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⑯トルコ航空981便 予見されていた墜落事故(1974年3月3日 乗員乗客346名全員死亡)

~ 御巣鷹山日航ジャンボ機墜落事故の予兆 ~

 墜落の惨事から奇跡的に生還することはあっても、事故そのものは偶発的に起きるものではなく、必ず何らかの事由がある。本事故は、端的にいえば、軍事航空宇宙産業界を取り巻く政治、経済における様々な圧力がもたらした惨事であり、航空関係者が幾度となく警告し、 報道でも伝えられていた中で、人命を軽視した結果が引き起こした悲劇であった。言い換えるなら、真の原因が追究され、意味ある対策が取られたのかが再確認される前に、社会的関心が薄れてしまうといった現代社会の特性が顕著に影響し、事故を回避できなかったことを如実に示す事故でもあった。
 ワイド・ボディ機が墜落すれば、大惨事になると恐れられていたことが、現実となった。1977年3月27日のテネリフェでのジャンボ機衝突事故が起きるまでは、世界最大の死亡事故であり、1985年8月12日の日本航空123便ジャンボ機墜落事故(御巣鷹山事故)が発生するまでは、単独機として世界最大の航空事故であった。 しかも、本事例のように、人命が失われてしまう墜落事故が起きる前に欠陥という事故の真相が明らかになることは滅多にない。これまで取り上げてきた英国のコメット(デ・ハビラント 社)や米国のB737(ボーイング社)の事故を見ただけでも、様々な不具合が発生し、抜本的改善がなされるまでには多くの事故やインシデントが繰り返されてきた。
 本稿では、なぜ、DC-10型機がパリ郊外の森に墜落しなければならなかったのか、時計の針を戻して、事故の発生過程を検証する。

1 墜落直後の現場

 パリ郊外から北に45kmほど離れたところに、エルムノンヴィルの森(ダマルタンの木立ちともいう。)があった。1974年3月3日、晴れ上がった穏やかな日曜日の正午過ぎ、突如、静かな森に「ゴーッ」という音が鳴り響き、 巨大なジェット機が超低空で姿を現した。ジェット機は、 みるみるうちに高度を下げ、森の中に吸い込まれるように突っ込んでいった。その飛び方は、誰の目にも異常だった。直後、大きな爆発音と黒煙が上がった。村人に加え、 ハイキングやピクニックに訪れた人達が森の奥に駆けつけると、現場はまるで砲弾を撃ち込まれたような無惨な光景が広がっていた。墜落時の速度は430ktにも達し、巨大な運動エネルギーを持った状態で激しく地面に激突した機体は、瞬時に粉々に砕け散った。100tもの機内燃料は、機体の破壊と同時に巨大な雲を形成し、雷鳴のような轟音と火の玉を伴い瞬時に消滅していた。

事故現場の様子

 フランス国家保安隊地区司令のラニエ大尉は、事故の一報から1時間も経たないうちに、警察官、消防士を現場に駆けつけさせた。木々は、100×500~700mにわたってなぎ倒され黒く焼け焦げていたが、火災は発生していなかった。しかし、 事故現場に一歩立ち入ると、一面ゾッとする光景に、呆然と立ちすくんだり、気を失う者が続出した。自分たちが一体全体、何人分の遺体を収容しようとしているのか、乗員の他に森の中で巻き添えになった人がいるのかも見当がつかないほ ど、目を覆うばかりの惨状だった。
 間もなくして、事故現場には記者が多数押しかけた。彼らは、捜索救難に当たっていた大尉に次々と厳しい質問を浴びせかけた。それから30分ほど経った頃には、 記者とは異なる一団が近づいてきた。2~3人のスーツ姿の男性と1人の制服姿の客室乗務員で、トルコ航空のオルリー空港(パリ)駐在員だった。彼らは、1枚の小さな紙片を大尉に手渡した。そこには、乗員11人、乗客332人、赤ん坊1人と記してあった(後に、乗員乗客数は344人ではなく、346人に訂正された。)。
 大尉の判断で、遺体は現場近くにある、礼拝に使用されていない教会へ運び込まれ、貴金属、紙幣などは警察署の金庫に預けられた。乗客の腕時計は、12時42分で止まっていた。しばらくすると、県知事、副知事、市長、仏駐在のトルコ大使、警察や陸軍の高官、ジャック・シラク内務大臣(当時)が次々と現場に現れた。知事は、 大尉に、「現場に大勢の人間が、い過ぎる!」と文句をつけ、「関係ない者は追い払 え!新聞記者は残してもよい、連中には私が話をする!」と言い放った。大尉には どうしようもないことだったが、幸いにも、知事が記者会見を始めると、群衆は その場から立ち去った。その直後、大尉は、心が切り裂かれる光景を目の当たりにした。それは、幼児の腕をしっかりと握りしめた婦人の手だった。

2 それぞれの事故現場

 一方、オルリー空港でも大変な騒ぎになっていた。12:30に離陸したトルコ航空981便が、離陸から10分ほどが経ったとき、突然、 管制塔のレーダー・スクリーンから消え、交信も途絶えてしまっていたのだ。 機影が消える直前、管制官はスクリーン上で機影が2つに割れるのを見ていた。981便からの最後の交信は、「高度13,000ftに達しつつあり…」という全く正常なものであった。
 事故機はマクダネル・ダグラス社(MD社)製のDC-10で、イスタンブール(トルコ)からパリ(オルリー空港)を経由し、ロンドンに向かう国際便であった。折から、英国航空がストライキで欠航していたため、急遽981便に乗り換えた乗客も多く、満席状態だった。これ以前に、300人以上もの死者を出した航空事故は前例がなかった上に、日本人が48人も乗っていて犠牲になったことから、日 本でも衝撃をもって報じられた。このうち、38人は大学卒業を間近に控え、入社が内定していた会社の研修旅行の団体ツアー客であった。
 当該事故は、被害の大きさだけではなく、DC-10型機の最初の墜落事故であり、 事故の発生状況が極めて異常であった。なぜなら、パイロットの操縦にミスがあったとは考えられない飛行状況下で、パイロットが交信する暇もなかったことは、 異常の発生が突然であり、致命的な事態であったとしか考えようがなかったからだ。
 このような状況から、事故直後には次のような破壊工作説が報じられた。
【イスタンブール3日発UPI=共同】
 トルコ航空筋は3日夜、同社が得た情報によると、墜落したトルコ航空機 にはパリから日本人3人、アラブ人2人の合わせて5人のゲリラが乗り込んだもようで、彼らが持ち込んだ爆弾が原因らしいと語った。この情報によると、ゲリラは当初、パリ発ロンドン行きの英国航空機を破壊する計画だったが、英国航空がストのため、トルコ航空機に乗り換え、同機内で爆発してしまったという。
 また、トルコがイスラエルと国交関係を維持しているため、パレスチナ・ゲリラが、ソ連製の対空ミサイルを密かにパリ郊外に持ち込み、トルコ航空機に狙いを定め撃墜したという報道もあった。様々な憶測が渦巻く中、ICAO(国際民間航空機関)の条約に基づき、航空事故発生地国である仏政府は、航空監察官を委員長とする事故調査委員会を発足させ、米政府(FAA:米連邦航空局、 NTSB:米運輸安全委員会)の調査官とMD社の技術者の参加を得て、事故調査に乗り出した。

3 事故調査の概要

 現地調査では、原因の究明に重要な手掛りが発見された。墜落現場から15km手前の村に、機体後部左側の「貨物室扉」が割れて落ちており、付近には乗客6人の遺体と座席が散乱していた。墜落現場で回収されたFDR(フライト・データ・レコーダ)とCVR(コックピット・ボイス・レコーダ)の解析から、事故の全容が直ちに明らかになった。
 まず、FDRの解析によれば、離陸から9分後、高度12,000ftに達したときに異常が発生していた。突如、機首が下がるとともにエンジン推力が低下し、左にバ ンクした状態で高度を下げ始めた。このときの速度は約300ktだったが、降下していくにつれ加速し、地面に衝突したときは430kt以上(約800km/h)に達してい た。一方、CVRの音声解析からは、高度12,000ftに達した際、突然機内の与圧空気が抜ける音が記録されていた。その直後、機長の「何が起きたんだ!」という叫 び声に続いて、次のような会話が記録されていた。
副操縦士:客室の空気が、抜けた !(デコンプレッション:急減圧)
機  長:本当か! ……引け! 機首を上げろ!
副操縦士:引けません、反応がありません。
機  長:80kt
機  長:《トルコでよく知られるTV CMの挿入歌「おや何かしら、 何かし ら」を口ずさむ》
《オーバー・スピード警報音が鳴り響く》
機  長:油圧は?
副操縦士:油圧は利きません! ダメだ! ダメだ!
機  長:地面にぶつかるぞー ……スピード! ……ダメだ……
 これが、操縦室内の最期の声だった。その11秒後(空気が抜ける音がして から1分12秒後)に機体が地面に衝突する音が録音され、記録は終わっていた。 現地調査結果とFDR、CVR解析結果を突合わせると、次の事実が明らかとなった。
①  離陸から約9分後、高度12,000ftに達した際、異常が発生し、機内の与圧空気が抜けた。
② この際、「貨物室扉」が吹き飛び、乗客6名が座席ごと機外に吸い出された。
③ 事故機は操縦不能状態に陥り、機首を下げ加速しながら墜落していった。
 では、なぜ、「貨物室扉」が吹き飛び、操縦不能の事態に陥ったのか。米政府の事故調査官やMD社の技術者たちの脳裡に浮かび上がっていたのは、2年前、デトロイトで起きたDC-10による同種インシデントであった。

4 デトロイトでのDC-10危機的事象
       (ウィンザー・インシデント)

(1)発生状況
 ロサンゼルス発ニューヨーク行のアメリカン航空96便は、1972年6月12日18:36、最初の経由地であるデトロイトに着陸した。 30分ほどの駐機の間に、乗客の搭乗、貨物の積み下ろし、給油の後、次の経由地バッファロー(ニューヨーク州)に向けて19:12離陸を開始した。

96便と同型のアメリカン航空DC-10型機

 96便は、離陸後すぐにカナダ領空に入り、約4分が経った19:24:32、高度11,750ft(オンタリオ州ウィンザーの上空)に達した際、突 然、「バサッ!」という音響が機内に鳴り響き、操縦室内はゴミと埃が舞い上がって、一瞬で何も見えなくなった。
 機長は、その瞬間、空中衝突によって操縦室の風防が吹き飛んだのではないかと思い、思わず、「どうしたんだ!」と叫んだ。ほぼ同時に、エンジン火災警報装置と高度警報装置の警報音が鳴った。 スロットル・レバーは、3つとも停止寸前のアイドル位置にまで戻り、ラダー・ ペダルが左いっぱいの位置まで動き、機体は右へ傾いた。機長は、「火災警報が鳴っている!止めてくれ!」と叫んだが、立ちこめた埃で、何番エンジンの警報灯が点灯しているのか直ぐに確認ができなかった。機長はオート・パイロットをディスエンゲージし、「私に渡せ!」と怒鳴って操縦輪を握り、着陸まで操縦を担当した。
 一方、客室内では事故発生の瞬間、急減圧が発生し、砂が混じったような灰色がかった空気、「冷たい霧」のようなものが一面に立ちこめた。客室後 部の床から激しく空気が流れ出して 、床は陥没、一部は貨物室内に落ち込んでいた。幸いにも、陥没した床の上の座席には乗客がいなかったため難を逃れたが、 客室前方に立っていた客室乗務員が、機外に吸い出される激しい空気の流れで吹き倒されたり、通路の床のパネルが跳ね上がって乗客の顔に当たるなどで軽傷者が出た。急減圧に伴うこれらの一連の事象は、客室とドアで隔てた操縦室内でもほぼ同時に発生した。
 故障した尾部の第2エンジンのスロットル・ レバーは、ほとんど停止位置に戻ったまま動かなかった。これは、床下を通っている第2エンジンや操縦舵面のコントロール・ケーブルが、 陥没した床により押しつけられて動かなくなっ たり、切断されるなどしたためで、ラダー(方向舵)も思うように作動せず、エレベータ(昇降舵)の動きも鈍くなっていた。

客室床構造内を通るコントロール・ケーブル

 機長は、管制センターに「緊急事態の発生」を通報し、デトロイト空港に戻るよう管制官から指示された際、「戻れるかどうか分からん、 どこかに緊急着陸できる空港はないか?」と尋ね、いかなる緊急事態かの問いには、「姿勢の制御が困難だ。ラダーが利かない。あれこれめちゃくちゃだ。何かが起こったんだが、それが何だか分からないんだ!」と答えた。客室でも、貨物 室内の何らかの異常発生には気付いていたが、何が起こったのかは不明だった。 このため、引火による火災の恐れもあり、機長は燃料の投棄を踏み止まった。
 機長らは、ラダーが使えないばかりか、エレベータの動きが鈍っていたために、生き残った左右翼下の2つのエンジンの推力差を利用し、機体のピッチ、 ヨーの操縦を補わなくてはならなかったが、辛うじてエルロンだけは損傷を免れていた。その後、最終進入に入りフラップと脚を下げたところで、降下率が1,500ft/min と過大になってしまい、進入速度が通常の130ktを上回る160ktに達したが、更に推力を上げ降下率を800ft/minに抑えつつ、滑走路に進入しなければならなくなった。客室乗務員は、緊急着陸に備えて、ビニール袋を持って着陸時に危険を及ぼす恐れのある眼鏡、万年筆や靴、クシなどの宝飾品を乗客から集めて回った。接地直前、機長は操縦輪を引き機首を起こそうとしたが、まるで錆び付いたかのように動かなかった。そこに、副操縦士の力が合わさって、ようやく機首が引き起こされが、接地したときには186ktに達しておりランウェイ右側に逸脱したものの、とっさの判断でエルロンを左一杯に使った。乗客67名の脱出は混乱なく、僅か30秒ほどで完了した。
 後に、NTSBは事故調査報告書の中で、「飛行中の実例まれな緊急事態に 臨機応変に判断、対処した乗員の手際を賞賛する。また、優れた訓練と高い職 業的態度の現れである客室乗務員の行動を賞賛する」と異例の讃辞を贈ったのであった。
  驚くべきことに、この年の初め、96便のマコーミック機長(当時52歳)はDC-10の乗務員に選ばれたが、その際、従来機と異なり、DC-10の操縦舵面には油圧装置しかなく、故障が発生した際のバック・アップとなる手動操縦装置がないことに不安を感じ、全油圧系統の作動不能を想定したシミュレータによる訓練を独自に実施していた。ラダーやエルロンが使えなくても、エンジン推力の調整のみで、離陸後の上昇から着陸進入まで、スロットル・レバー以外の操縦装置にノータッチで飛ぶことを修得していた。
 不運にも、機長が想定していたよりも事態は深刻で、飛行経験も56時間であったが、慌てて緊急降下せず、次の如くじっくりと操縦系統の点検を行ったことが奇跡の生還につながった。 機長は、操縦輪を左45°にセットすれば、右ヨーイングが修正可能なことが分かった。このとき、ラダー・ペダルは左フル位置で止まっていたが、ラダーは右に切られた状態にあった。 次に、尾翼エンジンの燃料噴射ポンプのスイッチを切れば、遊んでいる尾翼エンジンが完全に止まり、エレベータの負担が減ることも判った。これは、重心位置より高い位置にある尾翼エンジンの推力停止により(相対的に)ピッチ・アップが生じるためだ。スピンの危険を避けるには、左右ともバンク角は15°までしかとれず、エンジンの推力差で方向(ヨーイング) の調整ができることを知った。機長は、ゆっくり機体を逆方向に転じ、デトロイトに引き返したのだった。
(2)発生原因
 ウィンザー・インシデントの直接の原因は、機体後部の貨物室扉がロックされていない、いわば、半ドアの状態で離陸したことであり、それにより上空で不時に開放した扉が吹き飛び、貨物室の空気が抜けて、客室と貨物室の間に気圧差が生じ、床が陥没したのであった。

着陸後の貨物室の扉の様子

 そもそも、設計時にこうした事態を想定していなかったため、客室床の構造は当該インシデントのような状況に対して耐えうる強度を有して おらず、また、エンジンの操作や操舵をするケーブルが、 床構造の直下に配置されていたのであった。
 扉がロックされていなかった理由は、デトロイト空港で貨物の積み下ろしを行った地上作業員が、扉を閉める際、電動モータが停止して、レバー操作で扉が完全に閉まらなかったため、膝を使って無理な力を加え、レバーを強引に閉の位置まで押し込んだことであった。悪いことは続くもので、これにより作動機構が変形し、扉の警報装置の電気回路が短絡したため、扉のロックが不完全であるにも関わらず、操縦室の警報灯が消灯(扉がロックした状 態を示す。)してしまっていた。このため、乗員が扉の異常に気付くことはなかった。
 実は、アメリカン航空の地上作業員は、レバー操作の後、扉の通気窓が少し捻れていて、シールが密着していないことに気づき、何度もレバー操作をやり直していた(ロックピンにボロきれが挟まっていた。)。しかし、結果は同じだったことから、近くにいた整備士と監督者に相談した。二人の返事は、「なぁに、心配することはない。DC-10の貨物室扉の通気窓の捻れはしょっちゅう起こってる(どうせ、機内の与圧がかかれば通気窓は規定どおりの位置になり、完全に閉の状態になるさ。)」というものであった。

DC-10貨物室扉の位置と構造

 当該インシデントの13日前には、DC-10の扉のロッ クに関するSB(技術情報)(SB①)が製造メーカのMD社から各航空会社 に出されていた。内容は、「扉を作動させる電動モータが電圧降下の発生によって停止し、 ロックが不完全になる可能性があり、手動操作による出発遅延を防止するため 、電圧降下が生じないように電源ケーブルを太いものに交換する」ことを推奨するものであった。「推奨」とは、SBには強制力はなく、航空会社が任意に行うもので、航空会社が費用負担の義務を負っていることを意味する。SB①が発行された直後だったことから、当然のことながら、アメリカン航空96便の電源ケーブルは交換されていなかった。そもそも、SBは整備作業の効率や 乗客の利便性の向上、製造中止やコスト削減による部品の置き換えなど、安全に直接影響せず、緊急性を要しない内容など様々な内容が含まれ、頻繁に発行される状況にある。しかし、これらの中には、改修や点検整備の追加・変更など、安全上重要なものも含まれるから、判断は容易ではない。SB①は、記述表現から安全に影響がな い内容と見過ごされ、地上作業員に周知されていなかったために引き起こされ た側面が強いと考えられる。現に、当該インシデントの3か月前、このアメリカン航空のDC-10では、扉が閉まらなかったため、手動で閉めるという不具合が発生していたのであった。
(3)じ後の対策
 MD社は、当該インシデントの後、アラート(緊急)SB(SB②)を発行した。 その内容は、扉の改修に係る次の2点だった。
ロックピンが正常な位置にあるかの確認のための、「のぞき穴」を作る。 ハンドルに無理な力を加えないという表記の「警告表示プレート」を貼る。
 しかし、この対策では不十分と考えたのか、その僅か17日後、新たなSB(SB③)を発行した。その内容は、次のとおりである。
ロックピンの作動機構の変形を防ぐため、補助板を装着する。 これにより、ロックピンが正常の位置にない不完全なロック状態では、扉のレバーを無理に「閉」に押し込むには200kg以上の力が必要となり、デトロイト空港で貨物の積み下ろしを行った地上作業員が強引に膝で押し込ん だような不安全な行為に対しては、少なくとも対策がとられた。
扉警報灯の電気回路が短絡しないよう、スイッチの調整を行う。
 前出のトルコ航空981便の事故は、これらのSBの発行から2年近くが経っ て発生した。フランスの事故調査委員会は、扉のロック機構が不完全だったことが事故原因と発表したが、SBによる対策が有効ではなかったのだろうか。なぜ、事故を防ぎ得なかったのか、それには設計・製造の段階まで話を遡る必要がある。

5 トルコ航空事故機とSBの関係

 フランスの事故調査委員会は、SB②で示された「のぞき穴」は小さ過ぎて、懐中電灯を使用しても見にくい上、国際線で使用される旅客機が世界中の空港で、それも自社以外の作業員によって貨物の積み下ろしが行われる場合があることを考えれば、英語標記による「警告表示プレート」も対策としては不十分と指摘した。 事実、981便の貨物積み下ろしを行った作業員は、ハンドル横に貼られた「プレー ト」の警告表示を読めなかった。しかし、仏事故調査委員会は、当該作業員はDC-10での作業経験もあり、扉を閉める際にミスがあったことを示す証拠は見つからなかったとした。ラッチが完全に閉まらなかった原因としては、アクチュエータのロッドが十分に伸びきっておらず、「オーバーセンター」の位置に達していない状態だったことが判明した。その理由として、 作業員が電気モータのスイッチを押している時間が短かったこと、モータのトルクが劣化で減少していた、あるいは過熱防止の装置が作動した、電源が停止した可能性などが推定された。
 問題となるのは、SB③の適用の有無であった。調査官らは、回収された扉を一目見て、衝撃の事実に驚愕した。事故機が製造中の時点で既に発行されていたSB③によって、装着されているはずの(ロックピンの作動機構の変形を防ぐ)補助板が付いていなかったのだ。後に、米連邦議会の航空小委員会の公聴会において、 MD社社長(当時)は、「事故機の製造記録には、3つのSB全てが実施済みと検査スタンプが押されていたため、この検査員を業務から外し処分した」とする一方、 「作業を行った者は特定できず、補助板が取り付けられなかった経緯は分からない。 説明できない!」とした。これだけでも十分に問題となる証言だが、同社長は信じ られないことに、事故原因は「地上作業員が、ハンドルの正しい操作を知らなかっ たためだ! ハンドル操作に普段より力が要るという状態であれば、どこかおかし いと気付いたはずだ!(原因は、作業員のミスだ!)」と主張したのであった。

6 SB発行に隠されていた真実

 実は、前述の3つのSBは、扉の不具合に関わるSBのうちのほんの一部でしかない。981便の事故が発生するまでに発行された扉に関わるSBの件数は43件にも上り、部分的な改訂を含めると74件にもなっていた。この状況は、設計の欠陥が強く窺われるもので、大幅な設計変更を可及的速やかに実施すべきであった。
 1969年夏、MD社がDC-10型機の耐空証明を取得する際にFAAに提出するFMEA(想定される故障の形態及び効果の分析報告書)として胴体の細部設計と製造を担当したゼネラル・ダイナミクス社が起案した文書には、貨物室扉に関して次のとおり驚くべき予見が示されていた。それは、「手動レバーがきちんと90°回転して規定の位置まで降りたかどうか肉眼で確かめて施錠の良否を点検するよう地上勤務員に要求しても、人的ミスは起こりうる。お決まりの反復作業を取り扱っているうちには、この点検の手抜きをすることも考えられるし、またレバーは胴体下部の湾曲した表面に取り付けられているから、肉眼で確かめても不正確な点検しかできないこともありうる」と 。 続けて、人命の損失に伴う危険につながる事故の想定として、「扉が閉じ、レバーも降りるが、 完全に施錠されていない。この際、警報灯の電気回路が故障し、表示灯は扉が正規の位置(閉) にあるとの表示を出す(もしそうなれば、飛行中にドアが開くような状態が起こりうる。)。その結果、急激な減圧が生じ、床は構造的な損傷を被り、尾翼の操縦舵面もはじき出された貨物やちぎれたドアで傷つく。これは、機体そのものを喪失する第4級の危険に該当する。」と。
 また、ゼネラル・ダイナミクス社の製品技術部長の覚え書き(1972年6月27日付)にも、次の記述がある(抜粋)。「DC-10型機に関して、ゼネラル・ダイナミクスが長期的な責任を負わされることになりはしないか、私の懸念は強くなる一方だが、それには幾つかの理由がある。1970年に実施した地上試験の結果、DC-10には、もし貨物室に爆発的な減圧が発生した場合、そ れが破滅的な事故につながるという固有の欠陥があることがはっきりした。この先、20年のうちには、DC-10の貨物室扉が開いてしまうとか、他の原因で貨物室に減圧を生じる事故は避けられそうもないと思われるし、こうした事故は大抵機体そのものの喪失につながる。 経営のトップレベルがMD社と折衝し、大惨事につながる客室の床の崩落を防ぐため、早急にDC-10の設計を根本的に変更するよう説得すべきだ」と。だが、この意見具申は社内で握りつ ぶされた。実は、地上試験の後、ゼネラル・ダイナミクス社は、貨物室扉の欠陥を是正する提案も行っていたが、MD社が一方的に通気窓を取り付けるよう指示した事実とともに、扉の操作、ラッチ、ロック機構に関する設計の基準と特性はMD社の仕様によるものであったことがゼネラル・ダイナミクス社の社内メモ(1971.7.6付)で明らかとなっている。MD社は、ゼネラル・ダイナミクス社による草案も代案もFAAに提出をしなかったし、一方認可するFAAも、扉の不具合に関する情報を得ていたが、 MD社が対策を施したことを受け、その対策の有効性の確認をしないまま、型式証明の際にメーカに要求する検査項目の対象から扉のシステムを除外したのであった。DC-10の場合、耐空性の審査は、42,950項目あり、うちFAA職員が実施したのは、 11,055項目(約26%)に過ぎず、残りはMD社のDER(FAAが任命する認定委任検査官)が行っていたことにも、問題を隠蔽したり先延ばししやすい構図があった。
 要は、DC-10の扉の不具合は、FAAの型式証明を取得する以前、地上試験の段階から既に表面化しており、与圧試験中に扉が突然開いて、扉付近の客室床が崩落する事態まで起きていた。しかし、981便の事故の予兆ともいえるこの不具合の発生は、完成間際だったこともあり、MD社はロック機構を根本から見直すことはせず、扉に付いている通気窓のレバーが閉まらないことにより、扉のロックが不完全状態であることを地上勤務員に気付かせるという、いわばその場しのぎの対策(パッチ当て)をとったことに重大な問題があった。
 ただ、MD社は、設計当初は扉を閉める作動システムには油圧が望ましいと考えていた。ゼネラル・ダイナミクス社も、この種の油圧システム開発の技術に手慣れていた。しかし、これを贅沢過ぎるとして、電気モータのシステムに変更を要求したのが、他ならぬウインザー・インシデントが発生したアメリカン航空であった。なんと、MD社は、販売競争のため安易に要求を受け容れたのだが、5年後、このシステム変更が重大な事態を引き起こすとは、関係各社の経営陣らは考えてもみなかった。しかも、アメリカン航空の受注数は、DC-10開発費の損益分岐点(200機の販売で予想開発コストを回収する見積もり)の10%を、埋めたに過ぎなかったのである。
 

7 後日談
      (御巣鷹山墜落事故の回避は、不可能だったのか)

 1985年8月12日、日本航空123便ジャンボ機が操縦不能となり、 御巣鷹の尾根に墜落した事故から遡ること約10年前の1973年2 月、FAAは、DC-10でのウィンザー・インシデントを受け、MD社、 ロッキード、ボーイングの3社に宛て、ワイド・ボディ機に急減 圧が生じた際の懸念を表明するとともに、調査を要請する内容の書簡を送付した。
 特にボーイング社に対しては、ジャンボ機の設計を早急に再点検するよう要請したのであったが、ボーイング社は FAA の見解に対し、「B-747の油圧配管は床下を通っているが、コントロール・ケーブルは通っていない!」と主張し、DC-10の後始末の巻き添えは迷惑とでも言いたげに不快感を顕わにした。更に、「貴庁のいう減圧状態は貨物室扉のロック機構のフェールセーフがなっていないから」との内容の書簡を送った。
 この問題は、1年余り続いたが、 ボーイング社はジャンボ機に問題はないとの見解を変えなかった。これらの事実は、『予測された大惨事』(草思社)によって、1978年の時点で日本でも誰もが知ることができた。
 また、アメリカン航空96便のマコーミック機長が、エンジンの推力差を利用して姿勢制御することをシミュレータで訓練し、実際に墜落の危機を回避した事実も併せて考えると、この時点で、既に日航事故機のJA8119は就航していたわけだが、航空機メーカや航空会社が、このような予測された事態について、自らの問題として真摯に取り組んでいたなら ば、御巣鷹山事故の惨劇は避けられたのではないか。
 少なくとも、油圧システム4系統の喪失とい う危機的事態さえ想像していたら、技術者は油圧のヒューズを取り付けたり、集中する配管を分散したりしたかもしれないし、パイロットはエンジン推力のみで生還できる操縦方法を訓練したかもしれない。可能性がゼロではないことだけは確かである。

B-747油圧配管等の配置
 『航空ジャーナル(No.180)』(1985年11月号) P.48の図を編集


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