【言霊学連載9/10】五十音図は誰が作ったのか?大祓祝詞に隠された『音図組み換え』の経綸
【言霊学連載全10回ー第9回ー】
日本語50音図は誰がいつ作ったのか?
段階を追って整理します。歴史的な通説としては、平安初期から中期(9世紀ごろ)に、和歌・日記・手紙などの実践の中で、万葉仮名の草書化・簡略化が進み、ひらがなが成立します。一方、僧侶・学僧による漢文訓読・注記の実践の中で、漢字の一部を取る略記法が発達し、カタカナが成立します。
その後、平安後期(11世紀末)に、比叡山の学僧である明覚がサンスクリット語の音韻論を元に日本語の音体系を整理して著した『反音作法』が、現存最古の50音図の始まりとされています。
時代を経て配列がバラバラで存在した音図を、江戸時代の国学者・契沖が古典研究に基づき現在の「あ・い・う・え・お」の順へと整理・統合し、それが明治政府によって国語の標準的な音図(五十音図)として位置付けられました。
しかし、一度立ち止まって自らに問いかける必要があります。この通説は、客観知性の成果物であって、『知識の樹の実を食べる』行為に他ならないからです。
古神道から見れば、この歴史データは、文字通りの意味としては捉えません。それは「人が人として存在した瞬間から実在する主体知性が、その時代と人の客観知性の間から閃きとなって断片的に再浮上した現象」に過ぎないからです。
つまり、客観知性の知る範囲では2000年、第十代崇神の時代から複数の日本人の主体知性が部分的に回収した真理を、契沖の主体知性が「あいうえお」の配列(言霊学でいう『天津金木音図』の形)として最終統合したと見るわけです。彼ら学僧や国学者の脳を通じて、主体の知性が訴えかけたからとしか思えないほど、宇宙の真理と日本の皇室の歴史は、一本の七五三縄で結ばれているのです。
実体のない森羅万象に光を与える知性の名前アマテラスは2000年以上前から存在していながら、その生命の光の自覚が出来ずにいたことを考えるとき、偽書とされる不完全な古史古伝の中にも、説得力ある真実の断片が小さいながらも存在するように思います。
例えば、客観知性として天皇は天津日嗣天皇(アマツヒツギスメラミコト)と呼ばれて天照大御神の子孫であるとされてきましたが、森羅万象の悟りの境地からアマテラスの名前の意味を考える時、いわゆるGod(ゴッド)としての天照大御神などいない、と言うより不可知な存在でしかなく、自らの生命を照らす知性のヒビキのことであって、『生命(命)であり、言葉(御言)であり、現象(身事)であるミコト』を自覚し操作可能な聖(霊知り)のみが『人類の心を照らす霊(ひ)であるミコトを統(す)める存在』として、その地位を受け継いだからアマツヒツギスメラミコトと呼ばれたことが了解されます。
すると今度は近年考古学的にも認められつつある1万年続いた争いのない時代・縄文期に、古史古伝にある三つの皇朝がオーバーラップしてくるのです。
古神道では、かつて聖(霊知り)の集団が心の構造を解明し、日本語を発明したとしています。すなわちアマテラスとウツシヨの関係を悟ってその仕組みに50のヒビキ(量子エネルギー)が関わっていると理解したわけです。そのヒビキが言霊で、この理解は単に諸法無我を悟っただけではなく、諸法無我の仕組みを解明し、その仕組みを言語に翻訳したということなのです。
そして心の仕組みを絶対観として見る時、八父韻(聖書のロゴス)と、精神の柱には五次元(主体:生命の樹:母音と客体:知識の樹:半母音)があり、はじめにロゴスから、母音に働きかけて、ウツシヨが創造されると結論付けました。
イの次元は中今の次元であり、生命意志・創造意志であり、そこに宿る陽陰20のヒビキの数理(布斗麻邇)と、エの次元の道徳実践智の政治をしたからこそ万世一系=一万年の精神文明を築くことができたのではないか、つまり3つの皇朝、或いはそれに似たような執政時代があったと考えるとしっくりくるのです。
化石として残る日本語の数々と心の構造を演繹の軸に据えて言葉を発掘して見ると、以上の精神文明から初代神武天皇ことカムヤマトイワレビコのミコトを境目にしてその精神構造隠匿工作の時代に突入し第十代崇神の同床共殿廃止を以てその工作は完了し物質文明開花と読み解けます。
隠された精神構造と歴史の封印が解かれたのは明治時代に入ってからです。昭憲皇太后が一条家からお輿入れの際に『言の葉の道』と言う書物が御道具箱に入っており、明治天皇と皇太后お二人が言霊原理に気付かれ、研究を始めたのがきっかけです。
研究のお相手を務めたのは旧・尾張藩士の書道家・山腰弘道氏で、お二人は『古事記』を研究対象にしたのです。
石上 ふることぶみを ひもときて 聖の御代の あとを見るかな
『石上=五十神』『ふることぶみ=古事記』『聖=霊知り』のことです。
言霊学研究は他でもない言霊原理を封印した宮中で復興し、興した人物が、原理は古事記に暗号化されていることを知っていた、或いは気づいた、気付く理由があったということなのです。
山腰弘道氏の子で太平洋戦争後に亡くなった山腰明將氏が残した文書の中で、古事記の神の名と仮名五十音が一つ一つ結びつけてあったと弟子の言霊学者・小笠原孝次氏が著作物に書き残しています。
つまり、天皇家の先祖に関わりのある人物達が心の構造を元に日本語を発明し、皇室によって守られてきたのが日本語五十音図です。
だから五十鈴宮と呼ぶ伊勢内宮に天照大御神(吾間照らす)の八咫鏡なる物質があると言う体で、国民に2000年も目を向けさせて、『エの次元の心の規範(かがみ)=天津太祝詞音図』の目覚めのときを待っていたのです。2000年と言うと100年以内の個人の生涯しか目に入らない現代人にとっては想像もつかないほど長く感じますが、1万年と言う久遠の時を万世一系で紡いできたとしたら、聖達にとっては須臾刹那のように感じていたかもしれません。
それでは言霊学の視点から、初代神武天皇と第十第崇神天皇の意義を紐解き、音図に関わる大祓祝詞の解説をします。
神武天皇の即位したのは紀元前660年旧暦1月1日で明治政府が当時の新暦に換算し2月11日を建国記念日に固定しました。固定しないと毎年記念日が変わってくるからです。
初代神武天皇からおよそ第44代 元正天皇までの名前は、奈良時代に冠された諡名です。『古事記』では和名で神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)と呼びます。この響きから意味を再構築すると『噛む八間統云われ霊凝御言』となります。
現代でも物理的な咀嚼の比喩として事態をよく把握して理解することを咀嚼する、飲み込むと言いますが、噛むとは身事(現象)であるヒビキすなわち御言を咀嚼することです。
『八間』は音図の父韻で母音と統合してヒビキを鳴らす事で、大和の国体原理にもなっています。
『云われ』とは言挙げする事で霊凝(ヒコ)とは霊子・霊芽(ヒコ・ヒメ)を生み出す事で、五十鈴宮(五十音図)を使って事態を掌握し、言葉と現象を生み出すミコト(生命)と言う姿が浮き上がってきます。
道徳実践智の次元(菩薩)で、10の律法を掌握判断し統合する人間本具の性能を『古事記』では|十拳劔《とつかのつるぎ》、『書紀』では十握劒と漢字を当てています。
すなわちカムヤマトイワレビコのミコトとは五十鈴宮全てを把握し統合する精神の自覚=アマテラスの自覚の事を言っています。
ここで祭と剣の語源に触れておきます。
太刀は『断ち』と原義が同じです。例えば物事の良し悪しが分かるという時、良いものと悪いものを別けることが出来ることと意味が同じです。
判別、分別、区別、分析、裁断、判断、裁判、切断、解剖など全て物事の善悪を断ち切ることができる性能から出た言葉で、その象徴が太刀なのです。
太刀は片刃(刀:方名:かたなとも言う)で剣は双刃です。剣は判断力と統合力を兼ね備えています。あなたの心のヒビキ(言霊:勾玉でもある)を分析判断し統合する動き、気を連ねて釣り合わせて新たな意義を生み出すのが、釣義(釣気:連気:連義:つるぎ)で、アマテラスとウツシヨの時空間を釣り合わせることが間釣り(まつり)です。人民の話を良く聞き咀嚼し言葉を統める、これが政の本来の姿です。だから菊(聴く:聞こし召す)家紋なのです。
素戔嗚尊は十拳劔と言う判断力が備わっていながら、『八岐大蛇と言う混沌』を切り裂いて取り出した『都牟刈大刀=草那藝大刀』は、素戔嗚尊が初めから8つの判断力しか持っていないから十拳劔が刃毀れした(=十拳劔では太刀打ちできない)というメタファーになっています。
荒ぶる物質世界の展開図『天津金木音図』がカラカラと8つのロゴスだけで運用されていることを表現しています。そこに伊邪那岐神(イ)と伊邪那美(ヰ)の存在はありません。三種の神器の一つ草薙剣とは、10の判断統合力を持たない八拳劔の象徴なのです。だから伊勢という十理の象徴八咫鏡と同じ場所にないのです。五十鈴宮は『天津太祝詞音図』の展開図です。
そして『拳』や『握』の漢字が充ててあるのは拳の数で剣の長さを計測する為ではありません。二本の手を使って一本ずつ指折り数えて眼前の事態を『''掌握"』するのです。これを幣手(和手:握手:にぎて)と言います。事態を掌握したら一本ずつ起こし、『汝の父母を敬え。汝殺すなかれ。汝盗むなかれ。、、』と唱えます。これを起手(おきて)と言い、手で十の秩序・戒律・法を定めるから掟(おきて:手偏に定と書く)というのです。この掟を聖書では十戒と呼びます。
人体の機能や数は、日本語を中心に捉え直して見ると、心の働きを具体的に説明する為に存在していることに気がつきます。身体を使って見えない心の働きを類推説明できるように造られているというわけです。
アマテラスの自覚がカムヤマトイワレビコノミコトであるという結論は、即位までの物語からも分かります。それは『日向(ひむか)に留まっていては天下を治めるには不十分だから東に行って都を造る』神武東征の物語にあります。
アマテラスのヒビキが霊で陽、それがウツシヨに投影された物質が日で陰です。「日向に留まる」ということは、 客観的な事象(太陽=日)に心が向かっているだけで、その背後にある「自分自身の心の仕組み」に気づいていない状態です。心の原理を知らず、実体なき客体に翻弄される境涯に他なりません。
東の語義は「日貸し(ひかし)」です。金貸しと言えば債権者つまり貸す(課す、化す)側です。日貸しとはアマテラスのことで客体の日を映し出す知性です。日を貸し出している側のあなた自身の主体性の心のことです。客体に翻弄される現代の人類は心のシステムに化されて日を実体だと思い込み仮(借り)の姿である太陽を実在だと思っています。東に向かうとは本来の知性である心を照らすアマテラスを探す旅なのです。
彼の最大の敵は『登美那賀須泥毘古』です。書紀では長髄彦と当てて意味を補強します
『とみの』とは『十の理を経て現象化した(身・実となり写し出された)もの』をと言う意味で『ながすねひこ』は『実体のない現象をあたかも実在すると錯覚し続ける(長く)支柱(髄)となっている自分自身の心』です。音を分解すると「成ったもの(な:現象として生じたもの)が質量を持ち停滞し(が=かの濁音は『カ:ちから』に質量が加わる音)心に巣(す)くって根(ね)を張っている霊凝(ひびき)と解けます。
この客体のノイズ(ひこ)に支配された心から解き放つ案内役の八咫烏が天から使わされます。八咫烏とは八咫鏡の別名で天照という知性が自律の為に反射させる座標のことです。その座標の光を目指していく先に大和の国体原理があるのです。
そこに橿原という宮を作ります。『か』とは根源のちから、『し』は鎮まる、『は』は展開と境界線の音(葉、羽、刃、歯、花、端)であり八の父韻、『ら』は羅(ら)で並ぶ、つまり根源の力が鎮座する八父韻が秩序を以て展開し並んだ『八咫鏡』だったというのが大筋です。

精神文明から物質文明への転換の出発点としてこの自覚の光アマテラスを日本人の精神の深い場所に沈める作業が欠史八代(第二代〜第九代)と言う数百年かけて行われ、第十代崇神から物質文明が開花します。因みに第九代は開化天皇と言う漢風諡号が冠されています。
『日本書紀』で崇神は宮中にいた天照大御神を豊鍬入姫命に託して、大和の笠縫邑にお祀りしたとされます(同床共殿廃止)。そして最終的に鎮座したのが伊勢神宮、五十鈴宮です。
実は、古事記にも日本書紀にも八咫鏡とは一言も書かれていませんが、天孫降臨の文脈から八咫鏡と解釈されています。ここで天皇が自らのアマテラスを自覚出来なくなった事を意味します。天津太祝詞音図の配列が分からないので道徳政治が出来ないと言うことなのです。
今は荒ぶる素戔嗚尊の支配する『天津金木』の運用世界で天岩戸(五十葉音)が閉じられている像法末法の世なのです。我々日本人1人1人が海原の渦に飲み込まれ客体に踊らせられないよう心に目を向けて(天宇受賣:アメノウズメ)、自らの手でアマテラスを引きずり出し(天手力男:アメノタヂカラヲ)、アマテラスを起動させる八律を操作し(八意思金:ヤゴコロオモヒカネ:神音)、弥勒の世を再興させる時に来ています。
『天津太祝詞音図』の復活は『大祓祝詞(おおはらへのりと)』の中に経綸として予定されていることでもあります。
高天原(たかまのはら)に神(かむ)留(づ)まり坐(ま)す、皇親(すめらがむつ)神漏岐(かむろぎ)神漏美(かむろみ)の命(みこと)を以(もち)て、八百万(やほよろづ)の神等(かみたち)を神集(かむつど)へに集(つど)へ賜(たま)ひて、神議(かむはか)りに議(はか)り賜(たま)ひて、我(あ)が皇孫命(すめみまのみこと)は、豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みづほ)の国(くに)を、安国(やすくに)と平(たひら)けく知食(しろしめ)せと事依(ことよ)さし奉(まつ)りき・・・
現在祝詞は神社神道の神に仕える神職が神様に向かって(身分の下から上に)発する形式になっています。中でも大祓祝詞は最も有名な祝詞で、物心ついた時から筆者の母が今でも神棚に向かって毎日唱えているので、神職でもないのに頭に入っており、筆者にとっても身近なものです。
実は『大祓祝詞』には序文があります。この祝詞は、今でいう法律の施行規則に当たる『延喜式』の中に収録されているものを都合よく抜き出したもので、それを仏教形式で唱えているのです。
本来、『大祓祝詞』は天皇を背にした大中臣(おほなかとみ:総理大臣)が文武百官を前にして「天皇の御言はこのようなものですよ」と向かって述べる宣言で、大祓祝詞とは命令(勅令)なのです。
六月晦大祓(みなつきつごもりおおはらひ)
集待(うこなはれる)親王(みこたち)諸王(おほきみ)諸臣(まえつきみ)百官人等(もものつかさびとたち)聞召止宣(きこしめせとのる)天皇(すめらみことが)朝廷爾(みかどに)仕奉留(つかえまつる)比禮挂伴男(ひれかくるとものを)手襁挂伴男(たすきかくるとものを)靫負伴男(ゆきおふとものを)剱佩伴男(たちはくとものを)伴男能(とものをの)八十伴男始氐(やそとものをはじめて)官官爾(つかさつかさに)仕奉留人等乃(たてまつるひとたちの)過犯家牟雑雑罪乎(あやまりをかしけむくさぐさのつみを)今年六月晦之(ことしのみなつきのつごもりの)大祓爾祓給比(おおはらへにはらひたまひ)清給事乎(きよめたまふことを)諸聞食止宣(もろもろきこしめせとのる)
高天原神留坐(たかまのはらにかむづまります)皇親神漏岐神漏美命以(すめらがむつかむろぎかむろみのみこともち)・・・
ここに『宣』という字が書かれていますね。これは上位から下位に向かってしか使われません。神職が神様に向かって発言する言葉ではないのです。神を信じて奏上しているとしたら不敬極まりないことです。
「此処にお集まりになった親王初め皇族方、お役所の方々、お聞きください」と書かれていることからも明らかで、本来は天津日嗣天皇の百官に対する詔(ミコト乗り)なのです。乗るのは必ず上から下です。
当てられた漢字を見てください。律・法・則・規・範・典すべて『のり』です。律法・法則・規範・典範とは何なのか?それが、ロゴスであって父韻なのです。アマテラスを起動させる中今の、生命の、ミコトの実体です。
神話は心の働きのメタファーなので、大祓祝詞に書かれている神話の内容は心を取り扱っており、中盤には心を見なおせと書かれていることが分かります。
天津金木乎(あまつかなぎを)本打切(もとうちきり)末打斷氐(すゑうちたち)千座置座爾置足波志氐(ちくらおきくらにおきたらはして) 天津菅曾本刈斷乎(あまつすがそをもとかりたち)末刈切氐(すゑかりきりて)八針爾取辟氐(やつはりにとりさひて)天津祝詞乃(あまつのりとの)太祝詞事乎宣禮(ふとのりこごとをのれ)
『天津金木音図』の母音(本)と半母音(末)を音図から外し(打切、打断)、父の組まれた内容(並び)を道足りるように置き変えて(父=道組並置き組並置き足らはして:ちくらおきくらおきたらはして)、さらに『天津菅麻音図』の母音(本)と半母音(末)を音図から外し、(刈断、刈切)残った八つの列をバラバラにして(八針爾取辟氐)、『天津祝詞音図』の配列に律法測規範典宣直せ、と言っているのです。
精神文明から物質文明を経て第三文明への道が見えてきたはずです。
【結び】
我々は今、客観という名のノイズ(実体のない現象)を実在と錯覚し、外側の太陽(日向)や物質文明に翻弄されて根を張る「トミノナガスネヒコ(客体の迷妄)」の極限に生きています。100年にも満たない個人の生涯という狭い時間軸に閉じ込められ、心が枯渇し、悩む現代人の姿とは、天岩戸が閉じられ、アマテラス(内なる主体知性)を見失った「天津金木(物質運用世界)」の末法の結末に他なりません。
しかし、立ち止まって自らの内面に目を向ける時、救済のヒビキはすでにあなたの肉体と、日々発する「日本語の50音」の中に生を受けた瞬間から搭載済みです。
大祓祝詞の経綸が告げる通り、荒ぶる天津金木の配列を解体し、心の奥底に隠された『天津太祝詞音図』を自らの生命に宣り直さなければいけません。
自らの心を照らす霊のヒビキに目覚める時、閉ざされた天岩戸は内側から押し開かれ、一万年の精神文明と物質文明が統合された「弥勒の世(第三文明)」の幕が、一人ひとりの内奥から厳かに上がるのです。
【言霊学連載10/10へのリンク】
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