第18回 短編全集の選定の迷い 瀬戸内寂聴追憶⑩
いま振り返ってみて、2月と3月に瀬戸内さんのマンションの仕事場に籠って短編小説を読み込む作業をちゃんとやれたのだろうかと思うのだが、個々の作品ごとのメモ――主人公や登場人物、テーマ、筋書き、特徴というか、僕が記憶を呼び起こすために必要な要素を書き留めたものはなくしてしまったけれど、当時使っていた271編の作品リストには全てにチェックがされているのを見ると、全部読んだのだろう。えらい!
こういう作業は編集者の基本中の基本で、長年一人の作家を担当している場合などは、全作品を読んでいる編集者はいくらでもいると思う。ただ僕のような途中から、膨大な作品数を誇る作家のものとなると時間的にも難しいし、あるジャンルやテーマの作品を全部読むというのは、やはりそうあることではないと思うのだ。
ちなみに、この前年の1995年10月に刊行した「矢沢永吉写真集 19490914 THE LIFE OF EIKICHI YAZAWA」は506ページ、当時、写真集としては破格のページ数のもので、ソロデビュー20周年の記念写真集。1年余りに及ぶ編集作業で矢沢さんのデビューから全ての雑誌記事、インタビュー記事や言葉、メッセージを全部集めて、そこから写真集に使う言葉を選ぶということをやった。A3サイズのコピー用紙で40~50㎝ぐらいの厚みになった束をいつも抱えて、これもひたすら読んでセレクトする作業。
僕の編集者人生で、作家やアーティストの全作品、全発言を集中的に読んで選ぶという作業は、後にも先にも、この矢沢永吉さんと瀬戸内さんの二人だけで、それを95年~96年に行なっていたわけで、今から考えても特別な体験だった。
ロックミュージシャンの矢沢永吉さんと、瀬戸内寂聴さんの人生をほぼ同時期に辿っていたわけです。考えてみると不思議な取り合わせで、僕の一貫していない編集者人生の象徴的な仕事だったと改めて思います。
矢沢写真集のちょっと特異な体験はまた稿を改めて書きます。

さて、瀬戸内さんの短編全集にどの作品を選ぶか、最終的にはもちろん瀬戸内さん自身が選定するのだけれど、純文学作品中心が基本方針。となれば、「夏の終わり」から「黄金の鋲」にいたる私小説的作品群が中心となる。それは問題ないし、271編のうち、中間小説誌(純文学と大衆小説の中間的な小説をメインとする文芸誌で、『小説新潮』『オール読物』『小説現代』などがその代表誌)や婦人雑誌、一般雑誌などに書き飛ばした作品もかなりあって、それらは省くのに躊躇しないのだが、そういうエンターテイメント性を持った作品のなかにも、残したくなるような佳品はあって、迷うのだ。
というのも、僕が文芸の素人ということもあるのだが、やはり「分かりやすさ」や「面白さ」という基準から離れられず、純文学度の高い、言ってみれば難解な作品ばかりになるのが、果たしてどうなのだろうという気がしていたのである。もっと言えば、そういうエンタメ性のある小説にこそ、瀬戸内さんの小説家としての上手さが現れていることが多々あるのだ。そういう作品を残すかどうかは全集の性格を変えるかもしれない。
実際に瀬戸内さん自身「純文学コンプレックスをいつからか持ちはじめていた私は、文芸誌に書くというだけで、妙に肩肘張った姿勢をとってしまう。それが中間小説だと思ってペンをとると、不思議にのびのびとして、魂まで解放されるようで、ペンがすべり出すのだった。イメージが次々と拡がり、話の筋が面白いようにのびてゆく。中間小説は読者に喜ばれるか失望されるだけで、批評家の批評の対象にはならない」(「私解説」)と書いている。
作品選定で瀬戸内さんと相談したなかで、はっきり記憶に残っているのは、瀬戸内さんが出家得度する前、1969年(昭和44)47歳の頃から数年にかけて書いた作品群についてだ。
その頃の瀬戸内さんは、流行作家として数年先まで連載予定が詰まっているという状態だったが、作家・井上光晴氏との出会いから大きな影響を受け、中間小説の仕事を整理して「純文学というものだけを書きたいと思いはじめた」(「私解説」)時期にあたる。『新潮』や『文学界』、『群像』、『文藝』というような純文学文芸誌への執筆だ。
作品としては「蘭を焼く」や「吊り橋のある駅」などの一連の作品群であり、それまでの実人生に起こった男女の問題をテーマに描いた私小説的な視点から離れて、男と女の心象風景をモチーフとした作品群といっていいだろうか。瀬戸内文学の変化を感じさせ、深化した作品群と言える。
こういう作品は、読み手の純文学志向と文学観によって、より高い評価を受けやすい。まあプロ受けする作品ということだ。当然、この短編全集のもう一つの核となる作品群であるから、もちろん僕も選んでいたのだが、当初、僕はこれらの作品についてはかなり絞り込んだ選定にしていた。というのは、短編全集全体が瀬戸内さんの人生を俯瞰できるものにしなければと思っていたので、純文学度のもっとも高い作品群のイメージが強くなりすぎないようにしていたきらいがある。そこに瀬戸内さんははっきりと不満を述べられた。
「私のなかの、いいものだから」と言った声を今も覚えている。
この一連の作品群が瀬戸内さんにとって、もっとも重要で思い入れが深いということを、その時はっきりと知ったのだ。それは井上光晴氏とのことが関係している。
僕が「この作品は井上光晴さんとのことですよね?」と確認したことがある。関係者の間では、瀬戸内さんと井上さんの関係は知られていたので、つまり下積み時代に半同棲していた作家・小田仁二郎氏、夫の教え子で出奔の相手であった「涼太」こと小川文明氏に続く、第三の男が井上さんなのであるが、小説には、知る人が読めば明らかに井上さんだと分かるように書いているにも関わらず、その頃の瀬戸内さんは表向きには井上さんとの関係を認めないのだった。あくまで友人であり、作家としての同志であるという姿勢。
僕も忖度することなくズバリと聞いたのだが、瀬戸内さんは急に言葉に詰まって、もじもじしながら、答えない。絶対に井上さんのことだとは認めない。今でもそのときの瀬戸内さんの表情を想い出すが、困ったような、ちょっと赤面して、まるで可愛い女の子のようになってしまうので、僕もそれ以上は追及できなくなったのだが。
当時はまだ井上さんの娘である井上荒野氏が二人のことを書いた『あちらにいる鬼』が出るずっと前のことだったから、井上さんの家族に対して慮ったからなのだと思うが、だったらあからさまに井上さんだと分かるように書かなければいいのに、そこは堂々と書く。そういうところに、世間に見せている顔とは次元の違う、書斎に独りでいるときの作家という生き物の本質が想像できる気がした。
また、こんなこともあった。瀬戸内さんと二人での雑談のなかで、これは短編全集のことではなく、僕が「瀬戸内文学は、将来、近代の女性活動家たちを描いた伝記的な作品群が文学史に残ると思うんですよね」と、まあ大胆なことを言ったところ、とっても不満そうな表情をされ、「ワタシは小説が残って欲しいわよ」と言われた。
確かに、小説家としては当然である。
だが、第一回田村俊子賞を受賞した『田村俊子』、岡本かの子を描いた『かの子繚乱』、大杉栄と伊藤野枝の『美は乱調にあり』、大逆事件で死刑になった管野スガの『遠い声』など、女性の生き方が制約されていた時代にあって、強い意志を持ち、時代と戦い、あるいは女を貫き通した魅力的な女性たちを発掘し再評価した伝記小説群は、近代女性史の先駆的な業績だと思うのだ。瀬戸内さんの伝記小説群で初めてその存在が世に広められ、その後の女性史研究者の仕事につながっていった例はたくさんあるように思う。
実際、瀬戸内さんは、伝記小説における取材、資料集めに膨大な労力を費やしてきた。「費用を出版社に出してもらったことはないわよ」と豪語していたし、僕がお付き合していた時期でも、次の小説のための取材に「誰々の話を聞きに行ってきた」ということはよくあり、言ってくれれば同行したのにと思ったことが何度かある。編集者をまったく当てにせず、自腹で、身軽に一人で取材に行くのである。聞きにくいことも瀬戸内さんの絶妙な切り込み方で、貴重な話を引き出してしまう。そういう場に、他者がいるのは邪魔だったのだろう。
そうやって成された伝記小説群は、すでに物故した関係者の生前の貴重な証言や二度と手に入らないような資料などによって生まれたもので、その点からも、とても重要なものとして残っていくだろうと思ったのだ。
それにまた僕が「伝記小説が残る」と言ったのには思うことがあった。ちょうど95年にフォト・ミュゼという写真集叢書のシリーズで写真家・石内都さんの『さわる Chromosome XY』を出し、その帯に、「女流写真家が……」と書いたのを、石内さんにこっぴどく批判されたことが関係している。
石内さんに「いまどき、女流写真家なんて言い方、遅れているわよ!古い!」と一喝され、それまで考えもなく「女流」という言葉を使っていた僕は、そのとき初めて女性差別を表す表現というものを意識するようになった。瀬戸内さんも「女流」という言葉を嫌っていたというのは後に知るのだけど、すでに1985年に「男女雇用機会均等法」が制定されてから女性の社会進出が進み、今後もますますその動向は強くなると思っていたし、女性の社会進出の近代史を辿れば、必ず瀬戸内さんの作品に出合うのだ。
そういう意味から、瀬戸内文学の大きな柱の一つである女性伝記小説の評価はますます高くなるだろうと思ったからなのだけど……。とはいえ小説家に対して、失礼なことを言ってしまったと、そのときは後悔した。
ところが、一旦は後悔したのだが、2012年に河出書房新社から出た『KAWADE 夢ムック 文藝別冊 瀬戸内寂聴 文学まんだら 晴美から寂聴まで』の秋山駿氏による巻頭インタビューを読んでいたら、「いくら伝記を書いても、小説を書き終わったときの解放感がない。……ところが、最近、ちがうふうに思うようになりました。伝記は解放感がないと思っていたんですが、最近、自分の書いた伝記小説を読み直してみて、『自分の作品のなかでは、やっぱり伝記がいちばんよかったんじゃないかな』と」と瀬戸内さんが答えていたのだ。90歳になったときの感想である。やっぱり!です。
さて1996年、この年の12月には現代語訳『源氏物語』全10巻の刊行が講談社から始まるとあって、その前宣伝からしてちょっとした瀬戸内ブームが生まれつつあった。同時に、短編全集の収録作品の基本的な選定がほぼ出来上がった春頃から、新潮社内でも、瀬戸内さんへの風向きが大きく変わっていくことになる。
