古典擅釈(20) 強さについて『折りたく柴の記』①
『折たく柴の記』は将軍家宣・家継に仕えた儒者、新井白石の自叙伝です。
序文のほか上中下の三巻構成で、中下巻は最高政治顧問として白石が関与した政策立案や訴訟について詳細に記されています。
政治史の重要な資料であり、研究者にはこの上なく興味をそそられるものでしょうが、素人には少々退屈なのも否めません。
むしろ父母のことや自身の生い立ちなどを記した上巻は繰り返し読んでもおもしろく、私たちにとっても資するところが多いと思われます。
思ひ出づる をりたく柴の 夕煙 むせぶもうれし 忘れがたみに
亡き人を思い出す折に、折っては焚く柴の夕煙よ。その煙にむせぶのも今ではうれしいことだ。火葬の煙にむせび泣いたことが、忘れ難いあの人の忘れ形見として思い出されるから。
『折たく柴』という書名は、新古今集にある後鳥羽院のこの歌を踏まえています。
白石にとって忘れがたい人というのは、父57歳、母42歳のときに自分を生んでくれた、その父母です。
白石の父は正済といい、上総国久留里藩の土屋利直に重用された武士でした。
昔気質の謹厳実直な人物で、白石も父のことを「むかし人」と呼んでいます。
正済は慶長六年(1601)に生まれ、31歳の時に土屋家に仕官しました。
その頃、夜盗の疑いをかけられた三人の侍が召し捕られ、正済に預けられたことがありました。
三人は刀脇差を取り上げられ、門の櫓の上に押し込められています。
正済は単身、櫓に乗り込むと、三人に刀脇差を返し与えました。
「おぬしら、逃げたいのならわしの首を切って行け。
わし一人ではおぬしら三人にかなうはずがない。
とういうことは、このわしの刀も無用の長物というものじゃ」
こう言うと、正済は自分の刀を投げ捨てました。
そして三人と同じものを食い、同じ所に起居しました。
十日後、三人にかけられた疑いが晴れます。
けれども、出仕は禁じられ、追放処分となりました。
別れ際に及んで三人の侍は正済に言いました。
「殿は我ら三人をおぬし一人に預けられた。
さだめて我らの事を腰抜け侍と卑しめてのことであろう。
それゆえ、いずれ思い知らせてやろうと思っておった。
だが、丸腰のおぬしを斬ったなら、果たして腰抜けどもであったわいと思われるのも悔しく、死罪とならば致し方ないが、幸いに命永らえたならば、その時こそこの恨みを晴らさずにおくものかと息巻いておった。
このたび釈放となり、おぬしの情けによって刀脇差も失うことなく、武士の身分を保つことができた。
このご恩は忘れてはならないと思うと、今では恨みも晴れたような心地がする」
お家の立場とともに、濡れ衣を着せられた三人の侍の心情にも慮った正済の対応であったと言えます。
豪気な彼の一面を伝えるエピソードです。
〈続く〉
