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〈フケ・富家・風穴・吹け?〉『普化塚』今昔☆其の二!文献を辿る📖

前回は、虚竹禅師の墓といわれる吸江庵跡にある『普化塚』の場所の経緯や黄檗宗との関係を辿ってみました。


今回は、文献に『吸江庵』『普化塚』がどのように記されているか探っていきます。


ところで、
この吸江庵のあった宇治の一帯は『富家ふけ殿どの』と呼ばれていたそうな。


おっと、その昔1000年代には「ふけどの」と呼ばれていた?
それは偶然ですなぁ…


「宇治市探検」(宇治市公式HP)によると…

後冷泉天皇のもとに嫁いだ藤原頼通の娘寛子(かんし)(1036年から1121年)は、晩年をよく宇治の別荘である「泉殿(いずみどの)」で過ごしました。また、同じ頃、藤原氏の筆頭となった藤原忠実(1078年から1162年)も、宇治に強い思い入れを持ちました。頼通のひ孫にあたる彼はこの地に別荘や荘園を営み、よく宇治を訪れたといいます。
忠実自身や彼が営んだ別荘や周辺の荘園を指して「富家殿(ふけどの)」ということがあります。その範囲と邸宅の所在地は、宇治・槇島と対岸の五ケ庄を含めた一帯のどこかと、はっきりしませんが、忠実は、自らが造営した富家殿もさることながら、宇治にやってくると、寛子が居所とした泉殿に必ずと言っていいほど立ち寄っていました。若くして政界の頂点に昇りつめた忠実は、大叔母の寛子とその周辺に頼るところが大きかったのかもしれません。


富家ふけ殿どの』と呼ばれた土地。

鎌倉期~戦国期に見える荘園名、山城国宇治郡のうち近衛家領荘名の由来は、湿地の意「フケ」に好字こうじ(よい意味をもった文字)をあてて「富家ふけ」としたとみられる(宇治市史)とのこと。

「湿地」→「フケ」→「富家」
 
というわけ。


地名辞典には…

文明15年8月5日条には「五ケ庄富家村,岡本村」,「雑事要録」長享元年条には「富家殿〈号五ケ庄〉」と見え,室町後期には近衛家領の一円化が図られ,五ケ荘の名が総称となり,富家殿・富家村は五ケ荘を構成する1村となる
現在,宇治川左岸に吹前【ふけのまえ】の地名があり,その対岸江戸期の上村・岡本村・槇島村・谷村には「フケ」の小字名をもつ田畑が多かったといわれ,その地域に比定される(宇治市史)

角川日本地名大辞典(旧地名編)

おお、そうでありましたか。


さらに、

ふけ(富家)【仁井田、フケ谷山(志和)、冨家萩(大正)】

 フケは、沼地、湿地、泥深い田、湿田などの意で全国に分布する。フケル(蒸)=蒸されてやわらかくなるという語源であろう(地名用語語源辞典)。漢字は吹・深・更・布気・不毛などがあてられる。ただしフク(吹)の転訛もあるので注意が必要。
 高知新聞連載の「土佐地名往来(平成20年5月13日付)」では香南市野市の冨家について『「ふけ」は漢字渡来以前からの和語で「深田(低湿地帯の田んぼ)」同地名が全国に分布』と紹介している。また、平成17年9月22日の朝刊では吹井(高知市仁井田)を取り上げ『低湿地の土地柄「ふけ=深田」であるか、吹き出る水「噴き井」か不明』と両説を併記している。いずれにしても深田(湿田)であろう。
 長宗我部地検帳にもフケ谷(小野川)、フケノ谷(志和)とあるように中世以前の古名である。

四万十町地名辞典より



色々調べてみると、「フケ」という湿地の意味は全国的にあり、「福島県」も湿地帯を意味する「フケ島」が語源という説もあるらしい。その他、茨城県取手市の「小浮気こぶけ」、滋賀県守山市の「浮気町ふけちょう」も、湿地帯からの名前とのこと。
現代に至っては、悉く湿地帯は埋めたてられておりますが、昔はそこかしこが湿地帯であったと思います。「フケ」は「漢字渡来以前からの和語」というのも興味深い。

これらのことを踏まえると、「興国寺の裏山に今でも普化谷というところがあって、その昔、四居士が住んでいたと云い伝えられている」(中塚竹禅著『琴古流尺八史観』)という「フケ谷」も、呼び名から漢字が当てられ、後々「普化」という字が当てられた、ということか。

田圃にはもちろん水が多い方が良いが、住むには湿地帯は良いわけが無い。今では宅地化でうまく埋め立てられているが、家を買う時はその土地が以前どのような場所であったか確認は必須だ。全国ちらばった土地柄にもよるだろうが、そういう場所にわざわざ住んでいたという虚無僧たちの身分というものがこれで分かるし、風呂屋もやり易かったわけだ。

ということで、五ヶ庄の『普化塚』も、昔からフケにあった塚が「富家フケ塚」となり、いつの間にやら『普化塚』になったと想像できます。

当て字といえば、「虚無僧」の名称も、以前は、菰僧、薦僧から虚妄僧、古無僧など、当て字ですしね。
因にワタクシの名前の「片羽かたは」も当て字です(ここでは関係ないですが…)



ここ宇治の五ヶ庄より西側は、その昔、巨椋池(おぐらいけ)という、池というよりは湖ほどの広大な遊水池であったそうな。
巨椋池は古くから景勝地として文人墨客に愛されたのだそう。


さてようやく文献に入ります。

『吸江庵』という名称が登場するのが、1686年刊黒川道祐くろかわどうゆうによって書かれた地誌、『雍州府志ようしゅうふし

雍州は古代中国の首都であった洛陽らくようの存する州名で、日本の京都に対して山城国をそれに擬して呼称したもの。編輯の体裁を『大明だいみん一統志』に倣い、漢文を用い記述は詳細である。道祐は安芸あきの人、林道春どうしゅんに学び古今に博通し、儒医として安芸藩に仕えた。後年京都に住し、1691年(元禄4)に没した。(日本大百科全書)

『雍州府志』 1686年刊

『雍州府志』国立公文書館所蔵

妙安寺 「在蓮華王院南而禅刹近世異僧号朗庵不知為何処人也 曽興龍宝山大徳寺一休和尚相親常慕風穴演弉(延沼)之作畧(略)自好吹尺八 或自称風穴道者之住宇治吸江庵又暫寺世所謂薦僧之本寺也 斯徒露宿風食厭険難経歴諸方到処坐葉薦而為足故称薦僧或謂虚無僧也 亡命者或逃世隠斯宗門者間有之中世有暮露者是亦薦僧類也 凡東関西刈風穴道者門泒(派)之寺院在処々 一説朗庵慕普化振鈴之作畧(略)号普化道者也 然今以吹尺八見之則風穴道者之義足取之者乎」

<訳>
妙安寺「蓮華王院の南に位置する禅寺です。近世、朗庵という何処の誰とも分からない異僧がその妙安寺に住んでいた。龍宝山大徳寺の一休和尚(1398-1481)とも親しく、風穴延沼和尚の作略を慕って自ら好き好んで尺八を吹いていた。自称風穴道者とも言い、所謂薦僧の本寺である宇治吸江庵に暫くの間住んでいた。路上で寝ることや、食べることが困難でも厭わず、諸方を歴訪し菰の上に座す衆徒を、薦僧あるいは虚無僧と称す。亡命者或いは隠遁者も宗門の間では中世の暮露といい、これも薦僧の類である。凡そには風穴道者の門派の寺院が所々にあった。一説によると、朗庵は普化禅師の振鈴の作略を慕って普化道者とも号した。今以て尺八を吹いてみると風穴道者の道義が十分に伝わってくる」


朗庵という異僧や、一休禅師、風穴延沼が登場します。

  • 【風穴延沼(ふけつ えんしょう・896~973年)】とは、中国宋代(960-1279)の初期を中心に活躍した臨済宗の禅僧。臨済義玄の三代後の僧で唐代から宋代にかけて活躍した杭州の人。

この頃には、三十三間堂の南の上池田に、妙安寺(明暗寺)があったことが分かる。そして宇治の吸江庵は薦僧の本寺となっている。

この『雍州府志』が書かれた頃は、まだ「虚竹」や「法燈国師」の登場する伝説『虚鐸伝記』や、明暗寺縁起の『虚鈴山縁起并三虚霊譜瓣』(1735年)が書かれていなかった。明暗寺が興国寺と末寺を結んだのは宝永四年(1707年)のこと。
延宝五年(1677年12月)に、幕府の寺社奉行が虚無僧諸派本寺・末寺に宛に、延宝五年法度えんぽうごねんはっとという法令をし、この法度によって虚無僧は寺社奉行の管理下に正式におかれたのだ。
1661年に中国僧「隠元隆琦禅師」によって黄檗山萬福寺が開創されたのもあり、「風穴道者の門派の寺院が所々にあった。一説によると、朗庵は普化禅師の振鈴の作略を慕って普化道者とも号した」ということで、この頃この辺りは「臨済ブーム」だったのかも。

『普化塚』は『風穴塚』ともいわれていた(「新撰京都名所図会 巻6」)ともあり、地元の人にとってはどっちでも良いが、虚無僧集団にとっては後々臨済により近い普化禅師が、新宗派を立ち上げるには打ってつけということで選択されたのか…。

さて、
ここで見逃せないのが朗庵という異僧、もっと昔から存在したことが色々な文献に残っている。
『雍州府志』からおよそ300年!遡ります。

1300年代、南北朝時代から室町時代の臨済宗の僧、義堂周信ぎどうしゅうしん(1325 - 1388)が、宇治橋辺りの草庵の「朗庵」の庵主が入水自殺したという解釈のされた詩を詠んでいる。


義堂周信『空華くうげ集』より

朗庵主水墳 二首
宇治橋辺一艸堂 安禅座穴幾松床 三千刹界皆棺槨 底事将身水底蔵
活葬前身水幾深 臥龍翻去碧沈沈 可憐覓剣刻舟者 空向波濤起処尋

義堂周信『空華集 第五巻』上村観光 編『五山文学全集 : 校訂』

〈訳〉
朗庵主の冥福を祈る

宇治橋辺りに草庵あり
中には禅修の為の粗末な寝床
広大な宇宙は全て棺桶
そして貴方は水の底

過去のことは世俗の流れに捨て
臥龍は潜ったら何処にも姿を見せない
「剣刻舟者」を探すは哀れなり
空の波を探し虚しく空回りするのみ

  • 「刻舟求剑」は中国語の四字熟語(成語):舟から剣を落とした者が舟に印を刻んで「ここが剣を落とした所だ、岸に着いたらここから探せば良い」と言った物語で、時勢の移り変わりを知らず旧態を固く守って改めない、考え方、やり方が時代遅れで非合理的である、古いやり方に固執する。


中国出身の知人に訳文を聞き、それを参考にして訳してみました。
この二つの漢詩は、「何事も控えめで低姿勢ですべき、世事が全て無常で迅速、理論ばかり固守しないで、まずは行動を起こして実践する、真智(真知)は行動の中にあるのみと、世の中の人々に戒めているではないか」とのこと。義堂周信自身の戒めでもあるのだろうか。
粗末な草庵に暮らしていた親しい友人が入水して亡くなってしまい、会えなくなった悲しみに、彼は今宇宙という広大な棺桶の中にいるのだと、自分に言い聞かせているとも解釈できる。

義堂周信(1325 - 1388)は、南北朝時代から室町時代の臨済宗の僧。別に「空華道人」とも号する。土佐(高知県)長岡の人。土佐の吸江庵出身で五山文学の重鎮。宇治の里、槇島に近い宇治川沿岸に移り住んだのだそう。

土佐の吸江庵(ぎゅうこうあん)とは南北朝時代を代表する禅僧・夢窓疎石(むそうそせき)を開山とする。1318年、夢窓疎石が北条高時の権政を逃れるために四国に渡り、土佐国の五台山の山麓に結んだ草庵を起源とする。夢窓が草庵の前に広がる浦戸湾を「吸江」と命名したことで、草庵は吸江庵と称するようになった。夢窓が足利尊氏の政治顧問に就いたこともあって、室町幕府の厚い庇護の下に隆盛し、海南の名刹と呼ばれた。土佐の中世禅宗文化の中心となり、吸江庵の名は明国にまで聞こえたほど有名であったとのこと。

この頃はまだ宇治の『吸江庵』とは呼ばれていなかったが、後々そう呼ばれるようになったのは義堂周信の存在が関係するのかもしれない。


続いて、一休禅師。
「尺八」という題で詠まれた歌がある。

『狂雲集』

『狂雲集』国立国会図書館所蔵

尺八
因憶宇治庵主會   
飢腸無酒冷於水   
明皇天上羽衣曲   
偶落人間慰野僧   

〈訳〉
宇治の庵主を憶う。
空腹で酒も無く、ここは氷よりも冷めたいほどに冷えている
天上の唐の玄宗皇帝ゆかりの羽衣の曲が、
思いがけず地上に落ち、放浪僧を慰める


義堂周信からおよそ70年後、一休禅師(1394-1481)もよく宇治を訪れたとのこと。宇治の庵主である、尺八を吹く僧について詠っている。
いったいどんな曲なんでしょう。
この詩もすごい内容です。

今現在、誰かが吹いた曲について、詩が書けるだろうか…
感銘を受けたとしても詩になるだろうか…
演奏が素晴らしいのか自分の感受性の問題か、自問するところであります。
(ワタクシ散文詩専門の自称詩人です。ここでも関係ないですが)


さて、時代は下りますが、もうひとつ、宇治と一休禅師と尺八に関する文献。

1623年に朱子学派儒学者で漢文学者の林羅山(1583-1657)によって書かれた尺八記 に「宇治庵主」という言葉が登場する。

林羅山「尺八記」 1623年刊

吾国近代有宇治庵主狂雲子一路叟者並避世之徒也。倶吹尺八

〈訳〉
近代に、宇治庵主、狂雲子、一路老人なるもの有り、二人とも並んで世を避ける衆徒なり。共に尺八を吹く


狂雲子は一休禅師の号。宇治は、一休禅師ゆかりの酬恩庵(通称”一休寺”)のあった薪村の隣接地。ここで、宇治の庵主一路と一休禅師が知己であったことがわかります。

  

室町時代の雅楽家・豊原統秋むねあきによって書かれた『體源抄たいげんしょう』(1512年成立)にも、宇治に住んでいたとされる朗庵が作者であるとか、一休禅師の作ったものであるとされている詩がある。

『體源抄』 1512年成立

又自両頭テ切断後 三千里外絶知音 又云狂雲云シ人作之
尺八節高円口連 彼尋出處宇治邊 一聲吹落兩棲月 百万軍中聞不眠  


先ほどの、1686年『雍州府志』から四半世紀後の1700年代。

地誌、『山州名跡誌さんしゅうめいせきし』には『普化墓』が初登場する。

山州名跡誌とは、1711年に刊行された22巻にも及ぶ詳しい地誌。 元禄年間に実地踏査を行い、神社・仏閣・名所旧跡の由来、縁起等記したものです。当時の現状と古書の記載との相違を考証した結果が、随所に取り入れられている山城国研究の基本書といえるもの。

『山州名跡誌』 1711年刊

普化墓 在黄檗門前往還道南二町。此所近辺葬所也。伝云、虚無僧の祖師、普化某の所開也。故號。古竹林あり。都鄙の虚無僧寺、爭採て作尺八。是故に断絶すと。普化和尚は異国の人也。中比於日本良庵と云者、当宗を唱て専愛尺八四方に遊ぶ。其風普化鳴鈴に類するを以て、世人呼んで和朝普化と称すと云ふ。 波戸(地名)在墓南四町許。

〈訳〉
普化墓 黄檗門前街道南二町に在り。この辺り墓地。 虚無僧の祖師、普化某に開かれたと伝えられる。故にそう記す。古い竹林あり。各地の虚無僧寺では争って尺八を作る。あまり遠くない昔、良庵という者が、普化宗を唱えていたるところで尺八を演奏した。その風采が普化禅師の振鈴に類するので、世間では和朝の普化と呼ばれた。


もうこの頃には『雍州府志』(1686年)にあった、風穴延沼禅師は消え「朗庵は普化禅師の振鈴の作略を慕って普化道者とも号した」が「和朝の普化」ということで『普化墓』と明記される。

続いて、先ほどの地誌『山州名跡誌』からおよそ60年後の1780年、絵入りの観光本のような『都名所図会』にも『普化墓』が紹介されている。

『都名所図会』とは、京都における最初の名所図会本。版を重ねて広く流布し、伝本も多い。

『都名所図会』 1780年

『 都名所圖會』国立国会図書館所蔵

普化墓  黄檗門前の南二町にあり。伝云、中頃虚無僧の祖普化良庵といふ者のはかなり。いにしへ此地は竹林にして都鄙乃虚無僧等竹を争いきりて尺八に作る故に今荒廃す。もと普化禅師は異国乃人之此良庵といふ者、其宗風を慕いて専尺八を愛し四方の遊ぶ世乃人これを呼んで和朝普化と称すとなん

〈訳〉
黄檗門前の南二町にあり。虚無僧の祖、普化良庵という者の墓と伝えられる。昔この地を竹林にして各地の虚無僧等は竹を争って切り尺八を作ったので、今は荒廃している。普化禅師は異国の人で、良庵という者はその宗風を慕って専ら尺八を愛し、いたるところで演奏した。世間ではこれを和朝の普化と呼ぶ。


内容は1711年の『山州名跡誌さんしゅうめいせきし』とほぼ同じ。
『都名所図会』の後編として天明七(1787)年秋に刊行された『拾遺都名所図会』にも同じ事が書かれている。

虚無僧たちが争って竹を切ってしまったということは、普化宗始まって以来、聖地巡礼が相当なブームだったのでしょうか。


以上、
江戸時代中期以前に書かれた地誌や詩文などに登場する宇治の草庵や普化塚(墓)について。

実は『吸江庵』という名称が1686年の『雍州府志』以降の地誌には出てこない。
1700年代の地誌では『普化墓』の昔話のみ。其の一でも分かったように『普化塚』は「この辺り墓地」(『山州名跡誌』)とあるように、庵と少し離れた場所にあったのだ。


『吸江庵』は『琴古手帳』の「尺八曲目」に登場する。
黒沢琴古は1710年生れ〜71没なので、1700年代中頃も、吸江庵には尺八吹きが滞在していたという事が分かる。

一 志圖曲   一 京鈴慕   一 琴三虚霊
右琴三虚霊往古は三味線虚㚑と号吹来候處 勇虎尊師泰巌尊師御立合にて父琴古え御相談之上右琴三虚霊と御改有之候後琴古より傳

一 吉野鈴慕
右四曲は宇治きうこあんにて龍安より先琴古傳来仕後琴古傳

黒沢琴古が宇治に行った頃は、黄檗山万福寺が建立された「臨済ブーム」から100年経っていたが、虚無僧寺の本寺とされた吸江庵あたりではまだ尺八愛好家たちが多く出入りしていたのかも知れない。


さて、1735年には、明暗寺張本人(寺)が文献『虚霊山明暗寺文献』を記し、新たに『虚竹』を登場させる。

『虚霊山明暗寺文献』とは、虚霊山明暗寺の縁起に関するもので、京都妙心寺の僧によって書かれたとなっている。この文献は、明暗寺最後の住職たりし昨非居士が初代中尾都山に譲ったものを塚本虚堂が書き写したもの。

虚鈴山縁起并三虚霊譜瓣 1735年 『虚霊山明暗寺文献』より

虚竹在域州宇治歸朗庵主命終樹塔於宇治郡五箇庄中人呼為普化塚也至於第二世明普居于洛東建立虚霊山明暗寺・・・(後略)
享保廿年乙卯九月吉辰

付典 明暗寺当住 寛壹宥座元

〈訳〉
虚竹は宇治の朗庵で亡くなった。宇治郡五箇庄に普化塚が建てられた。村の人々はそれを普化墓と呼んでいました。二代目の明普は洛東に虚霊山明暗寺を建立した。・・・(後略)


突如「虚竹」が登場。全文は省きましたが、虚竹は法燈国師が宋より連れてきた四居士に尺八を習うとある。「虚鐸伝記国字解」も同じようなことが書かれているが、寄竹が直接法燈国師に習ったことになっている。


もし真実なら1200年以降の地誌や、臨済宗の僧、義堂周信、一休禅師も法燈国師や四居士、虚竹のことを書いていても良さそうですが一切記述は無い。明暗寺が興国寺と末寺を結んだ宝永四年(1707)後に色々書き足されたのでしょう。

現在吸江庵跡地入口の石碑には「朗菴虚竹禅師之墓」とあり、朗庵と虚竹がくっついている。


さて、
1300年代から1700年代中盤までの、宇治と尺八に関する史料文献を並べてみました。嘘がまことになっていく現実を目の当たりにしていくわけですが、権力を利用するといつか権力に利用される日が来ます。誰かを感動させる尺八の音色に、名のある宗祖や背景が必要でしょうか。改めて考えフケるのであります。鍛錬鍛錬!

ともかく、
宇治という地には、朗庵という小さな草庵があって、そこには朗庵だとか一路だとか龍安だとか言われる尺八を吹く誰かが途切れること無く延々と何百年と住みついていて、一休禅師や黒沢琴古までが訪れたという、素敵な場所だということは分かりました。


次回は、『普化塚』が何故『亀塚』なのか?に迫ります!↓


参考文献
神田可遊「虚無僧伝説について」尺八通信5号
水野礎空「吸江庵備忘録」虚無僧研究会機関紙『一音成仏』第五、六号
石綱清圃「虚無僧史(終)その草創期を探る」虚無僧研究会機関紙『一音成仏』第二十号
中塚竹禅『琴古流尺八史観』
明暗寺発行『虚霊山明暗寺』
泉武夫『竹を吹く人々』
山口正義『尺八史概説』


〈追記〉
フケ谷の由来を、京都の歴史学者の柴田實氏(1906−97)が、著書「普化宗孝」に書いておられました。

「興国寺背後の普化谷といわれるのはあくまで後世のこじつけ解釈で、フケ谷は諸方に多く存するフケ田と同じく泥深い沼状の谷の意である場所に名づけたものと解せられるが、かれらが普化庵に湯屋を設けて人びとを入浴せしめたとする所伝はまことに興味深い」

『柴田実著作集2』及び『鷹陵史学(2)』

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