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普化塚の『亀塚』について🐢吸江庵今昔☆其の三

虚竹禅師の墓が、なぜ自然石の亀の甲型になっているのか、
今回は『亀塚』について調べてみた。

古来からこのような地面に置いた形の、自然石の亀の甲羅型の墓って存在するのかしら?今まで、このようなお墓を見たことが無い。

そんな素朴な疑問。

宇治まで遥々やって来て、やはりこの地面に置かれた「石」を、これが虚竹禅師のお墓か〜と、献奏するには何とも不思議な感じがするのであります。

『朗庵虚竹禅師墓』と石碑や、標石もあるし、きっとこれが虚竹の墓なんだろうけど…、ここにお堂もあったということだし、やはり礎石っぽい。

このサイトにあるように、四天王寺の転法輪石、引導石、伊勢神宮遥拝石、熊野権現礼拝石と同じような祀り方なので、江戸末期に墓を神聖な場所としたのだろうか。


こうなった経緯を私は知りたい。
そして再び清々しく献奏したいのであります。


亀塚』をネットで検索して真っ先に出てくるのが、大分県の亀塚古墳、あとは東京にも亀塚がある。どちらも亀の甲羅のように円墳状になっているから亀塚と言われている。石ではない。
沖縄には「亀甲墓かめこうばか」という亀の甲羅のような石屋根がついたお墓がある。
どちらも宇治の 『亀塚』とは違う。あと、墓からかめが出てきて…というのもあるようです。


とりあえず、いつから『亀塚』なのか、分かりやすいように宇治関連の文献に使われた名称を表にしてみた。

当たり前ですが「尺八」は一貫して殆どの史料に記載あり。ちょっと安心。

これらの史料だけみると『亀塚』という名称は江戸時代中期までは使われていなかった。
地元の人にだけそう呼ばれていたのかもしれないが、『普化墓』という名称が登場したのは1700年代以降。墓では無く『普化』は明暗寺が言い出したようです。
もし『普化墓』が地面に置かれた石なら、地誌にも、変わったお墓と言うことでそのように記載されるのでは?と思う。この頃は、ちゃんとしたお墓があったのでは。


整理すると、

  1.  1300年代から、宇治に尺八吹きの住む庵があった。

  2.  洪水により槇島から、次に五ヶ庄上村、折坂と場所を移る。

  3.  1600年代、江戸時代になってから、その庵は黄檗宗吸江庵となる。

  4.  1700年代に入り、吸江庵近くに「普化墓」と分かるような墓碑が設けられた。

  5.  ところがそれも洪水で流されてしまったかで無くなってしまった。

  6.  1830年代以降、明暗寺関係者が放置されていた墓地内を整備し、石碑や燈籠などの建立を始める。


 

昭和12年に書かれた、中塚竹禅著「廿九、普化塚」によると、

此門を入ると幅三尺程の石畳が敷詰めてあり、其左右に一基の石燈立つ、石畳の正面は二間四方位の石畳、石畳の内廓にば大きな自然石四個、正面に石香炉石花瓶各一個、但此石畳の一角は一體何であるか判らず仕舞ひ。

中塚竹禅著「廿九、普化塚」『雑音集七』『三曲』1937年

と、この自然石は「四個」と書かれている。

こちらは「普化塚之図」
中塚竹禅著「廿九、普化塚」『雑音集七』『三曲』1937年より


現在は小さい石を足すと八個。

「一體何であるか判らず仕舞ひ」とある。
ちゃんと「分からない」としているところが、さすが中塚竹禅。



富森虚山著「愚観虚竹禅師」によると、

大正13年の夏(中略)ここは土地の古老の話では、明治の中頃までは生え茂ったススキの中に小さな堂があったが、俗に亀塚といって当たらずさわらずの処であるということであった。
明治二十三年(と聞いたように思う)熊本の故津野田露月が竜谷大学在学中、ストライキの張本人にされて停学処分によりシャクにさわったので寄宿舎をとび出して虚無僧で歩いた時、この草むらの中に寄竹の墓石があることを探しあて、近所の人に手伝わせて墓のまわりの草を刈ってきれいにしたが、当時はすでに訪れる人絶えていたらしいと語ったことがあった。のちに樋口對山や明暗教会関係者の発起で全国各派尺八家の協力を得て重修されて現在に到っている。この朗庵旧址に在る寄竹の墓石のありかたが異状なのである。

富虚山「あれこれ 尺八随想漫筆(十二)」『日本音楽』189(1970年)
富虚山「あれこれ 尺八随想漫筆(十二)」『日本音楽』189
国立国会図書館所蔵

なぜか石は五個と記載。

配置図は六個。

富虚山「あれこれ 尺八随想漫筆(十二)」『日本音楽』189
国立国会図書館所蔵

富森虚山は、亀塚なのに甲羅に相当する部分がないのが疑問であるとのこと。


これは、中国の唐、宋時代の碑碣(石碑)ではなかろうか、ということで色々専門的なことが書いてあるが、こちらに短く記載されるに、

「亀塚」
この辺一帯は、もと度々宇治川の氾濫があった土地で、この墓域も明治末年には荒廃して雑草に埋もれていたのを、津野田露月が苦辛の末さがし出し、その後、樋口對山を中心に重複された。墓碑はおおかた洪水の時にたおれたのを、近在の者が無造作に運び去ったのではないかと思う。現存しているのは亀の形に伏せた六個の自然石であって、土地の人が亀塚というのはこれによるものである。
この亀型の自然石は、多分碑の台座の石である亀趺と想像される。元来亀趺は中国の碑に用いられる形式で、それも五品以上といわれ、下賎庶民には用いられない。これらを考え合わせてみると、これは宋人居士の碑か、それとも虚竹禅師は宋人か、或は宋人居士が虚竹禅師のために建てた碑か、などの疑問も起ってくるが、これは今しばらく想像にまかせておこう。

富森虚山『明暗尺八通解』1979年(昭和54)


と、勝手な想像とのこと。

うーん、宋人がこのような墓にしたなら、近くの黄檗宗の墓域も、この辺りに住んでいたかも知れない大陸から移住した人々の墓も、このような形になっているのではないだろうか。

この墓域に現存する石碑や墓碑の年号をみると一番古いもので、「朗庵虚竹禅師苔徑標石」の天保酉年(1837年)。『亀塚』を囲んでいる石柱には安政三年(1856)と刻まれている。明暗寺住職等の墓碑は1850年以降のもの。

『亀塚』を囲んでいる石柱に刻まれた「安政三年(1856)正月立」

石碑建立が江戸時代末期に集中しているのは、1774年に”不法之虚無僧取締”という触れが全国的に出され、江戸中期以降、虚無僧寺は何とかして自分たちの体面を保とうとしていた頃であった。明暗寺は宇治の墓地を再整備し、朗庵と虚竹を結びつけ、もうこの時代には『普化墓』の碑が無かったので、お堂の礎石などを集め石柱を立て改めて朗庵の墓とした、と想像できる。

そのまま明治維新に突入し、普化宗廃止となったため墓碑等は放置されて、その後明治末に津野田露月によって探し出された。それまで地元では『亀塚』と言われていたということではないでしょうか。



さて、
富森虚山の言う亀趺きふについて調べてみた。


日本の亀趺

 墓前碑の亀趺ということでは、日本の亀趺は、江戸時代に始まりました。これは、江戸時代になって、大型墓葬が整備されたことと関係があります。大型墓葬の時代であった古墳時代の終焉とともに、大型の墓葬は造られなくなったわけですが、それが江戸時代に復活したことになります。

平勢隆郎のサイトより

http://kande0.ioc.u-tokyo.ac.jp/kande/hirase/

読み進むと「日本の亀趺を一瞥」とあり写真もあります。
全国に色々あるようです。


中国の亀趺

関野貞 著『支那碑碣形式の変遷』
ログインすると見られます。


明の十三陵の龍趺・亀趺

こちらは明代の。


大唐清河郡王紀功載政之頌碑

もう圧巻。



両国の回向院にもあります。

中国の後に見るとかわいい。

これを初めて見た時は、亀趺というお墓の形のことも知らず、亀好きな人のお墓かと思ってました笑




栄見山 観音院の亀趺(東京都武蔵野市)

意外と近所にありました。

建立されたのは平成12年。



亀趺は、自然石ではないこと、亀趺という墓は江戸時代から始まったことがわかりました。



さて、もう一つ、当時の宇治が描かれた「洛外名所遊楽図屏風」に、最初に宇治の庵があった槇島が描かれています。

チラっと。

『狩野永徳の青春時代 洛外名所遊楽図屏風』より

良い雰囲気だ〜。

いやはや島というからやっぱり島なんですね。

地元岐阜県も、長良川、木曽川、揖斐川の下流地帯は、こんな内陸にも?みたいな場所にも「島」のつく地名があちこちにあります。


『狩野永徳の青春時代 洛外名所遊楽図屏風 』

本物が見たいですけど、まずはこの本で。
近所の図書館にありました。

平等院で尺八を吹く男性とその仲間たちも描かれています。(泉武夫著『竹を吹く人々』 にも画像あり)


狩野永徳の真筆と確認「洛外名所遊楽図屏風」  京都国立博物館

見つかったの、最近なんですね。


狩野永徳といえば、『洛中洛外図』上杉本にも、薦僧たちや、下京隻第一扇の上方、三十三間堂の側を歩くこれまた男衆が描かれている。下京隻四扇の下方、西洞院通りに面した町屋の軒先には薦僧二人連れ。1565年の作品。

拡大して見られないのが残念。


1500年代には、薦僧やら尺八吹きが京都をウロウロしていたんですね〜
タイムスリップして行ってみたい…



宇治川はとにかく水害が多かったようです。

国土交通省による明治時代以降の宇治川の水害について


再び、富森虚山の聞いた話によると…

上村円福寺の檀家総代吉川元次郎老人の話では「明治三十年頃までは、この辺り一帯は宇治川が氾濫するごとに水びたしになって観音堂も洗われ、アキカンに入れてあった観音の由来書きと大水のときに流れてしまった。堂内にあった観音は槇村に、賓頭盧は上村に避難おさせ申した。ところが賓頭盧さんを宇治川につけると雨が降るといわれているので、槇村では、上村の方で賓頭盧さんで雨乞いもされては水つきになるというので観音が上村にきて浄土宗の尼寺円福寺の堂内の暗い処に押し込んで開帳厳示ということになった。開帳すると雨が降って水つきになるというので公開しなかったがかって先代中尾都山師の助言などもあって、宇治市長の篤志な肝煎りで境内に観音堂を建てて安置することになった。現在は献曲に来られるかたもあり御布施をあげてもらえるようになった」ということであった。
この観音像は覚心が宋から持ち帰った数体の観音像の一体で、寄竹の持仏であったと伝えられているもので、明暗寺の本尊となっていたものである。観音像が避難したのち暫くして亀塚の持仏堂は取り払われたということである。

富虚山「あれこれ 尺八随想漫筆(十二)」『日本音楽』189


普化観音が五ヶ庄上村の円福寺に安置されている由来が、洪水から避難ということで、中尾都山師の助言で観音堂を建てて安置することになったとの事。

この観音さまが宋から来たかはさておき、やはり亀塚の場所にお堂が建っていたということらしい。
亀塚と明暗寺住職の墓碑の間にでも建っていたのでしょうか。

もうあとは発掘調査するしかない!
もしかしたら石の下に何かあるかも!
ないかもですが。


さて、

ここまで調べて振り返ると、
やはり何と言っても、

宇治川の洪水は大変だった!

と思いを馳せるのであります。
『普化塚』には宇治川との歴史が刻まれておりますね。

ここを訪れた皆さん、どうか供養の為に祈りませう🙏


今回は『普化塚』がなぜ亀塚なのか⁈ の探求でした♪
何となく分かりましたね。


お次は、ようやく石碑の探索です!


参考文献
神田可遊「虚無僧伝説について」尺八通信5号
小菅大徹著「虚霊山明暗寺余聞(六)」虚無僧研究会機関紙『一音成仏』 第十四号
水野礎空「吸江庵備忘録」虚無僧研究会機関紙『一音成仏』第五、六号
石綱清圃「虚無僧史(四)その草創期を探る」虚無僧研究会機関紙『一音成仏』第十二号
石綱清圃「虚無僧史(終)その草創期を探る」虚無僧研究会機関紙『一音成仏』
第二十号
中塚竹禅『琴古流尺八史観』
塚本虚堂「普化観音縁起」『芸能新報』(塚本虚堂集『古典尺八及び三曲に関する小論集』)
富虚山「尺八随想漫筆(十二、十三)」『日本音楽』189、190
富森虚山『明暗尺八通解』
明暗寺発行『虚霊山明暗寺』
泉武夫『竹を吹く人々』
山口正義『尺八史概説』


〈追記〉
前回の其のニで、「小浮気こぶけ」という地名のある茨手市を、虚無僧寺のあった場所だと書いておりましたが、宮県名市の間違い。神田可遊師にご指摘頂きました。城、取、違い、いやはやひどいり違え汗 いい加減にシロです🙏 探してしまった方スミマセン。


あと、小菅大徹師が『一音成仏』 第十四号に「虚霊山明暗寺余聞(六)」「黄檗宗吸江庵」と題して詳細に記載されておりさらに理解が深まりました。
その他参考文献多数です。先人の皆様にも感謝🙏


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