介護離職して、10年以上介護をしながら、50歳を超えて臨床心理士になった理由④
母親に急に介護が必要になった。自分自身が心臓の発作を起こし、義母の介護も始まり、母親には入院してもらった。仕事もやめて、介護を続けた。そんな時間の中で、家族介護者への支援について考えるようにもなり、介護を始めて、5年ほどがたち、母親の症状も安定してきて、もしかしたら、自分の未来のことも考えられるかもしれない、と思えてきた。2004年のことだった。
その頃、母親が肝臓ガンになってしまった。
ずっと肝炎だったから、いつかそうなるかも、と言われていたが、まだ先だと思っていた。
自分の未来のことは、あっという間に、どこかへ行ってしまった。
手術をするために、母がずっと入院していた病院から、近くの病院へ転院することになった。
家族と相談して、本人には伝えるのをやめた。手術を担当してくれた医師は、最初は本人に伝えて、闘病してもらいたい、という方針だった。それは、とても正しいことだし、できれば、その意向も尊重したかったが、もしも、それで母が、ショックを受けて、また意志の疎通が出来なくなる事を想像したら、悲しくて、恐くなった。だから、その方針を変えていただけないでしょうか、と手紙も書いた。話し合いもして、なんとか了承してもらった。
大変なのは母親だが、私も、やたらと、疲れていた。
手術をするまでも、そのあとも、予定よりも日数がかかって、しばらく、その近くの病院に、母は、いることになった。そこは、高齢者専門の病院ではないから、どうしても、いろいろなことが、物足りなく思えた。
この病院にも毎日のように通ったが、病室に着くと、母は、横になっていて、そこかしこに、食事の食べ残しみたいなものが、散乱していることもあった。仕方がないのかもしれないが、母は、転院前の病院の名前を大きい声で言って、「早く、〇〇病院に帰りたい」を繰り返した。
どうしたらいいのか、分からなかった。
母の着ていたものなどの洗濯は、その病院のコインランドリーを使った。コンクリートに囲まれた部屋で、やたらと悲しい気持ちになったこともあった。
抗癌剤を、肝臓に注入するという手術は、医師の繊細さのおかげで、想像よりうまくいったらしい。肝臓にダイレクトだから、体の他の部分への影響は少なく、髪の毛が抜けたりすることもなかった。これで、落ち着いてくれれば、年齢も高いから、進行も遅く、思った以上に生きていけるかもしれない、ということも言われた。
予定よりも、大幅に遅れて、元の病院に戻った。
壁一面に、母の気に入った雑誌のページや、写真や、絵などを貼ってある母の病室は、そのままになっていた。元に戻しておいてくれたのかもしれない。病室にあった、日々草の植木鉢は、枯れていなかった。病院のスタッフの方々が、ずっと水をあげてくれていた、と聞いた。すごく嬉しかった。
母を実家に戻し、義母(妻の母親)を施設に預け、今と逆の形にして、妻と私の二人で介護しようと思うこともあった。でも、そうはいっても、母が今いる病院は他の病院や、施設に比べたら、はるかに安心だった。
もし、義母を預けるのであれば、そこまで信頼できるような場所が、今のところ、思い浮かばなかった。だから、もし現在の状態を逆にして、今は、妻と私の2人で介護をしていて、主に身体介護が必要になっている義母が、施設に入ることによって、精神的に症状が悪くなったら、それはそれで後悔するのではないか、とも思った。
2人を同じ家でみることは、家の広さなどを考えても、ほぼ不可能だった。
それに私の母を、妻と二人で実家でみて、義母を施設に入れて、という生活になったとしたら、24時間にわたって、本当に緊張が続くことになるから、おそらく今よりもはるかにキツくなるだろう。そうなったら自分の心臓が持つのだろうか?心臓の薬は飲み続けていたので、そんな自己保身を考えた思いも浮かんだ。
だけど、そういう考えや、思いは、全部、自分自身の言い訳に過ぎないようにも思えた。
片道2時間で1日おきに行っていた病院を、可能な限り毎日行く事にした。医学的根拠はなくても、少しでも楽しい時間が多ければ、もしかしたら、そのことで、少しでも寿命が伸びるかもしれない、などと密かに思っていた。
新しくベッドを買って、部屋の配置をかえて、それで、母と一緒に実家への外泊もした。
旅行へも行った。旅行の時は、母が寝ている部屋を、隣の部屋で、24時間体制でみられるような部屋を、クレジットカードの旅行担当の人に電話をして、探してもらってから、予約した。母は寝る時は、一人がいいと言っていた。夜中のトイレは、さりげなく、補助するようにした。
2006年には箱根に、その翌年には熱海に、母を連れて、私と妻と弟で旅行に行けた。それは私と妻にとっては、さらに疲れが重なることでもあったのだけど、弟も一緒に行ってくれたし、行ってよかった、と思えることだった。部屋に小さな露天風呂がついていて、そこで、妻にも協力してもらって、母も入浴することができた。
病院から、クルマで30分ほどの美術館にも何度か行った。近くの大きな神社には正月のたびに初詣にも行けた。
義母は、その頃、90歳を超えていた。
ただ、長生きする人は、歩けなくなっても、耳が聞こえなくても、命の太さを感じることも多かった。長生きしてほしい、と思いつつ、でも自分の母の事を考えると、素直にそう思えない瞬間も多かった。
何年か前は、義母の方が母親より10歳上だから、義母が亡くなったら、今度は、母親を在宅で介護できたら、などと勝手なプランを立てていたこともあった。
相変わらず、焦りと悲しさと悔しさみたいなものが混じったような、妙な無力感がずっと続く毎日だった。自分の体調もあまりよくなかった。
何ヶ月かにいっぺん、手術をしてもらった病院へ行き、検査をしてもらった。しばらくは、大丈夫だったが、そのうちに、またガンが広がり始めたのが分かった。
そう簡単に奇跡は起こらないものだった。
母は、それからも、精神的には、ほとんどの時間は安定していて、趣味だった俳句を詠んだりできるような日々だった。病室では様々な、私にとっては、初めて聞くような事も話してくれた。
「…小さい頃、プールで泳いでいたら、すぐそばの池から、大きな白い鳥が飛んでいったのよ。天気のいい日でね。他には誰も気がついていなかったと思うのよ…」。
母は、元気な頃は、ときおり、私たちの世代は、終戦が20歳だった。だから、恵まれてなかった、といったことを繰り返していた。だけど、そんなプールでの、子供の頃の話を聞くと、当たり前だけれど、大変なことだけではなかったんだ、とちょっと緩むような気持ちになった。
その前日も病院に行ったのだけど、朝、病院から、電話があった。
「意識がなくなりました」。
あわてて支度をして、出かける。
いつもは、スムーズに閉められていた玄関の門がうまく閉まらなかった。手が震えていたのかもしれない。
病室に着いたら、母は目をあけてこちらを見ていた。酸素を送るビニールのマスクをしていた。声は出せないようだったが、穏やかな顔だった。
「さっきまで意識がなくて」と看護師に言われた。
しばらくしたら、呼吸が荒くなり、そして、母は、息をひきとった。
もう呼びかけられなかった。足をさすって手を握っていた。
自分が思ったよりも大きい声で泣いている声が、誰か別の人の声のようにも聞こえた。
病院のスタッフの方も泣いてくれた。それで、こちらもまた、つられて泣いたりした。
7年の間、この病院では、ずっと母のことを人として扱ってくれたおかげで、最期まで病室の空気も穏やかなままだったと思う。
個室の壁には、一面に、雑誌の花が写ったページや、外出した時の写真や、母が描いた絵や、様々なものが貼られて、ほぼいっぱいになっていた。
ある時、持って行った雑誌を、私が帰ったあと、母が自分で切り取り、翌日に行ったら、壁に貼ってあったことがあった。それからは、私も手伝うようになった。壁には、母の詠んだ俳句もあった。自分で画用紙を細く切り、そこに書いてあった。
「親子して屋上で見る花火かな」。
夏の夜、病院の屋上から花火が見えるので、それを夜、二人で見たことがあった。その翌日には、母が書いて、貼ってあった。
壁の絵や、写真や、雑誌のページは、はがすだけでけっこうな時間がかかった。
2007年の5月。母は81歳で死んだ。
ガンと分かってから、2年もたっていなかった。
もう必要がないのに、しばらく、病院へ通わなきゃ、と思う気持ちが抜けなかった。
母が死んで、後悔ばかりが残っている気はしたが、死んだから、もう母の症状を心配しなくてもよくなった。
そのうちに、自分の頭の左側の少し上にずっとあった、細い針金がからまったような雲が消えているのに気がついた。それは母の介護に関わった8年の間の、気がかりとか心配とか後ろめたさとか、様々なものが固まって、ずっとあったようなものだった。そういえば、ずっと視界が、微妙に暗いような気がしていた。だけど、その雲のようなものは、それが、なくなって、初めて、そこにあったと気がつくようなものでもあった。
しばらくぼんやりしていた。
それでも、介護が必要なのは義母1人になったから、何かしら仕事ができるかもしれない、とも思っていた。
その頃は、介護者の心理的なケアという言葉よりも、心理的なサポートと表現したほうがいいのかも、と思うようになった。家族を亡くした人間にも、適切な心理的な支援が必要かも、と身を持って、思うようになれるのは、もっとあとのことだった。
「介護離職して、10年以上介護をしながら、50歳を超えて臨床心理士になった理由⑤」へ続きます。
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