逆さに置いてあった、弁当箱。
うちの子が通う中学校には給食がない。だから毎朝、お弁当を作る。
運動部に入っている息子が満足するのは、キャラ弁でもなんでもなくて、お肉ドーン、卵焼きドーン。うどんに、焼きそば..屋台かよ、って自分でもツッコミたくなる味気ないと言えば味気ない、茶色いお弁当。
そしてそのお弁当箱を、私は洗わない。
「自分で汚したものは、自分で洗う」が我が家のルール。
あっという間に中学生になっちゃった。ここまでいろいろあったし、正直、何をやっても悔いは残る。かと言って何もしてこなかったわけでもないんだけどな、って、最近よく振り返る。
一番こじれたのは、中学受験だった。
夫は私より年上で、学歴社会をがっつり生き抜いてきた人。高校の頃にめちゃくちゃ頑張って勉強していい大学に行った、というタイプ。それを息子にも重ねたかったんだと思う。
努力すればなんとかなる、努力しない人間はハジかれる。そういう価値観に、私も気づけば乗っかっていた。
「船頭は二人いらない」と都合よく解釈して、あるとき任せてしまった。そのほうが揉めずにラクだったんだと思う。。
でも息子は、そもそも一人っ子でのんびりしたタイプ。自分の意思でガツガツ勉強する子じゃなかった。途中までやってこれは向いていないな、と感じた私たち夫婦は、まさに受験目前でチャレンジせずに入れそうな私立中学に通わせることを決めた。
そんなこんなで中学入学、その頃から、息子は少し扱いにくくなってきた。当然だよね、ペットじゃないんだから。彼なりに「こうしたい」が育ち始めていたんだと思う。
小学生の頃の素直さが消えて、親の管理下から外れることでもあって、私はどう接していいかわからなくなった。
中1の一学期、二学期。ずっとゲーム。
期末も中間も、思うような結果は出ない。
(→もちろん親の思うような、だ)
学校に行きたくないと言い出すこともあった。そのときの私は、本人がどうしたいかより、自分の後悔のほうを見ていた気がする。
中学受験で一緒に頑張ってた周りの子は
もっといい学校に行ったのに、とか。。
ここでいういい学校は偏差値の高い学校という意味・・。
まずいな、と思いながら、どうしていいかわからなかった。というか、息子より私のモヤモヤの問題だったと思う。
そんな気持ちの整理ができたのは、二学期の終わり、個人面談だった。担任の先生は、少し変わったというか、先進的というか。「好きを伸ばそう」みたいなことを言う人で、最初は正直、理想論ばっかりだと思っていた。
具体的に何なのよ、理想じゃ子どもは育たないよ、って。
でも中1の最後の面談で、こう言われた。
「今の子って、理科の実験でビーカーやシャーレを洗わせても、逆さに置くことを知らないんですよね。勉強ができるとか、漢字をたくさん知っているとか、英検をとるとかも大切ですが、それより、お皿を逆さにする、片付ける、そっちのほうが大事な気がするんです。息子さんは、それができていました」
他に褒めるところがなかったのかもしれない。でも、
「当たり前を当たり前にできるって、実はすごいことなんですよ」
と言われて、私は自分の中の基準が、いつのまにかどれだけ狭くなっていたかに気づかされた。いい学校、いい大学….
自分が生きてきた何十年かのものさし、いや、自分はわりかし自由にさせてもらってきてたのに、なぜか世の中の周りのものさしに知らず知らずのうちに息子に当てはめていた。
今、彼は絶賛思春期。学校のことなんて全然話さない。靴下は脱ぎっぱなし、部活の荷物はそのへんに置きっぱなし。でも、
空になったお弁当箱だけは、ちゃんと綺麗になって戻ってくる。
それを見て、信じるって我慢と忍耐なんだな、と思う。あれこれ言いたくなるのを、ぐっと我慢する。
朝は起きろ、夜は寝ろ、宿題はやったのか、とかとか、本当は毎日言いたい。でもそれをグーっと飲み込んで放っておくことでしか育たないものがあるんだろうなと、今は思っている。
正解なんて、もはやわからない。
これからは、もっとわからなくなる。それでも、毎朝空になって戻ってくる弁当箱を見ながら、今日も少しだけ、我慢と忍耐の練習をしています。
子どもとの距離感に迷ったり、つい口を挟みたくなった日の記録です↓
同じ日常でも、見ている角度を変えてみると少しだけ心が軽くなる話↓
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