どしゑいぐゎ物がたり」(出典:雑俳・ぎんかなめ(1729))
⑤ ( 「虚無」とも書く ) 「こもそう(薦僧)」の略。〔文明本節用集(室町中)〕
[初出の実例]「虚妄僧 花ざかりふくとも誰かいとふべき風にはあらぬこもが尺八」(出典:三十二番職人歌合(1494頃)六番)
⑥ 江戸時代、夜、道ばたで客をひいた下級の売春婦。こもむしろを持っていたところからいう。
700年代の書物にも「むしろ」は登場するとのことで、古い言葉だ。薦(菰)も古くから人々の生活に密接なものであったことが分かる。
次は、
「こもそう」という名称が書かれた文献を、初出の1486年『大内家壁書』から1600年代初期まで並べてみた。

1486年の国語辞書(『文明本節用集』風間書房)には「普化」と、薦僧はこの字が当てられていた。一休禅師の影響かは定かではないが、15世紀後半には、尺八吹きは普化禅師を慕う存在であったということが共通していたようだ。
1522年の『宗長手記』には尺八吹僧とある。僧には間違いないが「尺八を吹いている」ということで固有の名詞は使われていない。
1614年の『慶長見聞録』の古無僧は当て字と思われる。この時点で、薦僧と呼ばれて100年以上も経っているが、まだ地方では一般名詞としては定まってはいないようだが、やはり1486年の辞書に書かれているだけあってか、だいたいは薦僧、もしくはこもと明記されている。
『大内家壁書』の「禁制」には、巡礼者は逗留が五日以内であれば良かったのに対し、放下僧、猿回しと共に、薦僧は「追放」となっている。巡礼者と乞食芸能者の区別ははっきりしていたということも分かる。
〈時代背景〉
鎌倉時代(12〜14世紀)に、浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗と多くの宗派が誕生し、一般市民に「難しくない仏教」が広がる。
15世紀は、室町幕府の守護体制が崩壊し、応仁の乱(1467年〜)を機に戦国時代へと突入する動乱期であった。この混乱期には、いわゆる年貢などの課役を逃れ一種の流民と化し、課役の対象外である、荒地や河原に住みつく人達が多数排出される。
戦国大名は当時の芸能者を一定の保護と規制の下に置き、連歌師・田楽師・猿楽師・舞人・座頭など尺八奏者は数多く存在したが、薦僧は領国支配政策において、保護と規制の下に置かれるような芸能者とは区別され、放下(大道芸の一種)・猿引と同様、不利益をもたらすものとして位置づけられていた。ここで職業芸能者か、乞食芸能者に分かれる。
因に、門付けして歩く際に吹かれた縦笛は、一節切や三節切、九州地方では十六世紀末までには「天吹」という縦笛を吹いて門付けする人々が存在していた。
1487年の『大内家壁書』には、夜中の往来の禁止事項に「笛・尺八の曲」が記されている。
夜中路次往来禁制條條
一、笛尺八音曲之事。但其身宿所之前一二町之間者除之
笛や尺八の人は、離れた場所に泊まるならいいよ、とのこと。
『夜中に吹かないで』という注意書きではおさまらなかったのだろうか。
〈考察してみる〉
「コモ」と呼ばれた(自称した)のは、
非農耕的な流人が追いやられる場は、荒れ地や河原などで、湿地帯もあったと想像する。湿地帯は薦の植生地でもあった。
因みに「フケ」という古来の呼び名も湿地帯という意味だ。
葦草も湿地帯に生息しているが…
薦は神聖なるものとされていた。
真菰は「神の宿る草」と言われ古代から神事・仏事に用いられてきた。
…ということであえて、神の力をあやかる意味も込めていたのか。
ただ、竹も「神の宿る植物」と言われている…。
自ら「薦僧」を自称。
乞食とは、仏語で古代からの古い言葉。僧が、人家の門に立ち、食を請いもとめながら行脚し、仏道を修行することを言い、また、その僧を指した。
本来は托鉢のことで僧の修行の一つであったが、中世頃から「物もらい」の意が主になり、近世になると托鉢の意ではあまり用いられなくなる。
激動の時代に取り残された流浪の者たちが、かつての仏道の修行者「乞食=僧」であることを強調し、自ら何宗にも属さない「薦僧」を名乗った。
「笛僧」や「尺八僧」だと、大道芸寄りの名前になってしまう。
乞食のことを【御薦(おこも)】、【薦被(こもかぶり)】と称することについては、それは江戸期に入ってからの名称のようなので、ここでは関係ないと思われる。
〈まとめ〉
結局、なにゆえ「薦」かは、「多分、恐らく」の域を出ないが、「乞食=修行僧=普化禅師」と自らを重ね合わせて、その象徴たる「薦」を名乗ったのだろうか。
古代からあるシャーマニズム的なマコモパワーを利用し、尺八の曲の霊的な有用性をアピールし、尺八の音色、そして曲そのものにも含まれる不思議な力、絶大なる癒し効果を発揮していたと想像する。
(何もまとまって無い…)
荒地や湿地帯に追いやられた流人、乞食芸能者たちが、なんとか食いつなごうと尺八(笛)を吹いて門付し、そのうち既成の宗派を超えた有象無象があちこちに出没し、そのおよそ300年後の18世紀には普化禅師を慕う、新たな宗派を作ってしまったのだから改めてすごいことだ。
1400年代から細々とその職能は受け継がれ、そして江戸初期の1600年代には怪しい団体も含め全国に薦僧の団体が結成され、その後普化宗一派が出来上がる。
んー、でも、やっぱり何故「竹僧」じゃダメだったんだ?
「竹僧」→「ちくしょう(畜生)」になっちゃうから?汗
結局、薦僧とは…、
会ってみたい!
直接会って、
なんで薦僧って呼ばれてんの?
って聞きたい。
と想い募らせるばかりなり…。
悲奇コモゴモ…
そしてもう一度考えてみた↓
参考文献
亀井孝 案並閲 ほか『改編節用集:五本対照 上』
山田悠「尺八・虚無僧編年史」虚無僧研究会機関誌『一音成仏』第47号
保坂裕興著『17世紀における虚無僧の生成』
隈崎渡『戦国時代の武家法制』
上野堅実『尺八の歴史』
山口正義『尺八史概説』
見出し画像は「三十二番職人歌合」より
(数年前に国会図書館でダウンロードした画像かと思いますが、出典元が不明です)
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