宇治『普化塚』石碑探索⭐︎江戸末期篇〈其の四〉
『普化塚』シリーズ其の四となりました。
今回はこの墓域にある石碑を一つ一つ見ていきたい。
見出し画像にあるのは「虚竹禅師墓」と、天保十四年(1843年)に建てられた碑です。
この図は昭和12年(1937年)中塚竹禅によって書かれた「普化塚之図」(『三曲』より)

門があった頃の図です。
『亀塚』の石が4個書かれているのが分かる。今のように放射線状でもない。
ここで前回の訂正ですが、現在は6個ではなく8個!
富森虚山が1970年に6個と記録し、現在は8個。
1930年代当時の写真はこちら。

国立国会図書館所蔵
幕末に整備されたが、明治維新後荒廃し、大正時代に一度整備され「重修碑」が建立。その後また荒廃し、戦後昭和53年(1978年)頃、再び整備された。
1960年代の写真はこちら。

国立国会図書館所蔵

国立国会図書館所蔵 1966年
同じく1966年。

すぐそばに家が建ち始めました。
そして、改修後。
1978年(昭和53年)

塀が修復され綺麗になり、現在に至る。

現在と1978年を比較すると、亀塚の真後ろの石灯籠が新しくなり、木々が無くなっております。あとは概ねそのまま。
現在の様子を図にしてみた。

現在の図にある、塀脇の脇や木の周りにある不規則な小さな丸は全部石です。
ここの墓域内は、石が沢山あります。
それで亀塚の石も増えたのか⁈謎です。
大正13年には古老がここにあったと言う、観音堂(持仏堂)といわれる小さなお堂は、恐らく亀塚と明暗寺住職墓の間に建っていたのではないでしょうか。
ところで、
其の一から順に古い史料から『普化塚』を辿ってきましたが、邦楽ジャーナル2023年11月号に小濱明人氏の『尺八の聖地 11 普化塚(京都府)』と掲載されておりますので、こちらも是非♪
さて、
石碑を一つ一つ確認して行きたいと思います。
まず最初に、入口の一番手前にある丸い穴が開いている石灯籠。
石灯籠 安政三年(1856年)


開祖朗菴虚竹禅師墓前
虚霊山明暗寺
安政三年乙辰正月立
こちらの石灯籠は門前にあったのが、戦後あたりに普化塚敷地内に移動したようです。
この灯籠について、富森虚山師が何やら書いている。
ところでこの亀塚に、偶然の符合か、それとも中国の墓式を心得てのことかわからないが、すこぶる興味を誘うものがある。それは安政三年明暗寺三十二世魯堂の時に墓地入口の両側に一基づつ立てられた方形穿穴碑である。これは中国古代の葬碑の余風で、もとは天子、諸侯、大夫、士といった身分のある人の廟前に立てたもので、孔は祭祀の時ギセイの牛や羊をつなぐためである。これが埋葬にも用いられ、墓穴の両側に立て、棺を墓穴の中につりおろす時に孔に横木を通してロクロを仕掛けたのであるが、漢代には墓碑に転用せられ、一基二碑が通例であった。
墓門は墓穴に眠る神霊の出遊する神道いわれ、墓門の前、神道の両側に墓碑を一基づつ立てた。写真(1)は重修当時の門で、門前神道の両側に穿穴墓碑が立てられ宋人の墓碑にふさわしい。写真(2)は現状で、戦時中土地の人が門を村有墓地の入口に移し穿穴墓碑を壇上門内に移動した。
富森虚山の言う「方形穿穴碑」または「穿穴墓碑」を散々探したが見つからない。
この丸い孔の開いた石塔は、神社の前などで見かけるもの。この石塔は簡易的な石灯籠で、穴は灯入れの為のようです。中塚竹禅も「上方に直径一尺の丸窓火舎なり」としている。
前回の其の三『亀塚』でもそうでありましたが、どうしても宋と繋げたいという富森師の意図を感じるような…。日本の文化は何かしら中国由来ではありますが、幕末に宋代の余風はさすがに無いかと思います。
『普化塚』手前の石灯籠 弘化四年(1847年)
左右に一基づつ。同じ文字が刻まれているので並べてみました。
左側の石灯籠のほうが劣化が進み読み辛い。



紀州産?
??
情報求むです。
『普化塚』を囲む石柱 安政三年(1856)

裏側にあります。
(甲)標石 天保七年 (1836年)
江戸時代は、別の場所にあったと思われる標石。
この敷地内では1番古い年代が記されたもの。


五箇荘内字折坂
世稱普化墓

虚霊山明暗寺

廼吾祖永仁中之塋或也暫荊□々会時汲派之弟子
慕因茲天保丙申□未氏翦棒措投跡披籠叢□需其径
かなり不明瞭。
「我らの祖、永仁年間(1293〜99)の頃の虚竹禅師の墓域であり、その弟子が天保7年 (1836)にどうのこうのと、その径である」というような事だと思います。
(乙)標石
実は、こちらの標石の詳細写真を撮っておりません。

中塚竹禅によると、
普化道者朗菴虚竹禅師墓苔徑標石
とあり、甲標石とほぼ同じ。
虚竹禅師墓碑 天保十四年(1843年)
塚の左手にある。

天保十四年三月(1843)に、明暗寺三十世院代東岳永圖が建立。篠崎弼の詩文が刻されている。
寺田貞次編『京都名家墳墓録』(大正11年)、又は中塚竹禅著「雑音集」『三曲』(昭和12年)、塚本虚堂集『古典尺八及び三曲に関する小論集』に全文が記載されております。
塚本虚堂が読み下し文を記載しているのですが、分かりづらい為(というよりそのままでは意味不明多し)、間違いを恐れずに拙いですが簡単に訳してみた。
虚竹禅師墓
明主之治民、猶禹之行水乎、禹之行水因勢利導不使汎濫、而為天下之用、於 国家制僧人亦見其一端也、自仏法入我邦歴世益盛、其徒分派蔓衍天下、健櫜(天下泰平)以来、官禁其行怪、許其勸化、使庶人老幼皆有所付属、以立戸籍、而官省案比之煩矣、虚無宗者亦其一派也、
君主が民を治める方法は、中国古代の伝説の王、禹の治水に似ている。禹王の治水は、氾濫を誘導し世間に利益をもたらすようにした。於いては国家が僧侶を制する方法にもみられる。仏教が我が国に伝来して以来盛んになり、信者は日本国中に広がった。太平の世になり、幕府はこれを取締り庶民は国民全員の戸籍を登録した。厄介であったのが、虚無宗集団の一派である。
【禹】とは、中国古代の伝説的な王で、夏朝(紀元前1600年)の初代王。大河の治水(黄河とも云われる)を成功させた伝説的人物とのこと。
色んな人物がいるんですなぁ。宇治の洪水のことも関連させているのでしょうか。きっと古来から治水に関しては色んな研究がされていたのだと想像します。
参照こちら↓
宗祖虚竹禅師武人而逃禅者、受法於紀州興国開山法燈国師、国師之入宋也、国作宗恕理正法普四居士従而帰化、皆慕鎮州高僧普化、振鐸於市之風吹尺八擬之禅師学之極其妙、人称曰今普化因号其地曰普化谷、
宗祖の虚竹禅師は、武人であったが禅の修行に専念した。紀州興国寺開山の法燈国師から法を受けた。国師が入宋した際、国作、宗恕、理正、法普の四居士を従え帰国した。皆、鎮州の高僧普化禅師を敬慕し、市中において禅師が鐸を振るのを擬え尺八を吹き、その奥義を学んだ。人々は虚竹を普化と呼び、その地は普化谷と呼ばれた。
(虚竹が武人であったというのは「虚霊山縁起」「虚鐸伝記(ここでは寄竹ですが)」には無いので、一体いつから元武士になったかは不明)
後移宇治五箇荘岡本村、奉観音大士像、人称曰普化観音、永仁中寂、而葬其地、種竹薮竿亦曰普化塚、法嗣明普師結庵京師白川、多聚徒弟、取於虚竹秘曲之意、興普化唱市之偈、称曰虚霊山明暗寺、而其宗始立焉、
後に、宇治の五ヶ所岡本村に移り住み、観音菩薩像を祀った。人々は普化観音と呼んだ。永仁年間の中頃に亡くなり、この地に埋葬された。その竹林は普化墓とも呼ばれた。法を継いだ明普法師は、京都の白川に庵を結び、多くの弟子を集めた。虚竹の秘曲の意からと、普化禅師の唱える偈から着想を得て、虚霊山明暗寺と名付け、宗派を創立した。
其宗以吹管乞食爲法務、不専読経、不必薙髪、以故天下武人失職者多帰焉、朝議疑其為逋逃主也、欲除之、時京師所司代板倉侯父子以為、戡乱之後、諸侯廃置未定、武人漂蕩者託跡其中、安而択主、庶幾無山澤哺聚之患矣、及為請地移寺於妙法院南、且授禁令十七條守之、於之乎其宗永久不廃寺、
その宗は吹管を以て乞食をすることを法務とし、読経はせず、剃髪もしなかった。その頃多くの武人は失職し、朝廷は彼らを逃亡者として疑い排除しようとした。京都所司代板倉父子が、反乱鎮圧後、流浪の武士たちは寺に避難し、安泰であったため、糧とする山沢を庶幾った。彼らは寺を妙法院の南に移すために土地を要求し、17条の御条目を下し寺を廃絶しないようにした。
至今幷祀二矦云、經蔵之久、禅師之塚荒蕪、而大士像徒上頓圓福寺、文化中院代天元、謀就寺營祖師堂、至院代一掌時始成、天保六年乙未也、上村乃納大士像、配祀禅師、岡本邨亦施墓前地数畝於寺、知事僧默堂盖與有力云、
今に至るまで二人の禅師(普化禅師と虚竹禅師か)は共に祀られ、経蔵も長きに保存されたが、禅師の墓は荒廃し、観音像は円福寺にうつされた。文化年間、院代天元(二十七世)は、祖師堂の建立を計画し、一掌(二十九世)の時に祖師堂は完成した。天保六年(1835)のことである。五箇荘上村に観音像を納め禅師を祀り、五箇荘岡本村には墓前に土地を寄進した。知事僧默堂がそれに貢献したという。
(知事僧というのは僧侶の役職の一つだそうで、中塚竹禅著『琴古流尺八史観』209頁に、默堂は「明暗寺幹事」とある。高橋空山『普化宗史』の明暗寺歴代の三十代には、黙堂円阿とある。現在は東岳永図が三十世となっていますがそれについては石碑探索後編で)
今院代東岳晝其兆域、欲立石以表焉、託文於予、予矒仏道未曉其宗旨所在、但其處未流不忘祖恩、東岳之挙實為可嘉、且有感、於国家之深仁厚澤處置僧人使得其所也、不拒其請、為之銘曰、藺笠洞簫、歿其名姓、伝道其風、自楠正勝、士或不遇、潜匿待時、淑慎其身、無忝祖師、京城之巽、山青水緑、師霊如在、瀏亮一曲。
院代の東岳に石碑を建てたいから文を書いてくれるように頼まれた。私は仏道に明るくない。ただ未だ流祖の恩を忘れず、東岳の推挙は実に喜ばしいとする。且つ感じるに、国家の慈悲深く厚い恩は、僧侶たちに丁重な扱いをした。その依頼を拒まず碑文を刻んで言いますと、
藺笠洞簫、歿其名姓、伝道其風、自楠正勝、士或不遇、潜匿待時、淑慎其身、無忝祖師、京城之巽、山青水緑、師霊如在、瀏亮一曲。
(と、四字ずつ漢字で虚無僧のことが表現された内容。)
ちょうどこの頃、
弘化四年(1847)には幕府自身が『慶長之掟書』の徹底した吟味を行った。
「普化宗流弊改革之儀ニ付申上候書付」(内藤紀伊守・寺社奉行)
一体、武家の悪党寄集まり、慶長度御条目の由を以て勇士の隠家と申成し、素性他へ漏らさず、面体を隠し罷り在り候故、手荒気強の所業に及び候趣に相聞え、右掟の由も兼ねて心得難く存じ居り候次第も之あり…云々
文儀も甚だ拙陋(下手で見にくい)、三人の連名も不審、林大学頭によると、記録にない等々…
1847年には『慶長之掟書』は幕府より偽書と断定されていた。
きっと何やら自分たちが不利な立場になりそうな雰囲気が、その頃あったのだろうか。「慈悲深い寛大な国だ」とわざわざ書いている。
『慶長之掟書』についてはこちら↓
そして最後に、
天保十四年歳在癸卯春三月
浪華篠崎弼撰幷書、明暗寺三十世院代東岳永圖謹立
天保14年(1843年)春三月、
大阪、篠崎弼 撰并に書。明暗寺30世院代東岳永圖建立。
篠崎弼とは、
しのざき‐しょうちく【篠崎小竹】
江戸後期の儒者。名は弼、字は承弼、通称長左衛門。徂徠学系の篠崎三島に入門、養子となり、その命で江戸に出て、昌平黌の古賀精里に朱子学を学ぶ。三島の塾の梅花書屋を継ぎ教えを請う者が多く、名声は高かった。著「小竹斎詩抄」「小竹斎文稿」など。天明元~嘉永四年(一七八一‐一八五一)
篠崎弼は、詩、書に優れ、当時書籍を刊行する者のほとんどが、彼に序・題・跋などの文章を求めるほどに人気があったとのこと。(Wikipedia 参照)
普化宗、虚無僧との接点が分かりませんが、明暗寺の住職も名声にあやかって依頼したのだろうか。号が小竹だからか? 篠崎弼に依頼した理由を知りたいところです。
これについて中塚竹禅も、篠崎弼は一節切を吹いたか、証拠はないが何か音楽に特に親しみを持ち、自然と明暗寺とも親しくする機会があり、従って雅号も小竹としたのであろうと考察している。
これまでの石碑等の年代順に並べてみると、
1836年(天保七年 ) (甲)標石
1843年(天保十四年) 虚竹禅師墓碑
1847年(弘化四年) 普化塚手前の石灯籠
1856年(安政三年) 門前の石灯籠 安政三年
1856年(安政三年) 普化塚を囲む石柱
一度に建てられたわけではなく20年の間に造られたことが分かる。
意外と、標石が最初にあって普化塚を囲む石柱が最後ということは、墓とされる石が目立っていたのか、もっと分かりやすい何かがあったのか、お堂があったからなのか、色々と想像されます。
…と、
まだ、僧侶の墓や『重修碑』『昭和修復碑』などがあるのですが、長くなったので今回はここまで。次に続きます!
吸江庵、なかなか情報盛りだくさんです汗
続きはこちら↓
参考文献
中塚竹禅「雑音集(七)」『三曲』
中塚竹禅『琴古流尺八史観』
寺田貞次編『京都名家墳墓録』
塚本虚堂集『古典尺八及び三曲に関する小論集』
塚本虚堂編『虚霊山明暗寺文献』
富虚山「尺八随想漫筆(十二、十三)」『日本音楽』189、190
富森虚山『明暗尺八通解』
明暗寺発行『虚霊山明暗寺』
史料提供
神田可遊師
いいなと思ったら応援しよう!
古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。辻立ちコム活に投げ銭チップしていただけたら嬉しいです🙇