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宇治『普化塚』石碑探索☆幕末虚無僧墓&大正〜昭和篇〈其の五〉

ようやく『普化塚』シリーズ、最後となりました。

見出し画像は、「普化塚重修碑」の上部に刻まれた樋口對山の「虚鈴きょれい」の譜です。なかなかオシャレ。



と、石碑探索の前に、


前回の追記。

虚竹禅師墓碑文にあった「知事僧黙堂」のことが不明でしたが、中塚竹禅著『琴古流尺八史観』209頁に、明暗寺幹事とありました。高橋空山『普化宗史』には、明暗寺三十世は黙堂円阿になっている。現在は「虚竹禅師墓」を建立した東岳永図が三十世。これについて高橋空山は、明暗寺にある位牌と、一朝軒にある虚無僧式録によれば、第三十代は円阿黙堂となっているとあるが、安政五年(1858年)に三十二世魯堂元協が書いた巻物には、東岳永図が三十代となっている。

年表にして見ると、

天保 4年(1833) 6月  
 二十九世 心外一掌辞職
(この間、黙堂が職に就いていた)
天保 5年(1834) 5月  
 二十九世 心外一掌再任
天保12年(1841) 6月  
 二十九世 心外一掌辞職
天保12年(1841)11月  
 三十世  東岳永図就任
天保14年(1843) 3月  
 三十世  東岳永図辞職(福島二本松侯の命によって帰藩)
「虚竹禅師墓」建立

「虚竹禅師墓」が建てられたのは1843年なので、東岳永図はこれを建立してすぐに帰藩している。黙堂は、心外一掌が住職の頃から知事僧として貢献したと「虚竹禅師墓碑」に刻まれており、黙堂という僧は重鎮だったようです。

さらに黙堂についてもう一つ、

中塚竹禅は、普化塚の虚竹禅師墓の碑文と、圓音寺本尊の普化観音像に附属していた妙法蓮華経八巻にある年代の200年のズレに対しての疑問を呈している。

観音像は、虚竹禅師墓の碑文には1200年代以来、普化観音附属の経には1400年代以来、となっており当時、黙堂は両方のことを承認していた。
竹禅は「随分いい加減なものだと言わざるを得ない」とのご感想。

黙堂なだけに、黙認…



さて、

普化塚域内にある石碑の探索、前回の江戸期篇からの続きです。
明暗寺住職の三十一世から墓碑がここ宇治に祀られています。


左から

明暗寺三十二世

魯堂元協居士
安政六季巳末秋八月十三日卒(1859年)

その脇にある灯籠には、「献 九皐 冠庵 寛沖 静観」とあるとのこと。(小菅大徹著「虚霊山明暗寺余聞(四)『一音成仏 第十二号』」より)
上の写真では判読不明…。

九皐は、次の墓碑の三十三世觀妙玄堂の号で、静観は普化僧、素行の号。次に説明しますが…、

明暗寺三十三世

觀妙玄堂居士
慶應二年丙寅冬 十一月朔日卒(1866年)

三十三世觀妙玄堂は、敗走する長州兵を匿ったかどで捕まり、後に出獄。慶応二年、大阪で死去。明暗寺徒の素行は、元治元年(1864年)幕吏に殺された。

神田可遊著「禁門の変〈尺八要語〉」『虚無僧と尺八筆記』に、玄堂、素行について、小菅大徹著「明暗三十三世玄堂のこと」「明暗寺徒素行について」と『一音成仏 第十二号、第十一号』)にも詳しくあります。

國見昌史師のブログにもありますのでこちらも是非↓


明暗三十一世

明暗三十一世堅堂宗固塔主禅師
嘉永三庚戌四月二十三日(1850年)


法眷合葬之墓

法眷合葬之墓
安政二年乙卯四月立 (1855年)
虚霊山明暗寺 

法眷合葬之墓の、法眷はっけんとは、

はっ‐けん【法眷】 〘 名詞 〙 ( 同法の眷属の意 ) 仏語。法を同じくした仲間。師匠を同じくし、同じ法流をつぐ仲間。また、単に、同じ道を修行する人たち。兄弟弟子。

精選版 日本国語大辞典



霊光幸玉禅師墓

不昧軒霊光幸玉禅師墓


文久第三稔次癸亥盂秋建立 (1863年)
幸玉(花押) 

富森虚山『明暗尺八通解』には、三十二世魯堂元協の次に「除世 院代 霊光幸玉禅師」とあるが、今の系列には名前は無い。

小菅大徹師によると、役僧にしては墓碑が立派すぎるので、短期間ながら仮住していたのではないか、さらに墓碑の裏には、自分の名前と花押があるので、生前に建てた寿塔であると思われるとのこと。


以上、明暗寺住職の墓碑についてはここまで。

「虚竹禅師墓」を建立した三十世東岳永図の帰藩後、どんな人生だったんでしょうね。戊辰戦争の二本松の戦いでは恐らく…。


ここから時代が変わり、明治維新を経て大正時代へと移り変わります。


普化塚重修ノ碑

大正3年(1914年)秋建立

重修は中国語で、建て直すの意味。

重修 chóngxiū [動] 1 (建物などを)建て直す,修築する. ~古寺gǔsì/古い寺を建て直す. ~马路/道路を修築する. 2 改訂する;編纂(へんさん)し直す. ~县志xiànzhì/県誌を編集し直す.

中日辞典 第3版


上部に虚鈴の譜、
その下に重修記。
その下に重修会特別会員の名前が刻まれている。

発起人が樋口對山と爾以三。

樋口對山は、この碑が秋に建立されてすぐの11月に没している。對山59歳。對山は亡くなる前に、この碑を見にきたのでしょうか。

爾以三は東福寺東福寺塔頭 善慧院住職。

碑文を儒者の藤沢南岳ふじさわなんがくが撰している。

藤沢南岳 ふじさわ-なんがく 1842-1920
幕末-大正時代の儒者。 天保(てんぽう)13年9月9日生まれ。藤沢東畡(とうがい)の長男。讃岐(さぬき)高松藩士。戊辰(ぼしん)戦争では藩論を尊王へ転換させて藩の危機をすくう。のち藩校講道館督学。明治6年父の泊園書院を再興した。大正9年1月31日死去。79歳。名は恒。字(あざな)は君成。別号に醒狂,香翁など。著作に「自警蒙求」など。

講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus

藤沢南岳は、佐幕派だった高松藩を尊王へ転換させて藩の危機を救った人。勤王派だった三十三世觀妙玄堂の墓碑もあることだし、わざわざ依頼したのかな。



大正15年(1926年)に刊行された『三曲:箏三絃尺八』第6巻 第8号には、

「祖跡吸江庵再興會成る」

(前略)大正三年樋口對山及爾以三の両師発起にて該祖廟の重修を成就せしも遇々對山師遷化の為草庵の再興成らず遺憾ここに十有二年…云々

『三曲:箏三絃尺八』第6巻 第8号
国立国会図書館所蔵

とある。

その草庵とは、「尺八根本道場」のことで、稲垣衣白編『浦本浙潮先生』262頁には、「紫山師は明暗教会から独立した形で明暗根本道場を創りあげた。」ということで、大正十五年(1926年)八月十五日発行の『明暗』第三巻第一号には、巻頭に「普化の復興を宣す」という一文が大きな活字で組み入れられた。それは本邦普化宗の開祖朗菴虚竹晩年の居、宇治の汲江庵を再興することにおいて物心共に普化宗を再興しようと明暗根本道場の主旨であった。

宇治の汲江庵普化宗の再興というのが、「明暗根本道場」の主旨であったとのこと。
それと一心同体で、津野田露月の祖跡汲江庵再興会が結成され、それが宇治ではなく、小林紫山宅、即ち明暗根本道場に出来、谷北無竹が明暗三十六世を継承する時に、本尊虚竹禅師像の木像がそちらに移されることになった。

こちらにも明暗根本道場についてあります。分派した明暗根本道場にお邪魔した際のこと↓


大正時代に吸江庵がここ宇治に再興されなかったのは残念…。

石碑の詳細にいきます。


普化塚重修ノ碑

虚鈴

虚鈴
ツーレーロー ハーハー
ツーレーロー ハーハー
ハハーハ イ﹅﹅﹅﹅﹅
ハ﹅﹅﹅﹅﹅ イー
ツーレーロー レレー
ツーレーロー レレー

ツーロロー ツーロロー
ロ﹅﹅﹅﹅﹅ ツーレーロー
ハーハー 止

對山拜寫

普化塚重修記

居號朗菴塚呼普化虚竹禅師心
迹可眎矣禅師則明暗寺開山虚
無宗祖天保中東岳禅師修築之 
小竹筱翁碑成人皆仰之明治以
降虚無宗廃洞簫藺笠一掃無痕
而碑塚荒蕪頼村民保護留其跡
耳頃者爾以三樋口孝道二君欲
重修之明暗教会大輔其志乃擴
塚域修草庵美挙整頓人益敬禮 
二君功徳餘音嫋々竟能無断乃
記録由以垂後世
大正三年中秋 
  浪華 南岳藤澤恒撰 

〈訳〉ここに眠るは朗菴と号し普化と呼ばれた虚竹禅師である。その痕跡は今も残っている。この禅師は明暗寺開山であり、虚無宗の開祖でもある。天保年間に、東岳禅師は(篠崎)小竹翁碑を建て、人は皆これを仰いだ。明治以降、虚無宗は廃絶され、洞簫も深編笠も一掃され跡形もなく、墓も荒れ果てたが、村人たちの保護によって、その痕跡を残した。
爾以三と樋口對山が再建を望み、明暗教会は彼らの志を大いに支援し、塚域を広げ、草庵を修復し美しく整え、人びとは敬礼した。二人の功徳の余韻は途切れることなく、後世に受け継がれていくでしょう。

(何故「普化宗」では無く「虚無宗」なのでしょう?)



先ほどの『明暗』第三巻第一号によると、この「重修會特別会」の目的は、

虚竹禅師の宇治の吸江庵を再興して根本道場とすること。
役員は、正会員(毎月一円宛三ヶ年出金)
    賛助会員(任意の金品寄贈の者)
役員は、会長一名外、理事、監事、会計。 
会長は、小林紫山、理事津野田露月、外役員十八名
事務所は、京都市◯◯小泉方


重修會特別会員

64名の氏名が刻まれていますが、ここでは塚本虚堂の注釈など書き添えて数名記載します。

  • 海軍大臣 八代六郎(海軍大将で、日露海戦火蓋を切る直前艦橋上で千鳥の曲を吹奏して士気を鼓舞し、風流艦長として勇名を馳せた人)

  • 建仁寺管長 竹田黙雷(建仁寺派管長で陰に陽に樋口氏を引立てた人)

  • 医学博士 猪子止戈之助(当時有名だった博士)

  • 竹内栖鳳(四条派画家の第一人者)

  • 内田紫山(西園流二世宗家)

  • 琴古流は6名、荒木古童(当時65歳)、川瀬順輔 (45歳)、神久雄(23歳)、山岸芦水など。

  • 宗悦流は2名、伊藤虎眼、中野雪堂(虎眼は西高瀬五条に住み、製管で有名であった)

  • 都山流は4名、岩崎奇山、上田佳山(上田芳憧)、西田露秋、井上華城。

  • 明暗對山派は21名、(ここで「對山派」という明記が初めてされた)小林紫山(明暗三十六世)、笠浪虚堂(浦本浙潮の最初の師)、谷北無竹(明暗三十七世)、中村洞山、など。

  • 明暗露月派は4名、

  • 明暗教会京都総理事長 山本彦兵衛

  • 明暗教会理事 勝浦正山

あと、

明暗教会酒商 酒井常三郎 という方まで刻されている。お抱え酒屋なのでしょうか。苗字も酒井さん。みんなどれだけ飲んだのよ。

流派の名前にも時代を感じます。


さて、その大正時代に建てられた「普化塚重修碑」の反対側に、「普化塚昭和修復賛助芳名」の碑がある。

普化塚昭和修復碑

個人名で118名、団体名で37団体。(数え間違いがなければ)
賛助者454名、4団体と最後に現住平住台山(再興明暗寺 二代住職)の名前が刻まれております。

実は石碑の表の写真のみで、裏を撮り忘れ、昭和何年に建てられたか確認出来ませんでしたが、『虚霊山 明暗寺』24頁(改訂四版)に「昭和五十二年には全国尺八道人のご協力の下に昭和の大改修がなされました」とあります。(後日追記:神田可遊師より情報ご提供)

大正時代以降、ここ普化塚はまた荒廃してしまったのでしょう。


目に付く名前を挙げてみますと、

谷北一声(谷北無竹の孫)、高橋虚白(谷派)、稲垣衣白、小山峰嘯、斎藤雪山、神如正、石綱清圓、岡本竹外、今仲章月、など。

沢山の流派、団体が名前を連ねております。


そして、多分一番新しい石灯籠

昭和五十九年秋彼岸(恵光代)

以前の石燈籠は、亀塚より少し右寄りにありましたが、新しいのは真ん中に建てられております。


そして、いらん情報かもですが、古い石灯籠はバラバラになって椿の木のある隅にひっそりと放置されております。虚無僧さんたちが建立したと思うと、ついつい愛おしく感じてしまうのであります。

この古い石灯籠があった頃の写真はこちら↓


さらに、今は無いもの。

大標識

虚無僧禅之旧蹟
『一音成仏 第十二号』虚無僧研究会機関誌

『普化塚』の一隅に立っていたとのこと。高さ3メートルとは、けっこう大きいです。この頃に、昭和修復碑が建てられたのかもしれません。


以上!

ようやく、宇治吸江庵、普化墓についてはここで終わります。
其の五まで行くとは思わなかった…。
おかげで色々分かりました。

『宇治普化塚特集!⭐︎徹底ガイド版』みたいになりました。

予習復習されたい方は其の一からどうぞ↓


吸江庵の場所の推移から、文献に登場する中世の頃の尺八愛好者たち、江戸期の地誌にみる普化墓、『亀塚』という呼称の考察、幕末の明暗寺住職たち、明治期から大正にかけての復興、昭和に入り再び修復、と700年の時空を尺八と共に駆け巡りました。

ただし、尺八そのものの出番があまりなかった笑。
宇治鈴慕なんて曲、あっても良さそうですねぇ。

色々な人々の歴史も刻まれております。

尺八好きが1300年代から住み着いていたという魅力的な宇治。いつまでもこの遺跡に尺八愛好者が訪れることを願いつつ🙏

調査してくださった先人の皆さまにも感謝です。

参考文献
神田可遊『虚無僧と尺八筆記』
小菅大徹「虚霊山明暗寺余聞(三、四)」『一音成仏 第十一号、第十二号』
中塚竹禅「雑音集」『三曲』(昭和12年)
中塚竹禅『琴古流尺八史観』
高橋空山『普化宗史』
塚本虚堂集『古典尺八及び三曲に関する小論集』
藤田鈴朗「祖跡吸江庵再興会成る」『三曲:箏三絃尺八』第6巻 第8号
明暗寺発行『虚霊山明暗寺』

史料提供ご協力
神田可遊師



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