見出し画像

おつかれさま。 #誰? #きのころチャレンジ

朝、目が覚めると、
隣で知らない女が電話をしていた。
私のスマホで。
私の声で。

叫んでも声は出なかった。
鏡の中の私は眠っている。

女が一瞬だけ私に顔を向けた。
そして、私の声で電話の相手に告げる。

「起きました」

女は慣れた手つきで通話を切ると、ベッドから出て、カーテンを開けた。朝の光が部屋に差し込む。女はまぶしそうに少し目を細めて、それから小さく伸びをした。

私の部屋だ。私のベッドで、私のパジャマを着て、私の朝を始めている。なのに私は声も出せず、身体も動かせず、ただ見ていることしかできない。

怖い。ここはどこだ。あの女は誰だ。

女はキッチンに立ち、コーヒーを淹れた。冷蔵庫から卵を出し、フライパンを温める。夫が起きてきて「おはよう」と言う。女は「おはよう」と返す。私の声で。夫は何も気づかない。

いつもの朝だ。

——いつもの朝が、私なしで回っている。

女は朝食を食べながら夫と今日の予定を確認し、食器を片づけ、洗面台で顔を洗い、化粧を始めた。手際がいい。迷いがない。この家で何年も暮らしてきた人間の動きだった。

おかしい。

私のほうが、この家のことを思い出せない。洗剤はどこにあったか。リモコンはどの引き出しか。夫は朝、コーヒーに砂糖を入れるんだったか、入れないんだったか。

私の記憶にあるのは——

締め切りに追われた夜。眠れなかった明け方。声を殺して泣いたトイレの床の冷たさ。朝が来るのが怖くて、布団から出られなかったこと。限界だった。いつも限界だった、一ヶ月間のこと。

それだけだ。

楽しかった記憶が、ひとつもない。

女がクローゼットを開けて服を選んでいる。迷わず手に取ったのは、見覚えのないブラウスだった。いつ買ったんだろう。よく似合っている。

ああ——そうか。

この人は、私がうずくまっていた間も、ちゃんと生きていたのだ。服を選び、ごはんを食べ、夫と笑い、仕事をして、夜には眠った。私がうずくまっている間も、この身体はちゃんと朝を迎え続けていた。

泣くことしかできなかった私と、それでも立ち上がり続けた彼女。

同じ身体の中で、私たちはずっと背中合わせだった。

でも、もう必要ないのだ。

彼女は強くなった。一人で朝を迎えられる。一人でコーヒーを淹れられる。一人で笑える。私がいなくても——いや、私がいないほうが、きっと軽い。

ダイニングテーブルの上に、スマホが伏せてある。画面が薄く光っていた。

発信履歴。一番上に表示された名前は、心療内科の名前だった。

——起きました。

あれは、そういう意味だったのだ。今朝もちゃんと起きられました。大丈夫です。もう、起き上がれなかったあの頃とは違います。

あの頃。布団の中で泣くことしかできなかったあの頃。

あれは、私だ。

私はあの頃だ。彼女がいちばん暗かった場所で生まれて、泣いて、震えて、壊れないように抱えていた——その部分。

彼女はもう大丈夫になった。毎朝ちゃんと起きて、主治医にそう伝えられるくらいに。

だから私は、もういらない。

鏡の前で、女が前髪を整えている。一瞬、目が合った気がした。でもそれは気のせいだ。女は自分の顔を見ているだけだ。鏡の奥の、目を閉じかけた影になど、気づいていない。

玄関でパンプスを履く。バッグを肩にかける。ドアノブに手をかけて——

女が振り返った。

誰もいないリビングに向かって、小さく呟いた。

「おつかれさま」

ドアが閉まる。鍵が回る音。遠ざかるヒールの音。

静かになった部屋で、鏡の中の私は目を閉じた。

ちゃんと、聞こえたよ。


きのころさんの「きのころチャレンジ」に挑戦させていただきました!

これとつながっているかもしれないし、つながっていないかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!