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第20回『瀬戸内寂聴文学全集』と齋藤十一さんとの再会 瀬戸内寂聴追憶⑫

 瀬戸内源氏ブームのおかげで、新潮社内の瀬戸内さんへの風向きが変わった。大きかったのは、小説新潮編集部で若い頃から瀬戸内さんを担当してきた横山正治さんが、小説新潮編集長を経て、SINRA創刊編集長から出版部の部長に異動してきたことで、出版部のトップが瀬戸内さんと懇意な横山さんになったこともあって、なんと、僕が抱えていた短編全集の企画が本格的な『瀬戸内寂聴文学全集』に格上げになったのだ!

 全6巻で構成する予定の短編全集と、おそらく全20巻前後にはなるだろう個人全集とでは内容規模ともに根本的に変わる。新潮社としての取り組みも比べものにならないぐらい大掛かりになる。
 96年から97年にかけて、僕は雑誌『nicola』創刊準備などと重なり記憶がごっちゃになっていて、いつどのように決定したのかその経緯をよく覚えていないのだが、とにかくどの時点だったか、寂庵で瀬戸内さんと二人のとき、個人全集決定をものすごく喜んでくれた。「本当に嬉しい、ありがとう」と言った瀬戸内さんの表情、満面の笑み?をありありと思い出す。

 当時はまだ文芸出版の老舗である新潮社から個人全集が出版されることが、作家の最後の勲章だった時代である。そう思う人も今はいないだろうけれど。

 このとき、瀬戸内さんはさらに「新潮社で、齋藤十一さんと宮本さんが、私の恩人」とまで言ってくれたのである。もちろん、齋藤さんとは比ぶべくもない。歴代の担当者にも申し訳ないのだが、冷ややかな関係になっていた瀬戸内さんと新潮社が、短編全集の企画をきっかけに関係が改善し、個人全集の刊行まで決まったということで、僕の役割を多としてくれたのだろう。この言葉を聞いたとき、あの最初に挨拶に行ったときの距離を置かれた対応や、大遅刻してライバル社の編集者の前で大恥をかいたときの悔しさから、よくぞここまで来られたと、正直に感激してグッときた。

 もちろん、この僕が「恩人」なわけもないし、この瀬戸内さんの言葉を自分で紹介するのはとても気が引けるので、今まで語ったことはないのだが、ただ僕の母が、実は何度か瀬戸内さんの講演を聞きに行っており、また友人と京都旅行に行くというときに寂庵の瀬戸内さんの法話の会に参加したいというので、本来は抽選なのだが担当者特権の役得で席を取ってもらったことがある。最近になってそのときの話を聞いたのだが、法話が始まる前に瀬戸内さんに別室に呼ばれたそうで、そのときも「宮本さんは私の恩人なのよ」と言ってくれたのだという。母も呑気なので、今ごろになって思い出したように言うのだが、そのときは瀬戸内さんの言葉に驚いてひたすら恐縮したそうだ。それからこれまた最近、長年秘書を務めた長尾玲子さんからも、瀬戸内さんがそう言っていたよと伺ったので、決して僕が勝手に盛った話ではないのです、一応、念のため。

 ただし、「恩人」とまで言われて、ここまで書いてきて、今さらとても言いにくいのだが、実は担当編集者として、僕は瀬戸内さんの本を一冊も出していないのである! なんと! 本当に申し訳ない気持ちです。

 94年に担当になって、その頃の瀬戸内さんは源氏物語にかかりきり、とても新たな小説を書き下ろすような余裕もなく、僕も95年からは短編全集の準備に終始し、他には、やはり僕が担当していた萩原葉子さんとの対談を対談集用に行ったぐらい。そして一方で進めていた雑誌『nicola』がいよいよ創刊になるということで、97年1月に新設の「ビジュアル編集室」の室長として異動したので、結局一冊も瀬戸内さんの本を世に出すことが出来なかったのである。
 対談集の「生きた書いた愛した 対談・日本文学よもやま話」は後任の佐藤和弘さんが97年に立派な本にしてくれました。

 結局、僕が瀬戸内さんの担当編集者だった3年間、ずいぶん多くの時間を瀬戸内さんと持った感じがあるのだけれど、仕事としては短編小説271編を読んで選集の下準備をしただけ。それも『瀬戸内寂聴文学全集』に取り込まれて、そちらは佐藤和弘さんが後に異動したので、出版部の文芸の責任者になった冨沢暁子さん(旧姓斎藤)と直接の担当者となった桜井京子さんによって引き継がれ、さらにその後の瀬戸内さんの最晩年の代表作がいくつも新潮社から出すことができたのである。
 まあ僕の果たした役割は、瀬戸内さんと新潮社の雰囲気を変えた? せいぜい種まきをした?ということだったように思います。
 ただ『瀬戸内寂聴文学全集』刊行が決まったこともあって、各編集部や営業、宣伝部署に新しく瀬戸内さんの担当者たちが生まれ、だんだん瀬戸内チームのような感じになっていったし、僕自身、出版部から離れたあともそのチームの一員としてのお付き合いは続いていくのですが、その前に担当者として最後の仕掛けを、96年の11月に瀬戸内さんに対して行った。

 それは帝国ホテルで行われる新潮社の「創立100年記念祝賀パーティ」に出席してもらうことだった。瀬戸内さんは、毎年ホテルオークラで開催される新潮社の文学賞などの「受賞記念パーティ」はいつも欠席していたし、自分が選考委員を務めた文学賞のパーティ以外には出ないことにしていたのだと思う。売れっ子作家が多数出席するパーティでの作家の立ち居振る舞いというのは、傍から見ていても、なかなか面倒というか、難しいものがあるから、煩わしいとしていたのかもしれないし、まして「創立100年記念祝賀パーティ」は特に大々的に準備されていたし、出版社で創立100年というのはまだほとんどなかったから、出席する作家も大勢になる。ただ聞いたわけではないけれど、瀬戸内さんは新潮社のパーティにはあえて出ないとしていたのかもしれない。

 ともあれ僕は、この祝賀パーティにだけは出席して欲しいと強くお願いした。源氏物語で一躍時の人となり、個人文学全集が決まった直後のことだったので、瀬戸内さんもご機嫌だったし、すぐに出席の快諾を得たのである。
 僕の狙いは、何十年も会うことのなかった齋藤十一さんと会ってもらうことだった。

 齋藤さん自身、自社のパーティには唯一出るけれど、限られた人としか付き合わない基本スタンスで表には出ない。孤高の権力者は、知る人にとってはあまりに恐れ多く、パーティ会場でも誰も近寄れない雰囲気で、さっさと帰ってしまうのが常なのだ。
 齋藤さんが作家たちからどれだけ畏怖と尊敬の念で見られていたか、下っ端の編集部員ながら垣間見たことがある。
 まだ『芸術新潮』編集部にいたとき、新潮社の「日本芸術大賞」という芸新編集部が担う大きな賞があり、その選考委員は、美術の賞であるにもかかわらず、なぜか当初から川端康成氏や小林秀雄氏、井上靖氏など文壇の錚々たる大御所が歴代務めてきており、確かに美術にも深い知見を持たれている方々ではあったが(土方定一氏や山田智三郎氏などの美術関係者も選考委員だったが)、それは齋藤さんが社内的には『芸術新潮』の担当役員だったからなのだと思う。
 その選考会の当日は、他の各文学賞の選考会も同時に行われ、会場のホテルオークラには選考終了後に選考委員たちを慰労する場が用意されていた。     各文学賞の選考を終えた有名作家が綺羅星のごとくいるなかで、齋藤さんは「日本芸術大賞」関係のテーブルにパイプをくゆらせながら悠然と座っており、僕も芸新在籍の最後の頃、担当者の一人として末席にいたのだが、周囲の作家たちが齋藤さんを意識しているのがビンビン伝わってくるのだ。
 太宰治の頃から作家に注文を付け、平気で原稿を没にし、純文学の売れない作家だった柴田錬三郎氏や五味康介氏、立原正秋氏などを大流行作家に転身させて「純文学作家を転ばせるのが趣味」などと言われ、一方で辛口で忖度なくスキャンダルを暴く『週刊新潮』の記事とタイトルを全て決め続けてきた伝説の大編集者。
 滅多にその姿をみることのできない齋藤さんが、作家たちの身近にいるほとんど唯一の場なのである。

 そのとき、ある有名作家が先に会場を引き上げるのだろう、見るからに恐る恐る齋藤さんの座っているテーブルに歩み寄ってきて挨拶をしようとした。その作家は文壇的には齋藤さんが贔屓にしていると思われていた人なので、会場の全ての目が注視しているのが感じられた。齋藤さんはおもむろに「あなたのものはいつもみています」と一言だけ。その作家の方はその一言に大感激してホットしたように喜んで帰られていったのだが、僕はその作家が最近は面白いものを書いていないと感じていたので、齋藤さんはそれでも読んでいるんだ、と思ったその直後、斎藤さんが「あれは誰だったかな」とボソッと漏らしたのである。周囲には聞こえなかったが、芸新の山川みどり編集長も慌てて「○○さんですよ」と小声で伝えたのだが、齋藤さんは「ああ、そうかい」と言うだけでまたパイプをくゆらせるのだった。
 僕はすげえシーンを見てしまったなと思ったものである。つまり世間的には齋藤さんによって売れっ子作家になったと思われている作家にもかかわらず、齋藤さんが今では歯牙にもかけていないということなのである。それを平気で見せつけるのだ。
 僕にとって齋藤さんは入社以来ずっと雲の上の存在だったが、その恐ろしさというか、怖さ、偉大さというかある種の化け物的な存在感については、その後も折々感じたことがあるので、それはまた回想記のなかで触れることにするけれど、要は新潮社が出版社のなかで特別な地位にあった時代、齋藤さんの存在抜きにしては語れないと思うのだ。

 瀬戸内さんにとっても、齋藤さんは特別な存在であったことは前にも触れてきた。瀬戸内さんが必ずしも優遇されていない新潮社で、その代表作になるような作品を出してきたのは齋藤さんがいたからこそであったと思う。しかも決して会うこともなく、会おうともせず、あくまで作品を通してのみ斎藤さんに対してきたその姿勢は、僕はとてもすがすがしく思う。
 だから、おそらくもう会う機会はないだろうという最後に、会ってもらいたかった。

 96年の11月5日、帝国ホテルに瀬戸内さんが来られて、僕がアテンドしてパーティ会場内にお連れした。実は瀬戸内さんに齋藤さんに会ってくださいというようなことを事前にはまったく言っていなかったのだが、瀬戸内さんも分かっていたのだと思う。「あちらに齋藤さんがいますから」と会場の奥の方にいた齋藤さんの元へお連れした。瀬戸内さんもちょっと緊張している感じだったけれど、僕はお連れしてすぐに二人から離れて様子を伺うような感じで見ていて、そうそう、慌てて写真を撮っておかなければと、カメラを向けて「写真をお願いします」と声をかけたのだが、僕の方がよっぽど緊張していたようで上手く撮れなかった。 

瀬戸内さんと齋藤十一さんの何十年ぶりかの再会。新潮社創立100年祝賀記念パーティ 帝国ホテルで。僕の方が緊張しちゃってちゃんと撮影できませんでした!

 瀬戸内さんと斎藤さんはすぐに打ち解けたようでしばらく歓談していたが、話を終えてホットしたような様子で僕らの方に戻ってきた瀬戸内さんに「どうでした?」と聞くと、「斎藤さんがね、あんたは本当によく頑張ったね、おめでとう、と言ってくれたのよ」ととても嬉しそうに言ったけれど、いつもと違って無口だった。きっと僕には想像できないぐらいいろいろな想いが甦っていたのだと思う。

 ようやく果たしたデビュー直後に「花芯」を発表して悪評を書かれ、悔しさのあまり齋藤さんのもとに「反論を書かせてほしい」と乗り込んで一喝されたこと。同棲していた小田仁二郎氏が齋藤さんに呼ばれて『週刊新潮』に連載しろと言われ、我がことのように喜んだがせっかくのチャンスも小田氏はその後も鳴かず飛ばずだった。瀬戸内さん自身が「夏の終わり」でやっと文芸誌に復帰し、齋藤さんに呼ばれていきなり『週刊新潮』にすぐ連載しろと言われて「女徳」をむりやり書いて成功したこと。

 ともあれ、何十年ぶりかで齋藤さんと話す機会を作れたことが、僕自身、瀬戸内さんが僕に対して良くしてくれたことへの恩返しが少し出来たような気がした。
2001年1月、齋藤十一さんの建長寺で営まれた葬儀の際、瀬戸内さんが弔辞を読んだ。


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