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絶訪シリーズ|吉野ヶ里遺跡の怨霊に迫る

昨日(2025年5月16日)、佐賀県の吉野ヶ里遺跡を訪れました。吉野ヶ里遺跡は日光を遮るものがない大自然の中にあるので、夏になると大変…その前に見ておきたいものがあったのです。

2025年4月26日から公開開始された、線刻を持つ石棺墓です。

吉野ヶ里遺跡には『謎のエリア』があるのですが(後述します)、そのエリアで見つかった石棺墓がこちら。

石棺墓のレプリカ

実は以前、実物が展示されたと記憶してます。その時は見ることが出来なかったので、レプリカをこの目で確かめようと思ったのです。


石棺墓の特徴

■線刻:
石蓋に刻まれた線刻は、交差した線(「‪✕‬」や「+」)で、この地域特有の儀礼に関連していると考えられています。線刻は石蓋の内側にも確認されており、被葬者の頭の向きと関連している可能性も指摘されています。

石棺墓の線刻

■赤色顔料:
棺の内側には、赤色顔料(ベンガラと水銀朱)が塗られており、被葬者の地位を示す象徴だったと考えられています。棺の底部にも赤色顔料の痕跡が見つかっており、内部全体が朱に塗られていたことが確認されました。

石棺墓内の赤色顔料とみられる痕跡

謎のエリアとは

石棺墓が見つかった場所は、『謎のエリア』と呼ばれてます。もともと日吉神社が建立されていた場所で、発掘ができなかったようです。

謎のエリアの説明文

これは想像ですが、日吉神社を移転することが難しかった理由があったのかな、と。結果的に移転させて発掘調査が進むことになったのですが、日吉神社を守ってきた方々は『何があったのか』を知っていたような気がします。

日吉神社と大山咋神

吉野ヶ里遺跡にある日吉神社は、田手日吉神社と呼ばれてます。主祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)です。

聞き慣れない方もいると思いますが、大山咋神は日吉大社(比叡山)の主祭神です。

日吉大社について少し記載します。

原始的な山神としてのサル(大行事権現)は、日吉大社の最古の祭神とされています。大行事権現は、神名としては大年神と呼ばれ、日枝神社の主祭神・大山咋神の父にあたる神です。

最古の祭神(地主神)である猿神(山神)を信仰の中心から追い出して、新たに大山咋神を信仰の対象としたことに、私は違和感を感じます。過去記事で書きましたが、姫大神を主祭神扱いにしている宇佐神宮のように、隠された意図を感じるのです。


田手日吉神社の怨霊

『追い出した』ということろにフォーカスしますと、大山咋神は、侵略された氏族(原住民)の怨霊鎮魂のために侵略者によって配置された神ではないでしょうか。日吉大社の猿神が、大山咋神の父というのは、後世のこじつけでしょう。

前述の通り、吉野ヶ里遺跡の田手日吉神社は、大山咋神が主祭神です。もともとこのエリアに住んでいた氏族を追い出し(殺戮し)、その場所に日吉神社を建立したのではないでしょうか。その日吉神社が建つ前は、殺戮した氏族の長を埋めて祀っていたのでしょう。日吉神社を護ってきた人々は、元来このことを知っていた気がします。殺戮された氏族の長の怨霊が復活してしまうので、神社の移設などご法度だった。

つまり、『謎のエリア』で見つかった石棺墓は、もともとこのエリアを治めていた氏族の長で、侵略者によって殺されたあと、『‪✕‬』印により怨霊を封じ込めるために石棺で墓に閉じ込めたものだと考えます。ゆえに、墓の材質が甖ではなく石なのです。石なら簡単に割れませんし、怨霊を封じ込めるのに最適だと考えられていたのでしょう。後に、『神』として祀るために氏族を追い出した地には、大山咋神が祀られるようになったのではないでしょうか。

長以外の兵士は、殺されて斬首されました。首のない遺骨が遺ってます。

頭蓋骨のない人骨

侵略者とは、誰だったのでしょう。そして、殺された氏族の長とは、誰だったのでしょう。

侵略者の謎に迫る

侵略者は、秦氏でしょう。もっと正確に言うと神功皇后でしょう。改めて神功皇后の略歴を記載します。

<神功皇后・略歴>

■193年 立后
■200年2月 仲哀天皇崩御(香椎宮)『日本書紀』内の異伝や『天書紀』では熊襲の矢が当たったと言われる。
■200年3月 熊襲征伐、九州北部を平定。ヤマト王権の全国制覇?
■200年10月 三韓征伐(新羅・百済・高句麗)

九州北部エリアを征服したのは、神功皇后でした。

侵略されたのは、史書から分かる範囲で理解するなら熊襲ということになります。ということは、神功皇后が平定した場所は、熊襲の居住地だったことになります。

これも想像になりますが、九州北部は朝鮮半島と繋がる要地であったため、土地の奪い合いがあり群雄割拠だったと予想しています。火国に最初に入ったのが羌姓姬氏で、その後、熊襲との紛争もあったと思います。奪い、奪われた土地です。

神功皇后は、羌姓姬氏と朝鮮半島の秦氏のハイブリッド血統です。打倒熊襲は、悲願だったに違いありません。

恐れられた人物の正体

神功皇后は、殺した氏族の長が死後に怨霊となって災いを及ぼすのを恐れ、石棺墓に封印したのでしょう。それほど強力な一族だったのです。

その一族のひとつは、熊襲です。これは史書に記載があるので可能性としてはもっとも濃厚です。その熊襲を統率していた長は誰だったのでしょうか。これは本当に想像の域を出ないばかりか、現状では手がかりすらありません。

もうひとつは、卑弥呼の一族です。神功皇后は200年に九州北部を平定したと言われてますが、実際にはその時期に九州北部に伊都国があったようです。つまり、平定はされていませんでした。200年に神功皇后が滅ぼした国は奴国のような気がします。伊都国はどのようにして滅びたのでしょうか?

奴国の王は、西暦57年に中国の皇帝である光武帝に使者を送り、正式に「漢委奴国王」の金印を授与されました。この出来事は、古代中国の歴史書『後漢書』に記録されています。奴国は当時、約2万戸の人々が住む有力な国であり、博多湾の良港を利用して中国や朝鮮半島との交易を行っていました。

話を戻しましょう。

神功皇后が恐れた怨霊は、史書から判断すると奴国の王(熊襲?)か、存在が明確な人物から判断すると卑弥呼か、そのどちらかだと思います。または、卑弥呼が熊襲だったか…そこまで行くと誇大妄想かもしれませんが、わざわざ石棺で閉じ込めるほど恐れられた人物だったことは確かでしょう。

再び神功皇后

神功皇后に秦氏の血が流れていたことは、石棺墓からも想像していました。

石棺墓に刻まれた‪✕‬印は、天文を表したものだとも言われています。ここから、皆さんが気づくことがひとつあると思います。

石棺墓に天文?

秦の始皇帝です。

始皇帝が眠る陵墓の地下宮殿には、宇宙が描かれ、水銀を流して地上の黄河や長江、そして海が再現されていると伝えられています。吉野ヶ里遺跡の石棺墓は、天体を知っていた秦氏の仕業ではないでしょうか。

神功皇后は奴国を滅ぼし、奴国があった場所=吉野ヶ里遺跡に石棺墓を作り、奴国の長の怨霊封じを施した。自らは奴国の他国への出入口であった香椎宮(霊廟)で、仲哀天皇と共に奴国の長が再び復活しないように永遠に目を光らせるのです。

また、京都の松尾大社には、田手日吉神社と同じ大山咋神が祀られてます。面白いことに、大宝元年(701年)に文武天皇の勅命を賜わった秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勧請して松尾大社の社殿を設けたといわれてます。その後も秦氏により氏神として奉斎されてきました。ここでも秦氏が出てくるということは、大山咋神と秦氏はかなり深い関連があると見て取れます。

連弧文鏡(れんこもんきょう)

最後に、連弧文鏡について書きたいと思います。皆さんは連弧文鏡を見たことはありますか?

吉野ヶ里遺跡にある連弧文鏡がこちらです。

連弧文鏡

連弧文鏡には「久不相見、 長母相忘」という文字が見えます。「長い間会えなくても、お互いを忘れないようにしましょう」という意味で、古代の人々の情緒といいますか、ロマンチックな一面が垣間見えますよね。

これと同じ文言が記載された連弧文鏡が、実は中国からも出土しています。

中国の連弧文鏡

■発掘:中国湖北省襄陽市頭山郷にある69基の古秦漢墓から、陶器、銅器、鉄器など数千点の遺物が出土した。 その中に、約2000年前の銅鏡があり、簡単に洗浄されているが、「久しく会わず、久しく忘れず」という銘文と草葉模様が、まるで新しく鋳造されたかのように鮮明に残っている。親指ほどの大きさの銅印には「周寛の印」と刻まれており、墓の主が平民でなかったことを物語っている。

■襄陽:楚国は周が覇権を握っていた春秋戦国時代に漢水流域を支配し、その勢力を拡大しました。襄陽は、その領土の一部であり、楚国の南方の中心地として文化的・軍事的に重要な役割を果たしました。

この同文言の連弧文鏡が見つかった場所は、襄陽市です。春秋戦国時代、楚がありました。楚の王族は熊姓です。楚の王族が大事にしていた宝物だったのでしょうか。

連弧文鏡が発見された襄陽

同じものが吉野ヶ里遺跡から見つかったことは、本当に興味深いです。吉野ヶ里遺跡周辺で、コミュニティを形成していたのは楚の王族の末裔、熊襲ではないでしょうか。その熊襲を倒したのが神功皇后です。神功皇后が恐れた人物は、やはり熊襲の長だった可能性があります。

それが卑弥呼かどうかまでは分かりませんが、またの機会に改めて考察したいと思います。吉野ヶ里遺跡は広大で、展示室含めて本当に素晴らしい遺跡です。ぜひ訪れてみてください。

佐賀県文化財保護・活用室長 白木原 宜さん

「これだけ重い石蓋は特殊で、(石の表面にあった)線刻に『封じ込める』意味があったとすると、当時の有力者は呪術的な側面もあるので、シャーマン(呪術師)ということもあり得る」「土壌に含まれている人骨のDNAが抽出できれば、(埋葬者の)性別などは判明するかもしれない」

謎のエリアの石棺墓について

本日もお読みいただきありがとうございました。


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