小説「転身」第八話
第八話
相愛病院は三次救急の設備を持つ、地域の基幹病院だ。最新の設備と優秀なスタッフが揃っており、県の内外から治療を希望する患者が絶えない。
ここに事故を起こした半死半生の田畑美穂が運ばれていた。それがまさかあんな事件の引き金になるとは誰も思わなかったはずだ。治療に当たったスタッフが殺されたのだから、訪ねた鈴木も同情を禁じ得なかった。
「当時のスタッフはあまり残ってませんが」
病院の事務部長はそう断った上で、応接室に鈴木を案内した。
「私の話したことはオフレコにしてもらえますか?」
「もちろん、お約束しますよ」
予想に反して情報をもらえたのは、納得いかない部分があると病院も考えているからだろう。当時も在籍していたという事務部長は、事件の夜に起きたことを詳しく教えてくれた。
鈴木は病院からの帰りがけに、振り返って建物をもう一度見た。本当はここで何が起きたのか? 美穂の供述は支離滅裂で要領を得ない。彼女はこの時私は死んでいたと、裁判でも最後まで主張を変えなかった。
鈴木は病院の事務部長の言葉が頭に残って離れなかった。
「医学的な見地から言えば、あり得ないんです。まぁ、警察は診断の誤りだと取り上げませんでしたが」
彼はそう言って首を傾げた。鈴木がさらに質問すると、内密だと言いながらカルテを見せてくれた。
「バイタルは非常に危険な状態でした。万一、意識を取り戻したとしても、 大腿骨の開放骨折で立つことさえ叶わなかったはずです」
当時、対応した救急隊員も、彼女の怪我の様子から助けるならここに運ぶしかないと供述していた。話の辻褄は合う。
(瀕死の美穂が殺人を行った可能性は低い。誰か別のやつがいたってことだ)
鈴木は佐藤が語った電話の件を思い出していた。事件は突然起きたのではなく、予期されていた。そして、今度は動けなかった容疑者だ。別人がいると考えてもおかしくはない。
警官殺害事件の早期解決を焦った上層部が、犯人を仕立て上げた。おそらくそんなストーリーだと、鈴木は睨んだ。
(これじゃ、弱い。真犯人が見つからなけりゃ、素人の考察だ)
鈴木は誰もいない闇を睨んで言った。
「なぁ、本当は何が知りたい?」
返答は何も返ってはこない。だが、視線は確実にこちらを見ていた。対峙する二人の間を雨が降り出して遮る。薄くなった頭頂部に当たった雨を手で拭うと、鈴木は舌打ちした。
(すぐに突き止めてやるさ)
折りたたみ傘を出して広げると、鈴木は降り注ぐ雨の中を再び歩き出した。
もしかすると、あのまま死んでしまったのだろうか……Aの眼前には白い靄と境目の曖昧な空間が広がっていた。ここはいったい何なのだろうか。いつか見た夢にどこか似ている。そう、何もかもから隠れていた頃に見ていた夢と。
Aはいつの間にか手にナイフを握っていた。顔を上げると靄の中に男の背中が見える。ゆっくりと近づき、迷うことなく刃を右手で肋骨下の腹部から肝臓へと滑り入れた。鋭利な刃は何の抵抗も感じずに目的物に達する。慣れたルーチン作業のようで興奮もなく、変化もない。
(あの夢だ。わたしは帰ってきたのか?)
何もかもがいつもの夢の通りだった。男は痛みを訴えることもなく、急速に力を失って膝から地面に崩れる。相手は殺されるなど夢にも思っていないのだろう。Aは殺さなければならない理由を思い出せなかった。
まもなくベッドで目覚まし時計がリストの『愛の夢・第三番』を奏で、起こされて終わる時間だ。割れそうに痛む頭を抱えながら始まる朝。かつては夢であったはずだが、今となってはデジャヴとも言える光景だった。
変わらないのはずっと殺人に対して無関心であったことだ。昔は見ているに過ぎなかった。自らの手を汚した今は、後悔や畏れを必ずしも感じるわけではないと知ったことだ。
Aはうつ伏せに倒れた男を抱え起こす。あの部屋にいた男だ。恋人だったはずの男は幸せそうな顔で眠っているかのようだった。『愛の夢・第三番』の調べが大地の底から響いてくる。まもなく始まるのだろう。既に時は告げられていた。
抱えていたはずの男の姿は、外から差し込んできた光に消されていく。光は壁にも床にも影を残さず、異常なまでに白に統一された部屋を浮かび上がらせた。部屋を覆っていた闇が息を潜め、また新しい一日が始まる。
「わたしに何をさせたい?」
言葉を投げかけても答えは返ってこない。Aは光の強さに耐えられず、観察をやめて目を閉じた。
網膜に焼きついた光は時間と共に収まり、やがて地についた足先や壁に触れた指から場所の輪郭が伝わってくる。その部屋は異様に狭く感じられた。いや、実際の広さも身体を横たえるような広さはなく、座るのがやっとであった。
ゆっくりと目を開け、Aは部屋の中を確認する。窓や照明がなく、外界から完全に隔離されたと思わせる雰囲気に強い圧迫を感じた。また壁自身が淡く白い光を放っていることも、囚人の休息自体を妨げるような眩しさがあった。
囲まれた壁は牢獄のように無機質で冷たかった。中にいる者への情など一切ない無関心な造りなのだろう。囚われてしまったことは明らかだった。
「どこか似てる」
逃げ出してきたはずのあの部屋がAの心に浮かんだ。自分なのか、あの化け物なのか。どうやらそれほどの思い入れがあるらしい。不可解なのはその理由が分からないことだ。始まりは確かにあそこだが、この部屋に閉じ込めたい理由が見えなかった。
もう一つ分からないことがある。歩の罠に嵌った後、意図的に死を選んだのはあの場面では正しい選択だった。予想通りにあの化け物が始末してくれた。だが、Aもセオリーに従えば存在しなくなるはずだった。
(同時に存在できるのは二人。そこは違ってない。でも、それなら花や警察官の死は誰が)
Aは違いを思い出そうとした。二人の死は先生のそれとは明らかに違った。事故の結果のような残骸でなく、絶対的な力の差によって狩り盗られたものだ。獲物の死体は縄張りとなり、相手を震え上がらせる。恐怖が伝播することを知っているからだ。
この痕跡を証拠とするならば、殺人者は別に存在しなければ理屈がおかしい。しかし、同時に存在できるのは二人だというセオリーとは矛盾してしまう。何故なのか? Aとは同時に存在できないのか。
(それともわたしが……)
その考えをAは慌てて打ち消す。不安を隠すため腕に触れると、恐れが知らぬ間に身体を振るわせていた。
「そんなはずない」
Aは改めて口に出すことで恐怖を拒絶した。
(まだ知らないセオリーがあるのかもしれない)
探し出すしか、Aに方法はない。例えば花や先生、歩も別に身体を持っていた。自分自身は目が覚めた時にはこの身体があった。自分も死んでしまったから、だからこの場所にいる。
「ならば、あの化け物はどこにいる? わたしは何者だ?」
Aは敢えて疑問を声に出してみた。誰かに聞かせるようとするかのように。もちろん答えなどあるわけもなく、ただ沈黙の時間だけが過ぎた。Aは答えを見つける必要があったが、同時にたどり着くことを恐れてもいた。矛盾するがそれも本心だった。
細くやつれた指が力なく何度も壁を繰り返し叩く。しかし、Aは考えることに集中し過ぎて気づけないでいた。壁を2回ずつノックする音がようやく認知できたのは、十度目になってからだ。
Aは振り返ることを躊躇った。しかし、敵であるなら、この隙を見逃すことはしないだろうと思えた。気配が伝わったのかノックの音が止まった。Aの反応を待っているようだ。
「あなたは……」
振り返ったAが見たのは、恋人と呼んだ男だった。男は穏やかな表情でAに目配せすると、黙って歩きだした。ついてこいと言う意味らしい。Aは驚きを抑えつつ、その動きに従った。
囚われていたはずの空間の壁はいつしか霧散している。だだっ広い草原のような場所を、男とAは歩いた。その間、一言の会話もなく、互いの顔を見ることさえしなかった。
(こうやって歩いたことがあるのかもしれない)
Aは記憶の底に刻まれたデジャヴのようなものを感じていた。男は前触れもなく足を止めると、ゆっくりと何もない一方向を指差した。
「何があるの?」
Aの問いに男は首を傾げただけだった。
「ふざけてるんだったら」
Aが言いかけてやめたのは、男がAを見て微笑んだからだ。
「答えはあの向こう側にあるとも、ここにあるとも言えるんだ。気づいているんでしょ?」
男はそう言って初めてAに顔を向けた。男の眼球には光がなかった。
「あなた、まさか目が」
男は頷くと、寂しげに口元だけで笑った。
「いろいろ忘れてしまってるんだね。教えることはできるけど、正しいかどうかは分からないよ」
男は淡々と説明すると、それきり口をつぐんだ。どうやらAの反応を待っているらしい。
「じゃあ、これはやっぱり私の記憶なのね」
「そうだね、間違えてはいない。でも、表現としてはもうひとつかな。あの子なら、私が見てるから世界が存在するなんて言いそうだけど」
男の言葉にAは意識が研ぎ澄まされるような感覚を覚えた。
「コギト命題ね」
Aは無意識に言葉を返していた。メモリーに保管していた動画が再生されるかのように、ロストしていたパーツが脳裏に駆け巡っていく。
「人は繰り返される事象を見つけてはセオリーと言いたがる。でも、それは断片にしか過ぎない。例えば君が見ている世界は僕には見えない」
男はそう言って、指で自分の瞼を撫でた。
「人の数だけ世界は存在するってこと?」
「そうかもしれない。言えるのは君の世界とあの子の世界は繋がって存在しているってことかな」
「それじゃ、他の人は? 花や先生は存在していなかったの」
「君の言うキオクを見ようか。真実と同義にはならないかもしれないけれど」
男はどこか楽しそうな口ぶりだった。それはこの状況なのか、それともこれから語る内容なのかはAには窺い知れなかった。
「雨の日だったね。あれが始まりだった」
男は何もない空間をもう一度指し示した。Aは見つめた視線の先に微かな光を感じた。光は次第に輝きを増し、あっという間にAと男を飲み込んだ。
まとわりつくような雨が傷ついた身体をさらに重くさせた。小糠雨というのはこんな感じを言うのかもしれないと女は思った。
今夜の狩りは上々だったが、予想外の出来事で傷を負った。武闘派を称する暴力団のトップを始末したのは良かったが、無駄に徒党を組む輩のせいで脱出に時間を費やしてしまった。女は追いかけてくる組員を5人までは数えていたが、途中から面倒になってやめた。
我先にと群がる男たちを、女は鉤爪のように開いた指で次々と薙払った。男たちはそのまま切断されて絶命する者もいれば、骨を砕かれて地面にひれ伏す者もいた。もう一拍の時があれば命を断つことも容易であったが、女にもその余裕はなかった。
半数近くが屍となって女の足元に倒れたことで、戦いの情勢は決まった。圧倒的な力は暴風の如く荒れ狂い、勇み立つ男たちの意思を吹き飛ばした。
「バケモンだ!」
一人が発した怯えの声が、逃亡への雪崩を引き起こす。慌てた者たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、場は騒然となった。
「おい、逃げんな!」
幹部らしき男が逃げ出した者を制止しようと銃で狙い撃つが、もはや止めようがなかった。寸前まで契りを交わした仲間であったはずが、自分が生きるために撃ち合いを始める。
(これだから人間という生き物は)
女はその光景に呆れて、戦う欲望を失ってしまった。不運にもそのことが仇となる。意識の緩みから跳ね返った流れ弾に当たってしまったのだ。弾丸は女を貫通し、かなりの深傷を負わせた。
「まぁ、なるようになる」
歩きながら女は独り言ちた。失意や諦めでもなく、状況を確認するために言葉に出した作業だった。腹部の銃創からは出血が続いているが、痛みはない。いや、女は生まれてこの方、痛みというものを知らなかった。
先天的な欠陥なのか、それとも感じる心がないのか。女もその答えを知らずにいた。不便を感じないのは必要としないからかもしれない。しかし、身体は確実に失血の影響を受けていた。四肢の力は急速に失われ、体温の低下は震えとなって現れていた。
それでも女は目的もなく歩き続けた。それはすでに作業だった。狩るべき獲物が見つかるまでは、ただ繰り返すのだ。とあるマンションのゴミ捨て場の前で足が止まったのは、それ以上進もうとしても身体が動かなくなったからだ。
「ここが墓標か、それもいい」
女は捨て置かれたカラーボックスに凭れて座った。降り続ける雨が体温を奪い、意識が遠のいていく。
(死ぬとは案外つまらないものだ)
女は目を閉じながら、そう感じた。終わりまでの時間はひどく退屈な作業だった。
ふと顔にかかる雨が弱くなった気がして、女は片目だけ開ける。古びて所々に穴が開いた黒い傘を持った若い男が立っていた。気配は全く感じなかった。瀕死の状態ではあったが、こんなことは初めてのことだった。
「ゴミ捨て場で死にそうなやつが珍しいか?」
女は語気を強めて言ったが、男は無言のままだった。雨は降っていたが聞こえないはずはない。女は反応を待つことにした。
「雨が降ってきた音がした……」
男はそう言って女の前にしゃがみ込むと、傘を差しかけた。男は目を閉じたまま、犬のようにくんくんと鼻を鳴らす。
「目が見えないのか?」
「たくさんの血の匂いだ。ケガだね」
男は女の問いには答えず、女の状況だけを告げた。そのまま立ち上がってマンションの入り口へと歩く。手招きしているところを見ると、変わった男だが助ける気はあるらしい。
女は身体をふらつかせながら立つと、後を追った。
男の部屋は驚くほど何もなかった。僅かに寝具があるだけで、家具らしいものも見当たらない。独居房かとさえ思えた。壁のクロスの白さが照明の光を反射して狭さを余計に強調している。
また匂いというものが存在しなかった。まるで生きていることから男自身が隠れているようにさえ感じられた。
「他人を縫うのは初めてなんだ」
男は抑揚もなく告げた。言い訳というよりは、事実を伝えたかったのだろう。どうせ痛みを感じるわけでもないと女は気にすることもなかった。
男の指は傷口から血管を摘み出すと、手術用の針で縫い始めた。男は目が見えないために小さな傷を作ることは多く、簡単な傷は自分で処理していると微笑んだ。
「繋がればいい」
女はそれだけを答えた。男の指の動きはリズミカルで無駄がなく、見ていて気持ちいいものがあった。
「金はどうしてる?」
女は興味というよりも、手持ち無沙汰に耐えかねて話しかけてみた。
「あるよ」
男はある意味で予想通りの答えを返した。
「どうやって稼いでるか、聞いてる」
女は少し苛立ちを込めて言った。この男の何を考えているか分からないところにひっかかった。
「親の会社でヘルスケアの真似事かな。ほとんど仕事はないけど。鍼灸の資格はあるから。人間の身体ってあちこち刺してみると面白いんだ」
男は隠す様子もなく答えた。
「僕ら視覚障害者と一括りにはしないけど。声や指先から伝わる情報のほうが大切なのさ。声の震えや肌から伝わる緊張なんかがね」
「真実が見えてるとでも言いたげだな」
女は皮肉を込めて言った。
「何も見えてないさ。僕も君もね。人はそれぞれ好き勝手に自分の世界を見る。さ、縫い終わったよ」
男は言い終えると同時にドアを指差した。
「礼はしない」
女の言葉に男は口元だけで笑った。
「傘を使っていいよ。次の雨が降る前に返してくれるならね」
女は黙って古びた傘を掴むと、ドアを開けた。ふと、この男はどんな死に方をするだろうかと考えたがイメージが浮かばなかった。
女は身体を引きずるようにマンションの外へと出た。雨は止んでおり、日が差し始めていた。傘は必要なかったが、敢えて空に向かってさしてみた。空いた穴から光が差し、薄くなった生地の向こうに空が見えた。悪くないと思って、女は歩き出した。
Aは女の目を通して、状況を観察していた。女はあの化け物だった。見間違えるはずがない。この瞬間に一緒にいることさえ恐怖を覚えるが、何か術があるわけではない。ただ見ているしかできないでいた。
驚くべきことに、あの化け物は男を殺さなかった。身体が弱っていたこともあるかもしれない。あり得ないことだが、もしかすると助けてもらった恩を感じたのかもしれない。
だが、そんなことはどうでも良かった。大切なのは事実であり、目の前にある結果だった。男は化け物と対等であり、そして、それを化け物が受け止めていることだ。
(あり得ない……)
Aは思った。誰もそれはなし得ないはずだった。花も先生も、誰もが彼女から逃げるしか出来なかった。なのに、あの男は化け物の前にいることを認められたかに見えた。
Aの嫌な予感は当たった。女はその古びた傘を捨てずに持ち歩く。大きさも色も不釣り合いだったが、なぜか片時も離そうとしなかった。
(恐ろしい……)
あの化け物が自分以外の人間を対等としている。狩りの対象ではなく、それ以外のものとして。Aにはとてもその変化が信じられなかった。
これは始まりでもあった。変化は必ず破壊をもたらす。蜘蛛の糸の上にかろうじて成り立っていたバランスなど、否応なく消し飛ぶしかない。鳥などの天敵を避け、畏れおののくだけの芋虫たちも生き残るためには変わらざるを得なかった。
戦いの鐘が打ち鳴らされるのはもう遠くはない。Aもまた逃れられない運命だった。
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