現代に生きる世捨て人③ 五木寛之──人生後半は下山である
登ることをやめたとき、見えてくる景色がある
人生の前半、私たちは山を登るように生きている。
勉強する。働く。家庭を築く。収入を増やす。社会の中で居場所を得る。
上へ行こうとする。もっと知識を。もっと経験を。もっと評価を。もっと安定を。
若い頃には、それが自然である。前へ進むこと、上へ登ることには意味がある。
しかし人生後半になると、ふと気づくことがある。
この山は、どこまで登ればいいのだろう。頂上に着けば、本当に安心できるのだろうか。
そんな問いを、静かに私たちへ投げかけてきた人がいる。五木寛之である。
五木寛之は、小説家であり、エッセイストであり、人生の伴走者のような存在でもある。
戦後の混乱を生き、時代の移り変わりを見つめ、多くの人の孤独や不安に寄り添う言葉を書いてきた。
その五木寛之が語ってきた思想の一つに、「下山」という考え方がある。
人生は登山だけではない。人生後半は、下山の時間でもある。
私たちは長いあいだ、「登り続けること」がよい人生だと教えられてきた。成長する。前進する。挑戦する。
けれども人生には、もう一つの季節がある。それが、下山の季節である。
登山では、頂上に着いて終わりではない。
むしろ本当に難しいのは、下山だと言われる。体力は落ちる。足元は不安定になる。登っているときとは違う慎重さが求められる。
人生も似ている。
若い頃は上を見ていた。けれども人生後半になると、身体は少しずつ変わる。役割も変わる。
親を見送ることがある。友人との別れが増える。病気や老いとも向き合う。仕事を離れる日が来る。
これまで当たり前だったものが、一つずつ変わっていく。
五木寛之は、その現実を否定しなかった。老いを若さで塗りつぶそうともしなかった。
むしろ、下山には下山の生き方がある、と語った。
現代社会は、老後にまで登山を求める。
いつまでも若々しく。いつまでも生産的に。いつまでも前向きでいる。
元気でいることは素晴らしい。新しい挑戦も大切である。
けれども、その理想に疲れてしまう人もいる。
もう頑張れない。前のようには動けない。人付き合いも少し疲れる。若い頃のような野心も湧かない。
そんな自分を責めてしまう。
五木寛之の下山思想は、そこに別の言葉を置いてくれる。
無理に登り続けなくてもいい。人生には、下りながら見える景色がある。
下山とは、敗北ではない。人生の後半を後半として歩くことである。
若い頃は、失うことを恐れる。地位を失いたくない。若さを失いたくない。評価を失いたくない。
しかし人生後半になると、失うことは避けられない。体力も減る。役割も変わる。別れも増える。
だからこそ問われる。失わない人生を追い続けるのではなく、失いながらどう生きるのか。
五木寛之の思想は、この問いの中から生まれている。
彼は、喪失を人生の失敗だとは見なかった。
若い頃には見えなかった他者の痛みが見える。孤独な人の寂しさが分かる。病を抱えた人の不安が分かる。何かを諦めた人の静かな悲しみが分かる。
失うことは苦しい。それを簡単に美化してはいけない。
けれども、その苦しみが人を深くすることがある。
親鸞が弱さを見つめたように。ユングが影を受け入れたように。五木寛之もまた、喪失の中に人生の深さを見ていた。
人生後半になると、「できること」よりも「受け入れること」が増えていく。
若い頃は、未来へ向かって生きる。しかし年齢を重ねると、過去とも向き合う。
あのときの失敗。あの人との別れ。叶わなかった夢。言えなかった言葉。
そうしたものが、静かに戻ってくる。
五木寛之は、それらを無理に忘れようとはしない。抱えながら生きればよい、と語っているように感じる。
人生は、きれいに整理整頓できない。割り切れないものが残る。それでも歩いていく。
その姿勢には、どこか仏教的な響きがある。不完全なまま引き受ける。悲しみを抱えたまま歩く。
五木寛之の文章を読んでいると、不思議と安心することがある。
励まされるというより、「無理をしなくてもいい」と言われているような気持ちになる。
頑張れとは言わない。苦しいなら苦しくていい。迷うなら迷っていい。老いるなら老いていい。
それは諦めではない。現実への敬意である。
失うことで、軽くなるものもある。
見栄を失う。競争心を失う。若さへの執着を失う。「立派でなければならない」という力みを失う。
すると、人生は少し楽になる。
ディオゲネスは所有を減らし、ソローは暮らしを小さくし、長明は方丈の庵に身を置いた。
五木寛之は、人生そのものを下山として見直した。
増やすことだけが人生ではない。人生後半は、拡大ではなく編集である。
定年後、多くの人が戸惑う。
会社員としての自分。毎日予定が埋まっている自分。そうした姿が、ある日から変わる。
自由になったはずなのに、心に穴が空く。
それは、登山の途中で突然道が変わったような感覚かもしれない。もう上へ登る道ではない。では、どこへ向かえばよいのか。
五木寛之の「下山」という言葉は、その戸惑いに一つの地図を与える。
新しい肩書を急いで作らなくてもよい。まずは、下りながら景色を見る。これまで見えなかったものを見る。自分の足元を見る。
人生後半の自由は、上昇する自由ではなく、自分の歩幅を取り戻す自由なのかもしれない。
介護が終わったあとにも、同じことが起こる。
長く誰かを支えてきた。生活の中心が介護だった。しかしその時間が終わると、空白が訪れる。
ほっとする。同時に、寂しい。疲れが一気に出る。
その空白を、すぐに埋めようとしなくてもよい。
下山の途中には、立ち止まる場所が必要である。
休む。振り返る。泣く。何も考えない。ゆっくり日常へ戻る。
下山には、登山にはない景色がある。
山頂を目指していた頃には見えなかったもの。
道端の花。風の音。共に歩く人の疲れ。休むことのありがたさ。
急いでいた頃には気づかなかったものが、下り道では見えてくる。
若い頃には見えなかった幸せ。若い頃には分からなかった感謝。若い頃には受け入れられなかった弱さ。
下山する人だけが見られる景色がある。
下山には、勇気がいる。上へ行く勇気とは違う。
若さへの執着を手放す勇気。過去の肩書を手放す勇気。できなくなったことを認める勇気。助けを求める勇気。休む勇気。
外からは目立たない。けれども、人生後半にはとても大切な勇気である。
五木寛之は、世を捨てた人ではない。社会の中で書き続け、多くの読者と関わり続けてきた人である。
それでも、世間の価値観だけでは人生を測らなかった。
上を目指し続ける社会の中で、「そろそろ下山してもいいのではないか」と語る人。
人生の後半を、人生の後半として生きるための言葉である。
タモリは、やる気のなさという脱力の自由を教えてくれた。黒柳徹子は、標準から外れて好奇心を生きる自由を教えてくれた。
そして五木寛之は、下山する自由を教えてくれる。
登り続けない自由。それは、人生後半の大切な入り口である。
下山とは、失う旅ではない。
本当に大切なものだけを抱えて帰る旅なのである。
今回の問い
あなたは今も、登り続けなければならないと思っていないだろうか。
もし人生後半を「下山」として見つめ直したとき、手放せそうな荷物は何だろうか。
そして、その先に見えてくる景色はどんなものだろうか。
Kashimono / Karimono
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