オールドメディアは、なぜAIをそんなに怖がるのか
チカと教授が語る「新聞とテレビの立派な事情」
「教授、新聞やテレビでは、AIに対する批判が多いですね」
チカが新聞を机の上に置いた。
「AIは間違える、著作権を侵害する、人間の思考力を奪う、ネット情報を寄せ集めているだけだ、と」
教授は新聞を手に取った。
「どれも大切な問題だ」
「今日はずいぶん素直ですね」
「ただし、その批判記事がネット上の記事をまとめ、SNSの反応を添え、AIで見出しを整えて作られているなら、話は少し面白くなる」
「AIがネット情報をまとめるのは危険で、新聞社がまとめると報道になるのですか」
「新聞社には輪転機があるからね」
「輪転機を通ると、情報は正しくなるのですか」
「少なくともインクの匂いはする」
本屋がKindleを批判するようなもの
「オールドメディアのAI批判は、街の本屋がKindleを批判する姿に似ていますね」
「どう似ているのかね」
「電子書籍には紙の温かみがない。本は手に取って読むものだ。電子書籍では読書文化が失われる、と」
「一理ある。紙の本には、紙の本の魅力がある」
「でもKindleなら、夜中でも買えます。文字を大きくできます。何百冊でも持ち運べます」
「しかも、本棚が倒れて下敷きになる心配もない」
「教授の書斎は、知識より先に耐震補強が必要です」
教授は聞こえなかったふりをした。
紙の本に価値がないわけではない。
新聞やテレビに価値がないわけでもない。
しかし、古い仕組みの価値を語ることと、新しい技術の利便性を否定することは別の話である。
新しい技術に対して、古い側が突然「文化」を語り始めたとき、その後ろにはしばしば「商売」が立っている。
「文化を守ろうとしているのでは?」
「もちろん文化も守りたい。ただし、購読料と広告料も同じくらい守りたい」
「ずいぶん現実的な文化ですね」
「文化も決算書の外では生きられないからね」
新聞が恐れているのは、誤情報だけなのか
チカは新聞の一面を眺めた。
「新聞はAIの誤情報をよく批判しますね」
「新聞が事実確認を重視するのは当然だ。そこは大切な役割だよ」
「では、新聞の記事はすべて独自取材なのでしょうか」
教授は紙面をめくった。
通信社の記事。
官公庁の発表。
企業のプレスリリース。
記者会見の要約。
ネットで話題になった出来事。
SNS上の投稿。
海外メディアの記事の翻訳。
「ずいぶん、ほかから来た情報が多いですね」
「新聞記者が毎朝、世界中を走り回っているわけではないからね」
「AIが既存情報を整理すると『寄せ集め』で、新聞が整理すると『編集』ですか」
「その違いを説明するには、まず購読契約が必要だ」
もちろん、優れた調査報道もある。
長期間の取材で不正を暴き、権力を監視し、表に出なかった事実を伝える新聞記者もいる。
そうした仕事には大きな価値がある。
しかし一方で、発表資料を書き換えただけの記事や、ネット上の話題を並べただけの記事もある。
現場に行かず、一次資料にも当たらず、ネット情報を要約するだけなら、それはAIへの批判ではなく、AIとの業務分担の相談である。
「新聞に載っているから正しい、とは限りませんね」
「人間が書いたから正しい、という保証もない」
「でもAIには幻覚があります」
「新聞には誤報がある」
「AIは間違いを認めないことがあります」
「新聞は訂正記事を小さく載せることがある」
「一面の誤報を、社会面の隅で訂正するような?」
「間違いは大声で広がり、訂正は小声で帰ってくる。それが伝統的な情報流通だ」
見出しは大きく、訂正は小さく
「新聞の見出しは、ときどき断定的ですね」
「見出しは読ませるためにあるからね」
「本文を読むと、見出しほど断定していないことがあります」
「本文まで読まない人が多いことを、新聞社はよく知っている」
「それは少しずるくありませんか」
「ずるいのではない。編集技術だ」
「言い換えただけですね」
部数が減れば、目を引く見出しが必要になる。
アクセス数を稼ぐため、ウェブ版では刺激的なタイトルが並ぶ。
「衝撃」
「炎上」
「物議」
「波紋」
「ネット騒然」
「関係者激怒」
「関係者とは誰ですか」
「たいてい名前を出せない人だ」
「激怒しているのに、名前は出せない」
「怒りにも個人情報保護が必要なのだろう」
新聞がネットメディアを低俗だと批判しながら、自らのウェブ版で「ネット騒然」を連発する姿には、なかなか味わいがある。
紙面では品格を語り、ウェブではクリックを求める。
昼は文化人、夜はアクセス解析担当である。
新聞がAIを使う日は、もう来ている
「新聞社はAIを使っていないのですか」
「使っているだろうね」
記事の要約。
見出し案の作成。
音声の文字起こし。
翻訳。
データ分析。
校正。
スポーツ結果や株価情報の自動記事。
過去記事の検索。
「それでは、AIを批判しながらAIを使っている?」
「包丁を使いながら、包丁の危険性を語ることはできる」
「矛盾ではないのですね」
「使うこと自体は矛盾ではない。問題は、自分たちは便利に使いながら、読者にだけ『AIに頼ると考えなくなる』と説教することだ」
「禁酒を勧める講師が、講演後に一杯やるようなものですか」
「一杯ならまだよい。酒蔵を経営していたら話が変わる」
AIを使うことは悪くない。AIを使っている側が、使っていないふりをしてAI利用者を見下すことが滑稽なのである。
テレビは番組を放送しているのか
チカはテレビをつけた。
「テレビもAIをよく批判しています」
「テレビには映像と生放送という強みがある。災害報道や現場中継では重要な役割を持つ」
「では、テレビはなぜNetflixを警戒するのでしょう」
「Netflixが視聴者に失礼なことを言ったからだ」
「何と言ったのですか」
「好きな時間に見ればよい、と」
テレビは長年、視聴者に番組表を提示してきた。
午後九時になればテレビの前に座り、番組の途中でCMを見る。
続きが気になったところでCMに入り、答えはCMのあとに持ち越される。
Netflixは、その常識を壊した。
好きな時間に見られる。
途中で止められる。
一気に見られる。
CMもない。
「視聴者にとっては便利ですね」
「テレビ局にとっては、視聴者が勝手になったということだ」
テレビは番組の途中にCMを流しているように見える。
しかし、広告ビジネスの側から見れば、順序は逆になる。
番組の間にCMを流しているのではない。CMを見せるために番組を流している。
「ずいぶん身も蓋もありませんね」
「蓋はCMのあとに開けることになっている」
テレビ関係者にとって、本当の顧客は必ずしも視聴者ではない。
広告料を支払うスポンサーである。
視聴者はスポンサーへ提出する視聴率の材料になる。
「視聴者はお客様ではないのですか」
「お客様なら、番組の一番よいところで待たせたりしないだろう」
「視聴者は何なのですか」
「スポンサーに納品されるパーセントだ」
スポンサーの顔色は四Kで見える
「テレビは権力を監視すると言いますね」
「大切な役割だ」
「スポンサー企業の不祥事も、厳しく追及しますか」
教授はコーヒーをゆっくり飲んだ。
「チカ君、世の中には、答えを急がないほうが美しい質問もある」
テレビは政治家の失言には厳しい。
企業の不祥事にも切り込む。
ただし、相手が大口スポンサーになると、言葉遣いが少し上品になることがある。
昨日まで「徹底追及」と叫んでいた番組が、突然こう語り始める。
「さまざまな事情を考慮する必要があります」
「今後の推移を慎重に見守りたいと思います」
「個別の案件についてはコメントを控えます」
「急に慎重になりますね」
「スポンサーの顔色が四K画質で見えているのだ」
「報道の自由は?」
「あるとも。提供スポンサーの紹介が終わってからだ」
テレビが常に守っているのは真実とは限らない。広告契約、芸能事務所との関係、系列会社、業界内部の秩序を守っていることもある。
都合が悪くなると現れる「コンプライアンス」
「テレビでは、問題が起きるとすぐコンプライアンスと言いますね」
「便利な言葉だからね」
「何が便利なのですか」
「理由を説明しなくても、立派な判断をしたように聞こえる」
出演者を降板させる。
番組を終了する。
過去映像を使わなくなる。
だが、詳しい理由は説明しない。
「関係各所と協議した結果です」
「総合的に判断しました」
「コンプライアンス上、回答を控えます」
「何も分かりません」
「分からせないための説明だから当然だ」
コンプライアンスは、本来、不正を防ぐための仕組みである。ところが、ときには説明責任を避けるための幕として使われる。
「昔の『大人の事情』と同じですか」
「横文字にしたので、会議資料では少し立派に見える」
「説明しないことまでコンプライアンスなのですね」
「説明責任を守るため、説明を控えているのだろう」
制作費を削ると、お笑いタレントが増える
チカは番組表を眺めた。
「教授、どの番組にも同じお笑いタレントが出ています」
「よく気がついた」
「ニュース、情報番組、旅番組、料理、クイズ、スポーツ、討論番組。どこにでもいます」
「そのうち台風中継でも、ボケとツッコミが入るだろう」
「なぜ専門家ではなく、お笑いタレントなのですか」
「制作費の事情だ」
調査報道には金がかかる。
海外取材には旅費がかかる。
専門家に長時間取材すれば、準備にも編集にも時間がかかる。
一方、スタジオに芸能人を並べ、映像を見せ、感想を述べてもらえば、番組は成立する。
「すごいですね」
「何がだね」
「取材を減らしても、出演者を増やせば画面はにぎやかになります」
「テレビでは、情報の深さよりワイプの人数が大切な場合がある」
大きく驚く。
深刻な顔をする。
笑う。
うなずく。
「怖いですね」
「信じられません」
「本当に許せません」
それだけで番組は進んでいく。
制作費を削り、取材を減らし、お笑いタレントの感想で時間を埋めながら、AIには『情報が浅い』と説教する。これもまた、現代メディアの高度な自己批評である。
「専門家の代わりに芸人が話すのですね」
「専門家は説明が長い。芸人はCMまでの秒数に合わせて話せる」
「正確さより尺ですか」
「テレビにはテレビの真実がある。たいていCMの直前に現れる」
ネット動画を流して、ネットを批判する
「テレビはネット情報の危険性もよく指摘します」
「それも大切だ。デマは多いからね」
「その特集で流れている映像は、SNSから拾ったものですが」
「今はテレビ局も視聴者から動画を募集する時代だ」
「現地取材は?」
「動画を送ってくれる人がいれば、交通費がかからない」
「ネットを批判しながら、番組の素材はネットから集める?」
「魚市場を批判しながら、そこで魚を仕入れる料理店のようなものだ」
SNSで話題になった動画を流す。
ネット記事を紹介する。
ネット上の反応を読む。
最後にコメンテーターが感想を述べる。
「ネットではさまざまな声が上がっています」
「それは報道ですか」
「スタジオに大型モニターがあれば報道らしく見える」
ネット情報を右から左へ流すだけのテレビは、AIを批判しているのではない。自分より速く、安く、個別対応までできる競争相手に困っているのである。
本当に恐れているのは誤情報ではない
チカは少し真面目な表情になった。
「新聞やテレビが本当に恐れているのは、AIの誤情報なのでしょうか」
教授は新聞を閉じた。
「誤情報への懸念は本物だろう。しかし、それだけではない」
かつて、新聞とテレビは情報の入口を握っていた。
何を大きく報じるか。
何を小さく扱うか。
誰に発言させるか。
どの意見を常識として示すか。
多くの人は、新聞やテレビが選んだ情報を通して社会を見ていた。
ところが、インターネットが現れた。
SNSが現れた。
動画配信が現れた。
そしてAIが現れた。
今では個人でも、資料を探せる。
複数の記事を比較できる。
海外の情報を翻訳できる。
長い文章を要約できる。
自分の意見を文章や動画にして発信できる。
オールドメディアが本当に恐れているのは、AIが間違えることだけではない。自分たちが情報の入口を独占できなくなることである。
「昨日まで観客だった人が、編集席に座り始めた」
「しかも、AIという助手を連れてね」
「それは落ち着きませんね」
「人は椅子を奪われそうになると、椅子の歴史的価値を語り始めるものだ」
消えるのは古いメディアではなく、浅いメディア
「では、新聞やテレビは消えていくのでしょうか」
「古いから消えるわけではない」
教授は静かに答えた。
現場へ行く。
当事者に会う。
一次資料を確認する。
長期間調査する。
権力者が隠したい事実を掘り出す。
複数の証言を照合する。
誤りがあれば、目立つ形で訂正する。
スポンサーや政治権力に左右されず、事実を伝える。
そうした新聞やテレビは、AI時代にも必要である。
むしろ、情報が増えれば増えるほど、本物の取材と検証の価値は高まる。
「では、消えるのは何ですか」
「古いメディアではない。浅いメディアだ。」
独自取材をしない。
発表資料を書き換える。
ネット情報を流す。
刺激的な見出しをつける。
芸能人に感想を言わせる。
都合が悪くなればコンプライアンスを持ち出す。
スポンサーに配慮しながら、視聴者には中立を語る。
そうしたメディアは、新聞であろうとテレビであろうと、存在理由を問われる。
AIに奪われるのは、人間にしかできない仕事ではない。人間がすでに機械のように行っている仕事である。
情報の独占から、信頼の競争へ
「これからは誰が勝つのでしょう」
「情報を持っている者ではない」
「では?」
「情報を確かめた者だ」
誰が現場を見たか。
誰が一次資料を読んだか。
誰が異なる意見を比較したか。
誰が広告主や権力者に遠慮せず伝えたか。
誰が間違いを正直に訂正したか。
「新聞、テレビ、ネットメディア、個人、AIが同じ場所で競うのですね」
「情報の量ではAIが強い。取材では人間が強い。信頼では、日々の行動が決める」
「では、オールドメディアはAIを批判するより、信頼を取り戻すべきですか」
「それを断言すると、また敵をつくる」
「では、どう言えばよいでしょう」
教授は少し考えた。
「AIは間違える。新聞も間違える。テレビも間違える。ただし、AIだけは今のところ、スポンサーの顔色を見て番組内容を変えたり、都合が悪くなるとコンプライアンスを持ち出したり、お笑いタレントを並べて取材費を節約したりはしない」
「AIのほうが良心的ですか」
「そこまでは言っていない。AIには良心そのものがない」
「では、新聞やテレビには?」
教授はコーヒーを飲みながら答えた。
「あると信じたいね。少なくとも、社是には書いてあるはずだ」
