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なぜドラッカーは「未来学者」ではなく「社会生態学者」を名乗ったのか?

未来を予測する。これほど人を惹きつける言葉はないかもしれません。経営者、投資家、評論家、そして私たちスタートアップの人間も、毎日のように「次に何が起きるか」を言い当てようとしています。

けれども、マネジメントの父と呼ばれたピーター・ドラッカーは、生涯をかけて別の呼び方にこだわり続けました。「社会生態学者」です。未来を予測するのではなく、すでに起こった未来を見る。流行を追うのではなく、社会という生態系の深部で何が動き始めているかを静かに観察する。その姿勢こそが、彼の思想の核心にありました。

今回紹介するのは、『歴史の哲学 そこから未来を見る』(P.F.ドラッカー著、上田惇生編訳、ダイヤモンド社)です。同じ「ドラッカー名言集」シリーズの『経営の哲学』を以前取り上げましたが、今回の『歴史の哲学』は、ドラッカーが単なる経営学者ではなく、20世紀を生き抜いた思想家であったことを強く感じさせる一冊でした。

この記事では、大転換期、知識社会、組織、マネジメント、NPO、経済至上主義、少子高齢化、社会生態学といったテーマに沿って、印象に残った言葉を引きながら考えたことをまとめていきます。


大転換期:いまは数百年に一度の境界線

ドラッカーが繰り返し語るのは、「いま我々は歴史の境界を越えている」という時代認識です。

数百年に一度、際立った転換が起こる。世界は歴史の境界を越える。社会は数十年をかけて、次の新しい時代のために準備する。世界観を変え、価値観を変える。社会構造を変え、政治構造を変える。技術と芸術を変え、機関を変える。やがて五〇年後には、新しい世界が生まれる。

単に「変化の時代だ」と言うのとは、まったく違う重みがある言葉です。そして、転換期にこそ陥りやすい落とし穴をドラッカーは鋭く指摘します。

いまだに昨日のスローガン、約束、問題意識が論議を支配し、視野を狭くしている。それらが、今日の問題解決に対する最大の障害となっている。

古い枠組みが急速に無効になっているのに、議論は古い枠組みのまま続いてしまう。これはスタートアップ業界にいても日々感じるところです。既存産業の前提で新しい問題を考えている限り、本当の意味では次の時代は見えてきません。

知識革命:知識は「成果を生むために適用される」もの

ドラッカーは、いま起きている転換の本質を「知識革命」と呼びます。大事なのは、知識そのものではなく、知識の「使い方」が変わったという点です。

効用を与えるものは知識にあらず

今や知識は、成果を生み出すために既存の知識をいかに適用するかを知るために適用される。これがマネジメントである。

マネジメントを「知識を知識に適用する技術」と定義した一文に、私はドキッとしました。管理術でも統制でもなく、知識を知識に適用すること。極めて哲学的な定義です。

Glaspを運営していて実感するのも、知識の「量」ではなく「適用」が価値を生むという事実です。世界中の優れた記事や書籍にアクセスできる時代になった以上、差をつけるのは「どう読むか」「どう繋げるか」「どう使うか」の部分です。ドラッカーが半世紀前から説いていたことが、ようやく多くの人の日常感覚になってきたのかもしれません。

知識社会:境界なく、上昇が自由で、そして過酷に競争的

ドラッカーは、知識社会の特質を次の三つに整理しています。

知識社会としてのネクスト・ソサエティには、三つの特質がある。第一に、知識は資金よりも容易に移動するがゆえに、いかなる境界もない社会となる。第二に、万人に教育の機会が与えられるがゆえに、上方への移動が自由な社会となる。第三に、万人が生産手段としての知識を手に入れ、しかも万人が勝てるわけではないがゆえに、成功と失敗の併存する社会となる。

三つ目の指摘が、特に重いと感じます。「万人が知識を手に入れる」ことは「万人が成功する」ことを意味しない。むしろ、知識社会は誰にとっても逃げ場のない競争社会になる、とドラッカーは言っているのです。

だからこそ、専門知識を持った人どうしが「結合」することが決定的に重要になります。

個々の専門知識はそれだけでは何も生まない。他の専門知識と結合して、初めて生産的な存在となる。知識社会が組織社会となるのは、そのためである。

一人でコードが書けても、一人でマーケティングができても、一人で資金調達ができても、プロダクトは作れない。専門知識を結合させる場として「組織」が必要になる。スタートアップの共同創業というあり方そのものが、この一文に説明されている気がします。

組織社会:組織は「社会への貢献」のために存在する

ドラッカーの組織論で最も印象的なのは、組織の存在理由を「社会への貢献」に置いている点です。

組織は、それ自身のために存在するのではない。それは手段である。

組織の目的は、社会に対する貢献である。

組織とそのマネジメントの力の基盤となりうるものは一つしかない。成果である。成果をあげることが、組織にとって唯一の存在理由である。組織が権限をもち、権力を振るうことを許される理由である。

「組織は手段である」「成果が存在理由である」。言葉にすれば当たり前に聞こえますが、実際の組織運営では驚くほど簡単に忘れられます。組織を維持すること、組織内のポジションを守ること、社内のルールを運用することが、いつのまにか目的化してしまう。

さらにドラッカーは、組織の一体性について厳しい指摘を残しています。

多様化は成果能力を傷つける

多様性を尊ぶ現代においては、一瞬反発を覚える一文かもしれません。しかしここでドラッカーが言っているのは、「組織は目的に集中すべきだ」ということだと私は読みました。組織が使命をぼやかし、あれもこれも手を出すと、成果を出す力そのものが毀損される。一点に絞り続ける覚悟こそが、長期的な強さになるという指摘です。

マネジメント:人類の生活を向上させられる、という信念

マネジメントについてのドラッカーの定義は、極めて哲学的です。

マネジメントとは、現代社会の信念の具現である。それは、資源を組織化することによって、人類の生活を向上させることができるとの信念である。

マネジメントを「管理」と捉えている人にとっては、かなり衝撃的な定義だと思います。ドラッカーにとってのマネジメントは、近代という時代が生み出した「人類は自分たちの生活を自分たちの手で向上させられる」という信念そのもの。つまり近代文明の中核技術である、と位置づけているのです。

高度の知識と技能をもつ膨大な人たちが経済活動に従事している。これが可能になったのは、マネジメントのおかげである。

知識労働者が能力を発揮するには、彼らの知識を成果につなげる仕組みが必要です。その仕組みこそがマネジメントだ、とドラッカーは言い切ります。経営とは、知識労働者の能力を開花させる「場」を設計する営みなのだと思います。

NPOの役割:市民性の回復

意外に思われるかもしれませんが、ドラッカーはNPO論の先駆者でもありました。彼はNPOに二つの重要な役割があると書いています。

NPOは人そのものを変える

NPOはもう一つ重要な役割を果たすようになっている。市民性の回復である。

私はこの「市民性の回復」という表現が良いと思います。経済社会が発達すればするほど、人は「消費者」「労働者」「株主」として扱われるようになります。しかし人間はそれだけの存在ではない。地域やコミュニティや社会に対して能動的に関わる「市民」という役割を取り戻さなければ、人間としての充足は得られないのだとドラッカーは言っています。

効率でも利益でもなく、人間の「市民としての顔」を取り戻す場としてのNPO。この位置づけ自体が、ドラッカーの人間観を象徴していると思います。

経済至上主義の破綻:人間は経済的存在以上の何か

本書の中でドラッカーが最もラディカルになるのが、「経済至上主義」への批判です。

社会は、一人ひとりの人間に位置づけと役割を与え、そこにある権力が正統性をもつとき、初めて機能する。個人の位置づけと役割は、社会の枠組みすなわち社会の目的と意味を規定する。

宗教が社会の基盤でなくなったとき、初めて宗教上の自由と平等が実現された。経済が社会的な認知と満足の基盤となったとき、初めて民主的な自由と平等が可能となった。同じように、経済的な平等は、それが社会にとって最も重要なことではなくなり、新しい領域における自由と平等が新しい秩序のもたらす約束となったとき、初めて可能になる。

歴史の構造を一枚の絵で描き切るような一節です。宗教の時代が終わって経済の時代が来た。そしていま、経済の時代が終わって次の時代が来ようとしている。その「次の時代」のために、人間は経済以外の場で自由と平等を求めるようになる、という見立て。

若い世代が「お金よりも意味」「給料よりもパーパス」を語るようになっている現状と、この予言は不気味なほど符合して見えます。

少子高齢化:先進国の「集団自殺」

本書の中でドラッカーが最も鋭い警告を発しているのは、少子高齢化の問題です。

先進国は今、集団自殺しつつある。人口を維持しうるだけの赤ん坊を生んでいない。理由は簡単である。若い人たちが、増大する高年者人口を扶養しきれなくなったからである。重荷に耐えるには、高年者の対極にある子供を減らすしかない。

「集団自殺」という激しい表現でドラッカーは先進国の構造問題を断じました。本書が書かれたのは20年以上前ですが、日本の現状を見ると、あまりにも的確な予言だったと言わざるを得ません。

さらにドラッカーは、資本市場の構造そのものにも警告を発しています。

問題は、資本市場における意思決定権が、企業家すなわち未来に投資する者の手から、受託者としての資産管理者、すなわち慎重の原則に従い過去に投資する者の手に移ったことにある。そこには、これから成長しようとする新しく小さな若い事業を餓死させる危険がある。

年金基金などの「資産管理者」が資本市場の主役になるほど、新しいベンチャーに流れる資金が細くなっていく。若い起業家が餓死する。日本のスタートアップに流れる資金が欧米に比べて圧倒的に少ないという構造を見るとき、ドラッカーの警告が20年以上の時を経てそのまま現実化していることに衝撃を覚えます。

社会生態学:ドラッカーが自らに課した役割

最後に、本書のタイトルである「歴史の哲学」の核心に触れておきたいと思います。ドラッカーは自らを「社会生態学者」と名乗り続けました。その意味が凝縮されている一節があります。

理論は現実を体系化する。理論が現実を創造することは、ほとんどない。

統計に現れるのは過去の事象。

社会生態学者とは、社会という生態系を観察し、そこに「すでに起こった未来」を見出す人のことです。新しい理論を振りかざすのではなく、目の前の現実の中に、次の時代の兆しを読み取る。これがドラッカーの基本姿勢でした。

だからこそドラッカーは、未来を「予測」しようとはしません。未来を「観察」するのです。未来を創造するのだと息巻くシリコンバレー的な語りとは対極にある、静かで、しかし深く力強い姿勢だと感じます。


感想

本書を読み終えて、改めてドラッカーという思想家の射程の広さに驚かされました。『マネジメント』や『現代の経営』だけを読んでいると見えない、もう一人のドラッカーがここにいます。経営学者としてのドラッカーではなく、20世紀という過酷な時代を生き抜いた思想家としてのドラッカーです。

特に印象的だったのは、「マネジメント」「組織」「NPO」「政府」「経済」「人口」という、一見バラバラに見える論点が、ドラッカーの中では一本の糸でつながっているということです。その糸とは、「人間はいかにして自由で、かつ社会的な存在でありうるか」という問いだと思います。この問いは、『経済人の終わり』を書いた若きドラッカーから、晩年に至るまで、ずっと一貫していました。

また、「社会生態学者」という自己規定も面白いと思います。テクノロジー業界にいると、未来を「予測する」「創造する」といった強い言葉に囲まれて生きることになります。しかし本当に必要なのは、目の前で静かに起きている変化を、丁寧に観察し続けることなのかもしれません。ドラッカーのように、流行に流されず、大転換期の底流を見続ける眼差しが大事だと思います。

短い名言の集積であるはずなのに、読後感は非常に重厚でした。一つひとつの言葉の背後に、20世紀の歴史そのものが横たわっているからだと思います。時間を置いて何度も読み返したくなる、静かに強い一冊でした。


この記事で掲載した引用は、Glaspの機能を使ってエクスポートしています。Kindleのハイライトをエクスポートすることに興味がある方は、以下の記事をご覧ください。


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