【創作小説×レシピ】バーチャル居酒屋『酒肴録』第39話: チーズタッカルビとビール
内容紹介
今日の一皿は、甘辛にとろりとしたチーズが絡む「チーズタッカルビ」。
バーチャル居酒屋で繰り広げられる、ビールと心ほぐれる物語、そしてレシピや材料紹介をお楽しみください。
本編
のれんをくぐると、ちいさなせかいにつつまれる。
ことばは酒にほどけ、肴にかたらう。
こんやは、なにが録されようか。
帰りの特急は、駅を三つ過ぎても橋爪輝の心をどこにも下ろしてはくれなかった。車窓に映るはずだった夜景も、ノートパソコンの光に呑まれて輪郭を失っていた。
スーパー本部の地ビール担当として企画した「春のIPA特集」は、目玉商品があっさり別部門に取られ、在庫は膨らみ、販促ポスターは棚の裏に追いやられていた。チーズやピザの横にIPAを並べる提案も、若いのにがんばってるなと笑われるだけだった。
「結局、売れりゃなんでもいいんだよ」
どこかで聞いたその言葉が、まるで自分の声のように耳の奥で反響する。
ふと立ち上がるように席を離れたのは、三つ目の駅で電車が停まった時だった。知らない駅、知らない町、知らない夜。だけど、なぜか怖くなかった。
細い裏路地を歩いていると、わずかに灯る行燈が目に入った。白いのれんには何の文字もない。ただ、その向こうから、香ばしい何かの匂いが微かに漏れていた。
吸い寄せられるようにのれんをくぐると、先客は誰もいない。カウンターの中に立つ男と、静かなまなざしが一つだけ。
「─こんばんは」
「いらっしゃいませ」
それだけで、真城一献は手を止めず、鍋を温め始めた。言葉はそれきり。輝が腰を下ろすと、卓上の水の音だけが静かに響く。
程なくして運ばれてきたのは、赤く甘辛いソースの上にちぎれた雲のようなチーズが乗った、チーズタッカルビだった。
チーズの濃厚な香りに、甘さと、キャベツが焼けた時のあの独特の香り、そしてハーブも混ざっている。
下の方から箸で掘り起こして、熱々のまま口に運ぶ。甘辛いタレを纏った鶏肉の旨みとチーズのコクがガツンとくる。それに自然な甘さが加わる。これは、さつまいもだ。キャベツと玉ねぎと大葉が、濃い味への再挑戦の切符になっている。口の中に何層もの喜びが広がった。
真城は冷蔵庫の奥から一本の瓶を取り出した。グラスに注がれたその液体は、金色にしてやや濁り。柑橘とハーブの香りが立ち上る。
「IPAです」
一口含むと、弾けるようなグレープフルーツのような香りが鼻を突き抜ける。後に残るのは、しっかりとした苦味、でも、嫌じゃない。
甘辛さとコチュジャンの深みを、泡が洗い流す。チーズの濃厚さは、逆にその苦味とぶつかり、また溶け合っていく。
「─うまいな」
ぽつりと漏れた声が、自分のものとは思えなかった。
「このIPA、どこのですか?」
「長野の南のほう、志賀高原です。山の水で仕込んであります」
その言葉を聞いて、胸の奥に引っかかっていた記憶が浮かび上がった。数年前、あのビールを求めて初めて訪れた小さなブルワリー。木の香りが残る店内で、店主が話していた。
「数年前に新聞記者が取材に来てくれてね。苦味がどうこうじゃなくて、“このビールは、飲んだあとに何が残るかが面白い”って言ったのさ。その人の言葉が、なんだか嬉しくって」
名前は聞いていない。ただ、その言葉が、ビールの向こうに世界を見せてくれるような気がしていた。
それが、今ここで、もう一度繋がった。
「─その新聞記者って、誰だったんだろう」
「─ひょっとすると、三谷修平という方かもしれませんね。今はもう、引退されていますが」
輝の独り言のようなつぶやきに、真城は、少しだけ目を細めて、言葉を選ぶように口を開いた。
「言葉っていうのは、不思議ですね。言った本人より、聞いた相手の中で育つことがある」
輝はゆっくりと、グラスのIPAを傾けた。泡の向こうにあるのは、誰かの言葉。確かに残った、余韻。
もう一度タッカルビを口に運ぶと、チーズの粘りが箸先に絡んだ。甘辛い鶏肉を噛みしめるたび、口中に満ちる熱と香り。苦味と旨味の交差点で、ようやく自分の本当の心の輪郭が見えた気がした。
輝は再びのれんをくぐった。二回目は、再挑戦への希望を纏わせて。
真城一献は、輝の背中を見送ると、再び厨房へ戻った。今夜もまた、ひとつの酒肴が録された。
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第40話へ続く…
マガジン: バーチャル居酒屋『酒肴録』
おまけレシピ

鶏もも肉を一口大に切って、コチュジャン、酒を同量、醤油、砂糖をその半量、すりおろしにんにく、しょうがで作ったタレに漬け込む。
フライパンにごま油を入れ、輪切りにしたさつまいもを敷き、その上に薄切りの玉ねぎ、ざく切りのキャベツの順に層を作る。
タレから鶏もも肉を取り出し、野菜の上に並べ、蓋をして蒸し焼きにする。
蓋を開けて残ったタレを回し入れて火を通した後、別のフライパンでスライスチーズなどを熱して溶かし、かける。
大葉やえごまをちぎって散らす。
