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noteが書けないのは脳のせい!?

なんだかんだで、500記事を超えていた。

こんだけ書いているとやっぱり「よくそんなにかけますね」と言われることがある。

だけども、私に言わせてみれば

考えていること文字起こししてるだけですが!?

なんですわ。

ほんっとにただ考えていることを書いている。
以上。

だからnoteが書けないって人の気持ちが正直わからない。
って考えてるから「わからない」って書いている。って書いている。って書いている。って書いている。…

そして…で終わらせようって考えた。

もう出てきている言葉を書いているだけで私のとっては全くもって難しくないし、教育関係で考えなきゃなんない時も、わたしは昔考えたことを書き出すことももちろんある。けれど、時々noteが考えに追いつく、むしろ追い抜くことすらある。

私のnoteではあるあるなんだけれども、
あとから読んで「あぁ…確かに」って自分の思ってないようなことまで出てきている。

まるで予想できない物語みたいなnoteになっていることが時たまあり、私自身も読み直すと楽しかったりする。

だからほんっとうに、noteが書けないって人の気持ちがわからなかった。


絵で考えるか、言葉で考えるか。

そんな時にこんな動画に出会った。

どうやら考え方には二つあるらしい。

視覚思考者(ビジュアルシンカー)
・・・主に「絵」や「図」といった視覚的なイメージを頭の中で使って物事を考える。情報を処理する際に視覚に関わる脳の回路が活発になる。頭の中にある絵を言葉に「変換」する手間があるため、言語化を求められると時間がかかったり、うまく伝えられなかったりすることがある。

言語思考者
・・・主に「言葉」、すなわち文章や論理といった言語的な概念を直接使って物事を考える。思考する際に、言葉と論理の処理に関わる脳の領域が活発になる。

詳しくは「ビジュアルシンカーの脳」(テンプル・グランディン著)という本で書いてあるので気になったら読んでみてほしい。

私はこれでずっと悩んでた「note書けるか書けないか」がスッキリ腹落ちした。

私はゴリゴリの言語思考者で、もうあらゆる情報を文章や言葉といった言語で処理する。考える時には文章と声が出てくる。

だからnote書いているときはずっと聞こえる声をタイピングしているだけで、全くもって力が必要ない。

「〇〇について書くぞ!!」
って意気込むくらいしかやることがないんだもん。

あとはこれまでに考えてきたことと知識、即興で考えていることを文字起こしするだけ。だから考えながら書いているし、考えている=声が聞こえるんだから文字起こしとなんら変わらない。

私は早いうちからタイピングが得意で頭に追いつくようになってきたから、もう無双状態なんですわ。


だけど、視覚思考者、つまり絵や図、風景などの視覚的なイメージで考える人にとっては本当にnoteは難しいと思う。

だって、書きたいことを文章に起こすのに、一回絵を文章に翻訳する手間がかかる。

これって名画を見て感じるような名もない感情を言語化してるんだからそりゃnoteが難しいと思う。

他の動画でゴリゴリの視覚思考者の方が出てくるんだけれども、その人は雑談が苦手ということを言ってた。

なぜなら雑談ってのは最強の即興で、その場にあるあらゆる情報をもとにして言葉にしなければならない。言語思考者ならnoteを書くように、ただ聞こえてくる声、文章を声にするだけだからなんら問題はないが、視覚思考者だと感じていること=絵みたいなイメージを言葉にして、それを話すから翻訳に時間がかかる。

だから即興で話すのが苦手らしい。

noteが得意かどうかにめちゃくちゃ関わってくる部分だ。


視覚思考者羨ましいぃぃぃ!!!

ただ私、言語思考者からして「視覚思考者ってかわいそう…」って思っている。

わけでもない。

むしろ

羨ましい!!!
とすら思っている。

なぜなら、私には感受性・およびクリエイティビティが低い。

これは言語思考者によくある話かもしれないけど、動画の中で「わかる!!!」って思ったことがある。

それは「美術館で絵か、説明文、どっちが主か」ということ。

私はゴリゴリに説明文で、なんなら説明文じゃ足りないから、事前にその美術展の作家の一生を調べる。

そして 説明文の答え合わせとして絵を見る。

だから、絵を見て「あぁ..なんかちょっとくらい感じがするなぁ」とかが全くない。

だからね美術とかマジで無理。

技術の話しかできないんだもん。
感覚とか感情とか、そこが皆無だからさ。

私の書く絵ってめちゃくちゃグラフで書いてる。

あと学んだ技術。

だから自信作を出した時に絵はいいんだけど心がこもってないって評価された時には「はい…」としか言えなかったもん。


言語思考者はおそらく言葉になっている一方で、曖昧さを捨てている。

もちろん、それを補うために語彙を学ぶが、それでもなお限界はある。

一方アート、つまり視覚思考者の見ている世界は限界がない。

曖昧な表現は曖昧な表現のまま残り続けるし、
曖昧な思考が確定してそのまま思考できる。
それこそがクリエイティビティと呼ばれるような要素だと思う。

言語思考者は、おそらくAIに取って代わられるような人間になると思う。AIは最高の言語思考者で、ビッグデータからランダムな最も正しかろう答えをとって出力しているだけ。

一方、視覚思考者は曖昧な感情もそのまま受け入れ、思考に組み込める。

だからこそAIに出力できないような答えも出せる。

私は言語思考者だからこそ視覚思考者が羨ましい。

けれど、視覚思考者の方からすればこうして言葉が出てくる私は羨ましいのだろう。

つまり、どちらが優位だといいうわけでもない。

言語思考者は、人に伝えることが得意だ。

一方、視覚思考者は伝えることを生み出すのが得意だ。

私たち言語思考者がゴールを一歩ずつ考えている間に、
視覚思考者はゴール思い描いてそこまでの道を思い描く。

つまり、この二つが組み合わさったら最強だ。


言語思考者もクリエイティブに生きたいんだ!!

じゃあどうやれば言語思考者のクリエイティビティを保てるか。

私は圧倒的なインプットに他ならないと思う。

0から生み出すことができないからこそ、
圧倒的なインプット
つまりは肥沃な土壌から優れた成果が生まれる。

そして、少しでもそれが出たら捕まえること。

そして言語にすることで確定させること。

言語化とは、その状態を確定することだ。

例えば、今の感情を言語化して「悲しい気分だ」と言えたらば、私の状態を「悲しい気分の私」と固定できる。

視覚思考者が確定するためには、絵を描くか、見えている絶妙なグラデーションを無理やり切り分けて言語化するしかない。どちらも時間か労力がかかる。

そういう意味で言うと、私たち言語思考者は強い。

だからこそ、言語思考者は圧倒的なアウトプットも兼ね備えた方がいい。

そうじゃなきゃ、言語思考をしている圧倒的なメリットである表現の容易さが失われかねない。

アウトプットはnoteでもいいし、人と話すことでもいい。

動画を見る前から私はアイデアがやってきたらすぐさま言語化してメモに落とし込んでいる。

10月から初めて、今158個のアイデアがある。

面白いのもあるが、もちろん中にはおもんないのもある。

面白いのは多分10個くらいしかない。

もうこれくらいの打率だと思っている。

まぁnoteなりなんなりでどんどんアウトプットしていこう。


特性ってのは脳科学的にもあるんだからさ。

さて、今日は「noteが書けないのは脳のせい!?」と言うタイトルで書いてきました(てか今書いてて思いついた)。

もう3000文字超えてしまってましたが、ぜんっぜん疲れてない。
ほんっとについてきて、最後まで読んでくださりありがとうございます。

こんな言語化マッチョのnoteをねぇほんと。

もう読ませることをハラスメントとして方がいいんじゃねぇか。
読みハラだよ。

note書けないのは意外と、脳の仕組みにあるかもしれないってのをしったら、そんなに無理しなくなるんじゃないかなぁと思います。

もう脳科学的にも個人の特性ってもんはあるんです。

ただそれがに優劣をつけるのではなく、十二分に生かしていきましょう。

以上風山ふみでした。

では、また。

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1.noteは「意識高い系」じゃねぇえぇ!!!
2.切磋琢磨する競争と、片方が研磨剤になる競争。
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4.風山ふみの名刺|リンク集、活動内容


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