【家族のキロク】東京から長野の農家へ嫁いだ母。その激動の生涯と、見送った後の私の告白。
【いつも読んでくださる皆様へ】
毎日、私の拙い日記や推し活の話を読みにきてくださり、本当にありがとうございます。
皆様との繋がりが、今の私の大きな活力になっています。
実は、私がこれまで投稿してきた100以上の日記の中で、たったひとつだけ「有料」に設定していた記事がありました。
それは、数年前に見送った私の亡き母の激動の半生と、娘である私の本当の葛藤を綴った、とても個人的で大切な「家族の記録」です。
「本当に大切に読んでもらいたい」という気持ちから有料にしていましたが、誰の目にも留まらずに埋もれさせてしまうのは、どこか寂しく、母にも申し訳ないなと思うようになりました。
そこで本日、有料設定を解除し、無料公開としてしばらくトップに固定することにいたしました。
私の育った背景、そして今の私を作ってくれた母の生きた証を、少し長いですが、一人の主婦の独り言として受け取っていただけたら幸いです。
2026年8月5日
🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸
2026年6月24日記
今日は、私の亡き母の話をさせてください。昭和一桁生まれの私の母は、東京の南千住という下町で生まれ育ちました。
そんな都会育ちの母の疎開先が、ここ長野県でした。
すでにその時、親同士が「将来は結婚させよう」と決めていたらしいのです。
断ることもなく、東京から長野の農家へと嫁いできた母。
相手(私の父)に惹かれていたとはいえ、当時の母にとっては相当な覚悟のいる決断だったと思います。
何しろ、やったこともない田畑の仕事に加え、養蚕もやっている農家です。
しかも、義両親との同居。
今の私だったら、相手がどんなに良い人であっても、この条件ではきっとお断りしていたと思います。
お米や野菜には困らない家でしたが、決して裕福ではない農家でした。
私の祖父は60代で早くに亡くなりましたが、祖母は93歳まで長生きしました。
そう言うと、「おばあちゃん、すごいね!」と言われそうですが、晩年の10年ほどは寝たきりになり、母がずっと一人で面倒を見ていました。
その時すでに私は結婚して自分の家庭を持っていたため、母の手助けをしてあげることが何一つできませんでした。
93歳で祖母が亡くなったとき、娘である私が真っ先に思ったのは、
「お母さん、やっと楽になれたね」
という安堵の気持ちでした。
介護から解放され、これからは実家と私たちの必要とする分だけ田畑をやり、あとはゆっくり暮らしてねと心から願いました。
この時、母は64歳。
ちょうど、今の私と同い年です。
農家の仕事に追われ、寝たきりの祖母の介護があり、私には母との楽しい思い出がほとんどありません。
遠出といえば、夏休みに東京の母の実家へ行くくらいでした。
「これからやっと、母の自由な人生が始まる」そう思っていた矢先のことでした。
そのわずか2年後くらいに、母は雪道で転倒し、腰を圧迫骨折してしまったのです。
私の実家は田舎ですが、国道沿いで大型トラックなども頻繁に走っています。
その国道の真ん中で、転んで大の字になったというのです。
車が来なかったのが不幸中の幸い。もしあの時…と思うとゾッとします。
その後遺症で徐々に歩くことが困難になり、70代半ばには車椅子の生活になってしまいました。
父がなんとか面倒を見ていましたが、その後、母が78歳の時に、両親揃って施設に入居することになりました。
「嫌だ」と言われるのを覚悟で入居の話をしてみたら、二人からあっさりと「施設に入るよ」と言われてしまい、私はその場で号泣しました。
祖母の介護を10年以上やった母、中心になって支え続けた父。
介護の大変さを知っているので、子供たちにはそんな思いをさせたくないと思ったのでしょう。
「私が近くで面倒を見てあげられなくてごめん」という申し訳なさと悔しさでいっぱいでしたが、二人が納得してくれて本当によかったです。
その後、父は82歳、母は86歳で亡くなりました。
施設に預けていると言っても、家から近かったので毎日のように会いに行きました。
少し調子が悪いと呼び出されたりもしました。
直接の手を動かす介護はしていないのに、毎日の生活の合間を縫って駆けつける日々に、当時の私はどこかイラッとしてしまうこともありました。
どうして最近になって、当時のことをこんなに鮮明に思い出したのか。
それは、連日テレビで流れている「関東に大接近する台風」のニュースでした。
実は、母が亡くなったあの日は、大型台風で千曲川が大氾濫した、あの大災害の日だったのです。
あちこちで土砂崩れや家屋の被害が出て、外は大パニック。
そんな中、私の弟は何も持たずに必死で病院へ駆けつけました。
しかし、結局、最期には間に合いませんでした。
しかもその後、土砂崩れによって弟は自分の家に帰れなくなってしまったのです。
仕方がないので、弟は私の家に何泊か寝泊まりすることになり、喪服すら持っていなかったので、近くの紳士服店に駆け込んでフォーマルスーツを大急ぎで作り、なんとか葬儀を執り行いました。
今思えば、「大好きな弟(息子)をまだ家に帰らせたくない」という、母の最後の強い念力だったのかもしれません(笑)。
おかげで、慌ただしくも、最後は家族みんなで長く一緒に過ごすことができました。
そんな大騒動のなか、母の最期を看取ってひと段落した時。
私の心に浮かんだのは、「やっと自由になった」という本音でした。
しばらくはいろいろな片付けや手続きに追われていましたが、少し落ち着いた時に、激しい自己嫌悪が私を襲いました。
「二人がいなくなって自由になった」
なんて思ってしまった自分に対する嫌悪感。
そこからずっと、何もしてあげられなかったことや、楽しかった思い出が何もないことなどが、ぐるぐると頭を駆け巡るようになったのです。
みなさんは、さだまさしさんがお母様とのことを歌った『無縁坂』という曲をご存知でしょうか。
「運がいいとか 悪いとか
人は時々 口にするけど
そういうことって確かにあると
あなたをみててそう思う」
この歌詞が、当時の私にはあまりにもぴったりで、思い出しては何度も胸が締め付けられました。
「東京にいたらもっといい暮らしができたんじゃないの?」
「やったことない農業をやって、寝たきりの義母の面倒を見て、自分も歩けなくなるなんて。」
「お母さんを見ていると、神様なんていないんだって思ってしまう。」
母の死後2ヶ月目くらいのこと。
年末に東京へ行く機会があり、上野に宿を取った私は、あの歌の舞台である「無縁坂」を見に行きました。
母の生きた軌跡を、その景色に重ね合わせるようにして見つめていました。
そして、その1ヶ月後くらいに、あの「コロナ禍」が始まりました。
流行り始めが娘たち家族のいる北海道だったこともあり、不安な毎日が始まり、ついに身近なところまで感染が広がっていきました。
私自身はコロナにはかからなかったのですが、母への後悔とコロナへの心配が重なり、心が完全に折れて、うつ病になってしまったのです。
「母のことなんて、今さら後悔しても何にもならないのに」
そう分かっているのに、どうしても自分を責めてしまう。
初めて「メンタルクリニック」という場所のドアを叩きました。
こういう時に、私の「繊細さん(HSP)」の気質が出てしまうのですね。
でも、今はすっかり大丈夫です。
あの日々を乗り越えた今の私は、こう思っています。
「私が母と楽しめなかった分、これからは孫たちと目いっぱい楽しもう!」
きっと天国の母も、「そうだよ。」って言ってくれると思うから。
お母さん、大変な人生だったかもしれないけれど、私は今、お母さんから貰った愛を繋いで、とても幸せに暮らしているよ。
-------⭐︎
最後までお読みいただきありがとうございました。

